2. 失せ人探して
「え……っと?」
ひどく掠れた声が出た。
起き上がろうとして僅かに頭を持ち上げただけで、先細った血管の中を大量の血が無理やり押し通ろうとでもしているかのように頭が痛かった。
方向感覚もなく、天地がひっくり返ったかのように目が回る。
そういうハリウッド映画があったなと、どうでもいいことを考えながら痛みから意識を逸らす。
夢ではないかと目を逸らし続けてきた現在の状況が、痛みによって現実ものであることを認識させられる。
目の前に何も身に着けていない裸の女の胸があった。
なんなら少し頬に当たってさえいる。
酒の席での失敗は数あれど、ここまでやらかしたのは初めてだった。
私は恐る恐る目の前の女の顔を確認する。
それが昨夜酒を酌み交わした女のものだとわかると、やっぱり、という落胆なのか安堵なのかわからない感情が胸の中で交錯した。
「う……? っはよー」
ごしごしと顔をこすって目を覚ました女が、あくびをしなが朝の挨拶をしてくる。
その呑気なしぐさに、女には昨晩の記憶がちゃんとあるのだということを悟った。
尋ねるべきか黙っておくべきか迷って、二日酔いの頭に問題の整理を委ねようとしたが、すぐに頭痛がしてきて今の自分の限界を知る。
途端にすべてが面倒になった。
経緯はどうあれ、私たちは既に一線を越えてしまっているだろうし、それでどちらかを責めるつもりも毛頭なかった。
相手が女だったことには驚いたが、むしろ妊娠の心配もなくてラッキーだと思うべきだろうか。
この年になってまさか人生で1、2位を争うほどのやらかしをするとは思っていなかったが。
女の手から逃れるように上体を起こす。
掛け布団がするりと滑り落ち、自分も裸であることを確認してため息をつく。
「今、何時?」
「えー、8時過ぎかな」
私はよたよたとベッドから落ちるようにして降りると、傍に置いてあった鞄を引っ繰り返してスマホを操作し、登録しておいた番号を呼び出す。
プルプルと音がして、すぐに男の声が聞こえてきた。
「
声が掠れていてよかった、と心底思った。
疑われることもなくすんなりと有給の申請が通る。
年下の上司は8時にはすでに出社して仕事をしている典型的な社畜だ。酒に飲まれて会社を休むなどとは口が裂けても言えなかった。
しかしそもそも、酒に飲まれていなくとも地理的に出社することはできなかったのだが、まあそれはそれだ。
私はふうと詰めていた息を吐くと、鞄にスマホをしまった。
「みっちゃん、ずる休みやん」
「そやね」
なにが面白いのか、どこか弾んだ声で女が言う。
女はスプリングを鳴らしてベッドから降りると、サイドテーブルの上に置いてあった自身の鞄からおもむろに四角い箱を取り出した。
そして引っ張り上げた細い煙草を口にくわえると、ライターで火を付けようとする。
「ちょ、待ちいや」
「なん?」
ちゃんと喫煙ルームやで、となおも火を付けようとする女を制して口元から煙草を取り上げると、ぐしゃりと握りつぶしてごみ箱に放った。
「もったいない……」
残念そうな顔をする女を無視して、私は女を睨み上げる。
「煙草の煙、嫌いやねん」
「禁煙に成功したら煙草の匂いが駄目になる人がいるって聞くけど、みっちゃんもその口?」
「……なんでわかったん」
「煙草の扱い方かな。手慣れてた」
一瞬でそこまで見抜くことができるのかははなはだ疑問だったが、女の言い分は正しかったので素直に肯定する。
「そうや。……親が肺がんになった時にすっぱりやめたわ」
「そうなん。大変やったね」
「お節介やろうけど、ひーちゃんもやめた方がええで」
「ほんま、お節介やな」
すっと冷えた視線が私を刺し貫いていった。
女にとって触れてほしくない部分であることは容易に想像がついたが、感情を制御しきれるほど回復していない頭が私に余計な言葉を言わせてしまう。
「まだ若いんやから、体大事にしいや」
「うるさいな」
苛立たしげな雰囲気を隠そうともしない女がすたすたと私の傍までやってきて、至近距離からじっと見下ろしてきた。
私より背が高かったのかとどうでもいいことを考えながら、まずいことを言ったなと少し後悔した。
殴られるのは嫌だな、とか素性のわからない相手と密室で二人きりなんてよく考えたら危ないな、などと取り留めもなく思考を巡らせていると、不意に女がにやりと笑った。
嫌な予感がする。
そう思ったが、私にはそれを防ぐ手立てがなかった。
「煙草を吸いたくなったらみっちゃんにキスさせて。キス一回で一本我慢する。させてくれなかったらその場で吸う」
——昨夜の記憶、ないんやろ?
私の耳元で囁くようにそう言っていやらしく笑った女の顔はやっぱり綺麗で、そして少しだけ怖かった。
その提案は私にとって何のメリットもないものだった。
女が煙草を吸い始めた瞬間に、荷物をまとめてその場を去ってしまえばいいだけのことなのだから。
だから女が、私がこの提案を受けることはないと予想して、敢えて断るように仕向けていることは明白だった。
だからかもしれないし、単純に自分の言葉に責任を持ちたかっただけなのかもしれないが、私はその提案を受けることにした。
「ええで。キスしいや」
ピクリと体を跳ねさせて驚きに目を見開いた女の様子がひどく滑稽なものに思えて、私は小さく噴き出した。
「なんて顔してんねん。しいひんならシャワー浴びてくるけど」
ふらっと体をバスルームの方に傾けようとしたら、肩を掴まれて止められる。
左手が頬にかかり、女がすっと顔を寄せてきたかと思うと何度かついばまれる。
「一回やったんちゃうん」
「キスを含む一連の行為、に訂正で」
後頭部を掴まれて、口内に女が押し入ってくる。
同時に右手が体を這い、すぐに呼吸が乱れた。
私はこの手と舌の感触を知っていた。
覚えていないと思っていた記憶が断片的にフラッシュバックする。
体の中に埋められた指の感覚を思い出して、腰骨をなぞられただけで体が勝手によじれた。
急速に体内に熱が集まり出して、慌てて両手で女の右手を押さえつけるようにして掴む。
「男しか知らんって言ってたけど、女を煽るんもうまいなあ」
女はくっと眉を持ち上げて余裕ありげな表情をしてみせると、私の体を真っ白な壁に押し付けた。
「崩れんといてな」
それが合図だった。
私は女を制止することを諦めて目の前の首に手を回すと、瞼を落として視界から女の肢体を締め出した。
◇
「鳥居なあ。正直、見飽きた」
女が足早に赤いトンネルのようになっている鳥居の群れの下を潜り抜けていく。
私も遅れまいと足を速めるが、女ほど興味が湧かないわけではないため、きょろきょろと視線を巡らせているといつの間にか女の姿は鳥居の先に消えてしまっていた。
このまま引き返してやろうか。
ふとそう思うも、女とした約束を思い出して躊躇する。
別に破っても誰も怒らないし、誰も不幸になることはない約束だったはずなのに、どうしてか私はあの言葉に縛られてしまっていた。
——キスをさせてくれたら煙草を吸わない。
所詮、知り合って一日も経っていない他人だ。
肉体的にはうっかり接近してしまっていたが、嫌がる女に無理やり言うことを聞かせるほど入れ込みたいと思っているわけではなかった。
けれども今こうして女の旅行に付き合ってしまっている。
ぶつくさと言いながらもこの神社に来ることを選択したのはあの女で、私はそれに従っただけだった。
ふうふうと言いながら階段を登っていくと、女が鳥居の陰に隠れるようにして突っ立っていた。
イライラしたようにポケットのふくらみを叩いている様子からして、どうやら煙草が恋しくなってしまったらしい。
私は前後を確認して人がいないことを確かめると、鳥居の狭間に身を隠しながら触れるだけのキスをした。
なおも不満げな顔をする女を置いて、階段を登っていく。
「こっち」
平らな石畳が見えたところで女に手を引かれて横の細道に入った。
塚の間をすり抜け、二度ほど折れた突き当りに緑色の小さな池が広がっていた。
左端からは社が突き出しており、ここが何らかの聖域なのだということを窺わせる。
「ここに来たかったん」
「ふーん、……新池?」
貰ったパンフレットを広げて池の名前を読み上げると、女が軽く頷いて肯定する。
「『行方知れずになった人の居場所を探す』ことができるんやって。手を打ってこだまが返ってきた方に手掛かりがあるとか。ほんまかな」
「さあ、どうやろ」
女は首を傾げると、ひとつ、柏手を打った。
うわん、と音が広がりどこかで反響して返ってきたが、方向は特定できなかった。
「ようわからん」
「そうやな」
女はそう言いながらもう一度手を叩いた。
今度も前回と同じように音が広がってどこからともなく音が返ってくる。
「あかんな」
ぼそりと女が残念そうに呟いた。
私はその言葉に疑問を覚えて口を開く。
「誰を探してんの?」
「例の彼女」
「普通にお墓参りしたら?」
「お墓の場所、知らんねん」
教えてもらえへんかった、と苦笑する女を見上げて、私はため息をつきたくなった。
それが女にあえてお墓の場所を教えなかった彼女の親族に対する落胆なのか、お墓の場所さえ知らずにここまで来てしまう女の盲目具合に対するものなのかは判断がつかなかったが、少なくともこの残念な状況に対する私の思いが詰まっていることだけは確かだった。
「挨拶もできんような女に教えるものはなにもない、って言われてしもてな」
ぼんやりと池を眺めていた女がぽつりと言葉をこぼした。
私は続きを促すように沈黙で応える。
「失顔症って知ってる? 人の顔を覚えるのが苦手な人のことなんやけど。私、軽くそれなん。いつもは名刺の裏や手帳にその人の特徴書いたりして頑張ってんねんけど、初めて彼女の親戚に会った時は緊張してて特徴書き忘れてしまってな」
自嘲するように笑って、女はポケットの中からスマホを取り出して私に画面を見せてきた。
「これ彼女。多分みっちゃんに全然似てへんやろ?」
画面に映ったにこやかな女は確かに私の顔とは似ても似つかなかった。そもそも顔の系統からしてだいぶ違った。
「似てるって言ったんは全体的な雰囲気のことやねん。それは私にしかわからん感覚なんかもしれん。でも、めっちゃ似てるって思ったん。……一瞬、帰ってきてくれたんかと思った」
そう言って女は寂しげに笑った。
私はその表情を見て一瞬だけ躊躇って、迷った末に女の手を取った。
「帰ろ」
私に手を引かれるままに、女が無言で後をついてくる。
名物の葛切りも無視して電車に飛び乗ると、足早にホテルに帰った。
女が連泊で頼んでいたおかげで受付を通すことなく部屋に入り、扉を閉めると女の唇にひとつ、キスを落とした。
ブラウスのボタンを外して細見のパンツを引き下ろす。
下着姿にされてさえも女は何も言わなかった。
そのままベッドに誘導しようとして、服の裾を掴まれる。私もさっと服を脱いで二人でベッドを軋ませた。
私のしようとしていることが正しいことなのかはわからない。
むしろ世間一般の倫理に照らし合わせてみれば、いけないとされていることの部類に入るのだろう。
けれども二人とも、そんな倫理はただの集団幻想だということはよくわかっていた。
私の下で女が艶めかしく呻く。
男の快楽は想像でしか測れなかったが、女のそれはひどく身近で感覚的に理解することができた。
私の感じるところが女の感じるところで、女が感じていると私もそれを感じた。
まるで安っぽいマッチポンプのようだと思ったが、私たちにとってそんなことはどうでも良いことで、互いから感じ取れる熱だけが全てだった。
女の中にゆっくりと潜っていく。
深く、どこまでも落ちていって、柔らかな場所を探して動き回った。
女はいつの間にか泣いていた。
嗚咽もなく、ただはらはらと透明な液体を零し続けている。
綺麗だと、素直にそう思った。
誰かを思う姿がこんなにも他の誰かの心を打つなんて、私はその時まで知らなかった。
恐らく今までも目にしてはいたのだろう。
ただ、恋人であったり夫婦であったり、いろんなラベルを貼られて目を眩まされていたに過ぎない。
愚者は経験から学ぶとはよく言ったものだ。
私は典型的な愚者だった。言われても、体験するまでは心底理解することができない。
女の腕が伸びてきて、私を柔らかく包む。
乱れ切った呼吸が私の頭に当たって少しだけくすぐったかった。
女が知らない名前で私を呼んだ。
それに一抹の寂しさを覚えながらも、私は慣れない動きをしてつりそうになっている腕を必死で動かした。
もう会えない。
そのつらさは嫌というほどわかる。
女だって私がまがい物であるということはちゃんとわかっているはずだ。
だからこそ、この瞬間を止めたくないと思った。
額から汗が流れ落ち、女の肌にぽとりと落ちた。
その瞬間、女が高く鋭く鳴いて私の体を強く強く締め付けた。
いつの間にか私も女と同じように荒く息を吐いていた。
二人分の熱が部屋を満たし、生じた雑多な音は反響することなく吸い込まれるようにして部屋の中に消えた。
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