熱
@hosikagami
熱
戦闘の音が遠ざかっていってようやく、若い衛生兵は顔を出した。戦闘中は死体で作った山に隠れ、ガタガタと震えていただけだったが、その体は全身に血を浴びて、新品の制服をすっかり重くしていた。
「うっ……」
近くで声。
ヒョロりとした手が上がった。
彼は慌てて駆け寄り、無我夢中で言葉を紡ぐ。
「おいっ、しっかりしてくれ」
手を握り返し、全身を見る。その兵士の腹部には穴が空いている。そうしてそこからドグロドグロと血が溢れてきていた。それはあっという間に致死量に達するだろう。
「今すぐ止血する、助ける、助けてみせるから……」
衛生兵は彼の服を剥ぎ取って鞄に手を伸ばす、
「そんな事はいい!」
ビリビリと空気を引き裂く音は目の前の、瀕死の彼が出したものだった。その声に、衛生兵の手は反射的に止まる。
「紙と、ペンを取ってくれ」
縋るように手が伸び私の腹を引っ掻く、
「いけない、言葉が、こぼれ落ちる、こんなにも湧いているのに、満ちているのに、残せない。」
その言葉を聞いた途端、私の中で何かが爆ぜた。
熱にうかされるように紙とペンを持ち、恐ろしくて仕方がなかった筈の、グロテスクな死体の背中に紙を置いた。その口から落とされる言葉の全てを書きなぐるために、全てが動き始める。
「体中が冷たくて、暑い。」
「グルグルと回って、今にも吐きそうで、それが心地いい。」
「私は、生きている、その事が心の底から分かる、ああ、分かるとも、」
男は苦しそうに砂を掴んだ。
そして、男の手のひらは流れた赤黒い血でベッタリと覆われる。
「世界が、変わる、無くなる、中身が、いなくなる。」
「走りたい、どこまでも、」
まだ、伝えたいことが、残したいことがたくさんある、己の手がにくい、何故こんなにもとろまなのか、もっと早く、もっと早く、急かすように動かとその字はミミズのようになっていく。
二人は、大きなうねりの中にいた。
それはまるで着実に地面を流れる溶岩のように、マグマのように、熱したまま、決して冷めることは無く、流れる先にある全てを押し流し、同化させ、破壊し、存在を消していく流れであった。
無くなることを恐れるようなそんな弱っちいものでは無い。
だが、喰らい尽くすことを止められず、どこまでも進んでいく。
彼らはもう、この世にはいなかった。
いや、正確に言うと彼らの魂はと言った方がいいかもしれない。
頭から、心から溢れてくる言葉という言葉は、彼ら個人の考えなど、あっという間に埋めつくした。
視界は赤く染っていたが、そんなものは見えていなかった。
再び銃声が大砲が断末魔があちらこちらで上がっても聞こえなかった。
彼らの目はギラギラと光り、呼吸すらも忘れてしまったように喋り、書き続けた。
「いけない、まだ、終わっては……」
そう言って男が息を引き取る。衛生兵はその事に一瞥もせず、まだ書き取れていない言葉を書き出す。
『まだ、終わっては……』その文を書いた時、衛生兵もようやく、ふっ、と息を吐いた。
そうして空を見た。灰色に染ったその空を、、眺めた。濁流はもう無い、ここはあの熱が無い。
その衛生兵にとってはもはや、そこにいる、生きているということが不思議な事になっていた。生きていなかったあの熱の中にいない事が、不思議な事になっていた。
「あの場所へ。」
衛生兵はポツリと呟いた。
帰ってきた、という気はしなかった。むしろ、またやって来てしまった。
そんな気さえした。
衛生兵は、バッチを剥ぎ捐て、ただの男になった。男には、共に熱中した仲間の死体など見えていなかった。
ただ、走り出した。
荒野には死体がごろごろと転がっていた。
もし、彼が始めの正常な心を持ち合わせていたとしたならば、一生のトラウマとなり、今ここで気を失うほどの光景がそこにはあった。手がちぎれたまま散らばり、人特有の腐敗臭を放つ死体が山のように積み重ねられ、目玉を抉られた将兵が手を伸ばしたまま死んでいた。
しかし、彼は正常では無かった。
道を塞ぐ死体を乗り越え、時に踏みつぶしたまま、全身に血を塗り重ねて走り出した。
この熱を、誰かに伝えなければ、ただ、それだけを考えていた。
怒りではない、悲しみでもない、その時彼をつき動かしていたのは彼ではなかった。
やがて、走れなくなると、彼は倒れた。
再び熱の濁流が襲ってくることは、ついぞ無かった。
熱 @hosikagami
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