N700系 21:12発 (新大阪行)
三笹
1. 知るも知らぬも逢坂
ごっ、と音を立てて車体がトンネルの中に入った。
途端に耳の奥が圧迫されて、慌てて小さく唾を飲み込む。
がたがたと細かく振動する車内。
左側前方にはサラリーマンがノートパソコンを広げながら仕事をしていて、酔いそうだなと他人事のように思った。
遥か前方、突き当りの扉の上にはひっきりなしに白色の文字が流れ、こんな移動時間でさえ何かしらの情報を私たちの脳に埋め込もうとしているようだった。
ひとつ、あくびをする。
窓の外は暗い。
今走っている場所がトンネルの中なのか外なのかはパッと見ても判断がつかなかった。
暗い窓を覗き込んで自分のむくんだ顔から目を逸らしてようやく街灯の明かりを見つけ、いつの間にかトンネルを抜けていたことを悟る。
夕飯はとっくの昔に済んでいた。
前の座席に付けられたくたびれたネットの中に強い炭酸が売りのペットボトル飲料を入れておいたが、キャップを開けても二酸化炭素の躍動は少しも感じることはできなかった。
東京を出て1時間半以上が経ち、ぽんぽん、と数少ない停車を知らせる車内アナウンスが流れる。
数人が席を立ち、億劫そうに荷物棚からトランクを下ろしたり服を整えたりしている。
誰も何もしゃべらない。
それなりの人が乗っているはずなのに、咳ひとつ、呟きひとつ聞こえなかった。
じっとりと身にまとわりつくような疲労と、1日中掻きまわされ続けてきた汚れた空気が人々の口を重くし、体にのしかかっているようだった。
車体が停止する。
窓からは不自然なほどなまっちろい蛍光灯の光と、閑散とした構内が見えた。
扉が開く音がして、がたごとと誰かが乗り込んでくる音が聞こえる。
2号車、自由席。
席は空いていた。
扉が閉まり、再び長大な車体がずるりと地面を滑り出す。
すぐにスピードに乗った金属塊はぐるぐると地響きを立てて大地を駆った。
こんな終電間際の特急に飛び乗る必要などまるでなかった。
私の帰りを今か今かと首を長くして待っている人はいない。それを望んだこともあったが、性格なのかどれも全くうまくいかなかった。
なぜ私がこの列車に乗っているかという理由は、私の方が教えてほしいくらいだった。
特段嫌なことがあったわけではなかった。
いつものように仕事をこなし、年下の上司に気を使われながら退社し、そしてなぜか足の向くままここにいる。
数年前に両親が他界し、つられる様にして妹を亡くした。
運がなかった、と言われればそれまでだが、病院のベッドの上で日々やつれていく妹の姿は見るに堪えなかった。
最期はやせ細った体にたくさんの管を繋がれて、小さな子どもと夫を残して旅立っていった。
どうして私ではなかったのかと考えなくもなかったが、身代わりに逝ってやるほどお人好しでもなかった。
ただ少しだけ、残された夫と子どもの世話を焼いて罪悪感を和らげるような真似をしてみたりもしたが、重くなった心は少しも軽くなってはくれなかった。
闇夜を抜けて列車が走る。
窓からは街灯以外にも飲食店の看板やマンションの外廊下に取り付けられた照明が煌々と暗闇の中に浮かび上がっていたが、ゴーストタウンのような雰囲気を醸し出しているだけだった。
人によっては安らかな夜なのかもしれない。
不安で眠れない夜でもあるのかもしれない。
私にとっては日常の伸び切った夜だった。そしてそれを断ち切りたいと願った夜でもあった。
ぎしり。
座っていた座席が音を立ててたわんだ。
ふわっと涼やかな香水の匂いがして、私は窓の外にしか割いていなかった脳のリソースを慌てて隣へと振り分けた。
綺麗な女だ。
浮かんだ感想は陳腐なものだった。
もっと切れ長の目元だとか品よくとがった顎だとか言及する部分は多々あったけれど、どれも的を射ていないような気がして言葉にはならなかった。
女がこちらを向く。
目が合って、軽く会釈をすると女は口角だけを吊り上げて薄く笑った。
怖いな、と思った。
綺麗の次は怖いなどと、ずいぶんと目まぐるしく変わる印象だと思いながら、外見に気をとられて気が付かなかった女の行動の不自然さを思い出す。
席は空いているのだ。
2人席でも3人席でもひとりで使い放題の状況で、私の隣に座る意図がわからなかった。
ふっと数年前に起きたとある列車内での刺殺事件を思い出して、背中を悪寒が駆け抜ける。
席を移動しようと心に決めて、身を固くしながらタイミングを窺う。
女はすっかりとくつろいでいる様子だった。
いつの間にか手に持っていた瓶を傾けて、透明な液体を直に煽っていた。
「え……っと」
驚きに思わず声が漏れた。
女の手の中にある瓶のラベルには、思ってもみなかった渋い筆文字が躍っていたのだ。
そればジュースなどの可愛らしいものではなかった。それは
「飲みますか?」
「結構です」
女が軽やかに声をかけてきたが、とっさのことに素気無い言葉を返してしまう。
「口をつけてないものもあるので、よければどうぞ」
女は私の刺々しい口調を気にする様子もなく、何重にもなった紙袋から手に持った瓶と同じパッケージのものを取り出してこちらに差し出してくる。
「仕事の関係で貰うんですが、いつも余ってしまって困っているんです」
女が営業スマイルよろしくきれいに作られた表情をして小ぶりな酒瓶を手渡してくるものだから、私は「はあ」とも「ほお」ともつかない気の抜けた声を出してそれを受け取ってしまう。
「ささ、そのままぐいっと」
両の手のひらを上に向けて持ち上げるという芝居がかったしぐさをされて、私の困惑は簡単に頂点に達した。
「飲みませんし、要りません」
そう強めに言ってみたが、いかんせん私の右手には女から押し付けられた酒瓶が握られており、全く恰好がつかなかった。
断られても意に介さない女がそれで引くはずもなく、女の手練手管に乗せられた私はあれよあれよという間に酒瓶に口をつけさせられていた。
◇
「みっちゃん京都に住んでたん? 私も実家が東福寺の近くやねん。奇遇やな~!」
ん、と違和感を覚えた時には遅かった。
女の手が馴れ馴れしく私の肩を叩き、旧友のように滑らかに会話が進んでいく。
ちなみに私の名前にはみっちゃんの要素はない。私が右側に座っていたというただそれだけの理由でそう呼ばれている。
「京都の代々続く家柄ってやつ? ひーちゃんええとこのお嬢さんなんやな」
私はお酒に弱かった。
私だけではなく家族や親戚も一様に弱かったから、これは完全なる遺伝子の仕業だった。私のせいでは断じてない。
ちなみに言うまでもないことだがひーちゃんとは私の左側に座る綺麗な女のことであり、外見によって醸し出されていた品の良さを芸人のような口調と大げさなしぐさで台無しにしている若い女のことだ。
「ちゃうちゃう! 濃い~ご近所付きあいにひいひい言ってたただの庶民やん。まあ? 生粋の都会っ子という意味では否定しいひんけど?」
勢いの乗った身振り手振り、加えて変顔を披露しながら女がぺらぺらと喋っている。
私も負けじと女の軽やかなボケに突っ込んでいると、ポンポン、と慣れ親しんだ音が車内に響いた。
女がはっとしたように顔を上げて荷物棚を見やる。
車内に響いていた私たちの大きな声が収まり、かつて感じていた疲労の色の濃い空気が辺りを再び支配し始める。
「私は新大阪やから。またね、ひーちゃん」
私の言葉に女が眉間にしわを寄せて難しい顔をした。
私たちの間に落ちた沈黙を気にすることもなく列車は減速を始め、するりとホームに停車する。
私はにこやかに手を振って、恐らくもう二度と会わないであろう女を見送る準備をする。
その瞬間、がしりと手首を掴まれた。
「行くで、みっちゃん」
「あ」とも声を発せないまま手を引かれて、私はあっけなく白い車体から引きずり降ろされた。
「なにすんねん」
手首を強引に振って女の手を外すと、私はぷしゅっと音を立てて閉まった扉を恨めし気に見やった。
「新大阪やって言ったやろ」
「新快速ですぐやん。まあ、もう少し付き合ってえや」
にかっ、と並びのいい歯を見せて女が笑う。
特段予定があるわけではなく、泊まるホテルも決まっておらず着替えすら持っていなかったが、女の身勝手な行動は癪に障った。
「お金は一切出さへんで」
そう言い捨てて、がらんとしたホームを足早に歩く。
「ええで」
すぐに追いついてきた女が私の手を取って先導しようとするが、私はその手を乱暴に振り払った。
「暑苦しいわ」
「学生みたいで楽しいやろ」
女の頭に私の言葉が響くことはない。
振り払った手を強めに握られて、私は諦めたようにため息をついた。
女に連れられて改札を出ると駅ビル内をぐるぐると歩き回り、とあるバーに連れていかれた。
店内を横切ってカウンターの端っこに腰を落ち着けると、女がさっそくとメニューを開いて私に押し付けてくる。落ち着いた店内にそれなりの値段のお店であることが窺われたが、私は女の差し出してきたメニューを見もせずにマッカランをロックで注文する。
「様々な年代を取り揃えておりますが、いかがいたしますか? ファインオークやレアカスク等もございますが」
「……おすすめをください」
「あ、私も同じので」
顎髭を渋く揃えたバーテンダーが綺麗に一礼して背後のガラス張りの棚から2つのグラスと巨大な氷を取り出すと、ザクザクとアイスピックで削っていく様子を恨めしげに眺める。
「みっちゃん、かっこつけんでええんやで?」
女が少しだけ憐れみを含んだ目でちらりとこちらを見やった。
私は何もわかっていないとばかりに首を振る。
「こういう場所ではかっこつけるもんやろ」
「そう? そのまんまでええと思うけど」
女は平気な顔をして出されたナッツをポリポリと噛み砕いている。
「これだから」
最近の若者は、と続けようとしてあまりの言葉に口をつぐんだ。
見事なテンプレート発言をしようとした自分にげんなりする。
「なに? なんか言いかけた?」
「なんもない」
女が不思議そうに問いかけてきて、すぐに否定する。
「みっちゃん、すぐ思ったこと口にするからおもろいねん。ね、なんやったん?」
「うるさいな。人を考えなしのアホみたいに言わんといて」
けらけらと笑う女につられて私の顔も次第に綻んでくるのがわかった。
ことりと僅かな音を立てて置かれたグラスを手に取ると、示し合わせたかのように軽く掲げてからちびりと口をつけ、舌の上に琥珀色の液体を転がした。
喉の奥が焼け付き、鼻腔を木の香りが通り抜けていく。
「京都になんの用やったん?」
ひとしきり蒸留酒の香りと滑らかな舌触りを楽しんだ後、私は隣でにやつきながら酒を煽っている女に問いかけた。
「一周忌やねん」
それだけ言って、女は丸みを帯びたグラスを手の中で弄んだ。
明るく機嫌のよかった横顔が心なしか暗く沈んだように見えた。
「そうなんや」
悪いことを聞いたとは思わなかった。ただ、深入りをしようとは思わなかった。
それがこの場のルールだと思ったからだ。
「みっちゃん、その人に似ててな。あっと思った時には隣に座ってしまっててん」
女は私の気遣いを気にすることもなく、個人的な事情を躊躇いなく話し始める。
「命日はちょっと前に過ぎてしまったんやけど。それでも彼女に会いたくて無理して特急に飛び乗ってきてん」
結果的に大正解やったわ、と顔をくしゃっと崩して女が笑った。
その子どものような表情に、私はわずかな疎外感を覚えた。
私が死んだとして、それでも私に会いたいと願ってくれる人は果たしてどれだけいるのだろうか。
そんな不毛な問いかけが頭をよぎる。
逆の立場で考える。
亡くなった両親に会いたい。妹にもできれば会いたい。
だが、女の言った感情は私のそれとはまた違うもののように感じられた。
少しだけ、女とその彼女をうらやましく思った。
「やからちょっとだけ、手つないでてくれん?」
女が困ったように眉尻を下げて言った。
ずるいな、とは思ったが、断る理由は思いつかなかった。
素知らぬ顔をしたカウンターの下、左手を軽く開く。
女からは見えるか見えないかのぎりぎりの位置だったにもかかわらず、すぐに暖かな手が伸びてきて、その手をぎゅっと握られた。
その瞬間、一瞬だけ息が詰まって、ごまかすようにグラスに口をつけた。
「ありがとう」
女が小さく口にした言葉は、イントネーションがおかしかった。
語尾が尻上がるわけでもなく、山なりの弧を描くわけでもなく、どっちとも取れるようでどっちとも取れない音。
図太いと思っていた女の動揺する姿を見て、不意にかわいい、と思ってしまった。
「かわいい」
そして思ったことをすぐに口に出してしまう私は、その言葉を簡単に表出させてしまう。
それが一線を踏み越えてしまった瞬間だったとは、その時の私には知る由もなかった。
記憶はそのあたりから徐々に曖昧になり、気が付けば私は女に抱き込まれながらホテルの一室で朝を迎えていた。
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