第二章 時は流れているか バートミュンスター まで  その3 決意の信仰修行

ーーなおも西暦2016年(71歳になる年)ーー


 平成二十八年二千十六年に入るときには、瞑想の仕方、内容について手順が決まり、なお物質世界、精神世界、さらに神的世界の在り方についても考えたが、そのときに宇宙や量子についての知識と関連づけることが肝要だった。少なくとも九次元を示唆する超ひも理論は、とりわけそのエネルギーの色と音、振動に置いて真奥の在り方を示唆していると思った。


 山あり谷ありの夫婦関係において、突出すべき認識を得たのは一月二十一日である。夫のいわゆる情けない最低の言動は念の影であり、世界中にそれを見ているのは私だけであるので、もし私さえ見なければ存在しない黒い影なのではないか? 昨年十一月三日にも感じたことが、一層皮肉な事実として心に残った。



 輪廻転生も含めた精神世界までは人間の脳の産物であろう、しかしそれと実相の世界との関わりを理解するのは実に困難である。私の頭脳はフル回転し、瞑想はフルパワーとなっていた。両の手のひらに心地よい圧力が生じた。すると、過度の集中と覚醒のために眠れなくなった。


 一月は一人で瞑想を探求したり、これまでのかかりつけ医に不眠と不整脈の治療も受けていた。

 そして二月八日、完全に眠りから見離されたのである。


 二月十二日、一月は行かなかったのだが、このためにまた石橋鍼灸院の扉を叩いた。すぐさま、私の不眠が治療の対象となった。


 翌日二月十三日、珍しく孫と息子と楽しく公園で過ごしている時、あろうことか、私は目の高さにあった雲梯に頭をぶつけて、倒れてしまったのである。そして、あろうことか例の長谷川病院外科へ診てもらいに行った。外科医は前回と同じく人間味のある人物だった。


 そして二月二十二日、JBが咳で眠れなくなり入院となった。もちろん長谷川病院内科へ入院させてもらった。この時からJBは一滴もアルコールを飲まなくなった。長谷川病院はそれゆえに忘れられないところとなった。


 翌日二十三日、また計らいが待っていた。

 父がいつも読んでいた「生命の実相」が一冊だけ鍼灸院の本箱にあった。何となく私も読んだりしたものだが、理解したという程度だった。相手の中の神様を拝み出す、という教えが昔は結局、JBのわがままを助長したのみだったようにも思われるのだが、今はこの偶然ゆえに新たな目でその本を手に取ったのである。


 その翌日朝も夜も涙が流れた。JBが可哀想でたまらなくなったのである。それは感情の流出で、自分のコントロールを外れた涙であった。


 三月には、当然の疑いが生じた。なぜ念の影が生じるのか、脳は真理を認識できるのか。この存在をあらしめている法則、真理があるのは確かだがそれはどんなものか。

 続々と、本が現れてきた。「アドラー心理学」「量子力学で生命の謎を解く」

 しかし、現実の生活はまだ整わない。昼夜逆転のJBは相変わらず不眠を助長する。しかし、私の祈りも負けずに行われた。


 四月二日、映画「マトリックス」を思い出した。この脳のみが物質であって、肉体や環境や愛や生命があるかの如くに幻の世界を感覚に感じさせている。

 もがいても、どうしても理解には限度がある。


 突然私は希望を見失い、鬱の波に襲われた。しかし茂木健一郎「生きて死ぬ私」に同じ文章があるのに驚く。

 脳神経の役割は何か。宇宙は自らの法則を数学で知りたい? あるいは、脳は幸や善のためのもので、不幸や悪は意識的に克服、ないしは選択すべきである、それは人間に与えられた自由である。

 殺生という悪があるのはただの幻である。実は原子がその密度を移動しているだけである。


 桜を仰いで歩いていたら、桜の枝が花ごとどさっと足元に落ちてきた、私の数少ない喜びのために。


 四月八日の思惑、神の姿を見つける努力に人間が駆られているのは、すなわち、神が見つけられたがっているのだ。

 夫婦としての苦しめ合うのは、お互いが一族のキリストであり、贖罪をしつつ神を見つけて、浄罪を果たすためであるとか?


 四月十日の思惑、人を嫌悪するとは恥ずかしいことではないか、と誰かに問われる。

 自分の脳の位置に、幾層もの他の意識が重なっているはずだ。それほどの不思議の能力は備えているだろう、宇宙の法則は。

 しかしながら、この物質すらもほぼ無、空であり、無に等しいものだ。実在というより、光り輝く粒子の光、色のエネルギーのはずだ。それのみが実在だろう。


 四月十四日、十六日、熊本地震。 

 地震ともに、ついに四月十六日が来た。

 この日、鍼灸の石橋院長が勧めてくれた本。「この本に多くが救われた」著者 津留某氏 近代人の孤独な自我意識に疑問符がつけられていた。それを失うのは我慢できないような気もするが、まさにそれが要請されていた。


 二十二日 精神安定剤コンスタンを医者から貰う。奇跡的によく効く。私に必要だったのは、睡眠剤ではなく安定剤だったのだ。


 五月一日、柿の実落ちる頃にまたなった時、やめたり始めたりしていた鍼灸院の本箱に見つけた「精神世界を歩む勇者たち」 同時に見つけたのは、津留某氏がその本の中で運命の出会いと語っていた「神との対話」であった。私の軽薄さにより、すぐに何かが降ってきた。


 散歩に出たとき尋ねた。何をすべきだというのだろう、この世界で。すると「夫を護ること」とイネ科の葉っぱを見ながら思った、降ってきた。それが自分の使命であったのか、逆らい非難し、苦しめられているとのみ考えていた。全て逆であった。可哀想な人よ。夫という言葉と護るという言葉がこんな風に結び付くとは、ただ驚き、ショックだった。


 平成二十八年二月の入院ののち、それ以来、夫はアルコールを断ち、やがて自分のなすべきことができるようになった。四月には私の生活が暮らしよくなり、ハラスメントの問題も随分無くなってきた。彼を信頼して、自由に接している自分がいた。「新しき啓示」「神へと帰る」怒涛のように神との対話に耳を傾ける日々だ、瞑想の代わりと思う。


 五月十三日、昔統一教会と名乗っていたグループが今は家庭連合会となって、最寄りの駅前に立っていた。JBが若い頃に友人であった天才学者が、今は問題解決の専門家になっていたことがわかる。関係性の改善の秘訣を学問的に解明したらしい。これも手引きとなるのかもしれない。




八 

 問題解決の鍵は、自我を薄め、相手を愛するというテーゼである。自分が損をするなどという懸念は不必要だ、なぜならば、人間に足りざるはなく全てすでに十分に与えられているからだ。他に与えることほどの至福はない。そこに幸福感が生じるのだ。


 「神」の定義はこれ以外にない、すなわち「在りて在るもの」すなわち「全て」であるので人間もその一部であり、ひとつである。霊的な、神聖な霊性の存在である。神の能力の縮小版だが、創造する力は同じく持っている。


 その方法は、思うものが念ずるものが即刻現実となる。それを体験する。体験して誠の自分を知り、喜びを感じることがこの生の目的であるが、気をつけないと(知らないままに現在まで来たせいで)間違ったことを思ってしまう。ネガティブなことを。

 その原因は、これまでの宗教が、人間を全き神の子とは教えず、どこか罪を犯した劣った存在だと教えたからである。人間は神の愛を信頼することができない、そんな愛に値するとも思わない、卑下してお互いを批判する。神のいわば懐に飛び込むことができるか、そこが自由意志の使い所なのだ。

 神は恐るべき存在ではなく、畏れ多い存在ではなく、無限の愛と能力の提供者である。


 ただ、神が自分の存在に自足するだけでは、神そのものの喜びを相対化して認めることができない。そこに物質世界が不可欠のもの、一体のものとして生じたのである。

 分化されたそれぞれの喜びと神性を被造物が感じることが、生の目的と意味である。


 それはすでに成就されているのだが、既存の宗教の(人間の我欲の?これを克服できないのは何故、自由意志?)神の定義がネガティブであったため、人間のネガティブな念が現実に反映されてしまった。


 本来ならば、生の完了(個々の神性と喜びを体験し自分が神の子であると知る)が死である。それは次のより高いステップに登るための喜ばしい、一時的な安心の時期に過ぎない。果てしなく進化してより神性になっていくこと、それが霊界の動きであるので。


 神は呼びかけられると、神の家に帰る道への道標を告げるだろう。ただあなたがそれに気づくほどに進化していれば気づくだろうが。いずれにしろ、道標は十分にいたるところに与えられている。ただ、自分でそれを辿って戻ってくる、それはあなたの仕事だ。


 神と人間との働きの分担はこんな感じだ。二つで一つであり、分離されたことは決してない。だから安心して、無限の愛を受けなさい、そして喜びなさい。神とそれを表現するこの世を称えなさい。称えることで歪んだ世界像が本然の神聖な姿に見えてくる。



 まあこんな風に私は理解した。輪廻転生はあるらしい。

拙作「いづこへか舞ひて流るる花や花 輪廻とはうまく考えたものだ」


 こんな話がある、事実だそうだが、ある夫婦にどうしても子供ができないので、乳児を養子にした。ところが間も無く実子が授かったのだが、夫婦は区別無く愛情を持って育てた。長男には養子であることを伝えておいた。

 学校に行くとそのせいでしかしからかわれるようになり、親子共々悩んだ。息子は実の親に会いたいと切望した。親がいることを見せたかったのである。両親は悩んで、18歳になってまだその気持ちでいるのなら探して会わせてあげると約束した。

 その時が来た。しかしその当日息子は事故で亡くなてしまったのである。悲しみと後悔に苛まされて彼らは祈った。

 あるメッセンジャーが彼らに告げた。「宇宙を統べる大いなる智慧と愛により、あなたがたの長男は実の母親に会えましたよ、彼女はすでにあの世にいたのです。死は苦しいように見えても、悲しいように感じても、一つの死をめぐる人々にとって、実は体験すべきなんらかのそれぞれの意味を送ってくれているのです。死は、終わりということではなく、生の課題を終えたという卒業の意味を持ち、かつより高い生命として再生するための出発点でもあります。同時にさっきも言ったように、その死に関わる全ての人にそれなりの深い意味を教えてくれる契機でもあるのです。さらにあなたがたの長男は亡くなったけれど、すでにそれを見越して次男が与えられていたのです。」


 神の仕組みは完璧だ。私たちを離すことは無く、しかも離して体験させ、個別の実感として各自が神と同じであり、離れてはいなかったことをわからせてくれる。


 この後も、私の冒険は(宇宙の摂理、自然法則、愛と喜び、存在の意味探求)苦しみと驚きと微笑を伴って続いていく。その様子を以下にブログ風に記録することにしよう。


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