希少率0,8%木原東子の思惑全集 巻7 あなたも知りたい筈 「揺れる水面」「時は流れているか バートミュンスターまで」「光はプラスマイナスで進む」「さらば 平成ヤマト」
第二章 時は流れているか バートミュンスター まで その4 デジタルの波に乗る
第二章 時は流れているか バートミュンスター まで その4 デジタルの波に乗る
十 転調:年寄りの冷や水、やってみんきゃわからん
ーー時は流れていないようだ、いまだに2016年末、ここまでを振り返りつつ始めたブログ集ーー
*20161224「 この夏71歳、父がこの世を後にした年齢となった」
ここ1年、紙の媒体に自分の手で(当たり前なことに)、心のうちのすったもんだを(紫色の瞑想帖に)書くようになっていたのだけれど、その他の諸々のことも、書きたくなったような気がしてきて、まかり出てきた次第でござりまする。
今日は、何と言ってもMrs K.のことをこの世に残しておかなくちゃ。
K.と言えば、知る人ぞ知る、カフカの登場人物K.を思い浮かべる向きもあろう。不条理の謎の世界で不可能の壁にぶち当たっているK.。
でもご安心、そんなことはとっくに克服したMrs K.なのである。彼女はお隣さん、72歳でお掃除のお仕事を(さる有名な会社)生き生きとなさっている。
夫の長患い、自身の抑うつ、息子の結婚問題、などが重なった年月ののち、Mrs K.は突然(かどうかは、そこまでは不明)不死鳥のように蘇って、65歳間際で職を得た。それからは自信に満ちた生活となったとか。
細身の体はよく動く。くるくるした瞳、ボーイッシュな短髪、真っ白な歯並。清潔に掃除することが楽しく美しい。
~~~~空想癖発揮 Mrs K. 語ると役割を仮託して~~~~
2011年の震災の日に、隣に引っ越してきた夫婦者のことが、どうも気になった。夫は外国人だというが、彼女はその姿を見たことはない。見たという人もいる。時には車がないので乗って出かけたのであろう。
道の反対側の菜園の所有者と隣家の妻とは気軽にしゃべっているようだった。そこからの情報でMrs K.は隣家の内実が、夫の病気も含めかなり精神的に逼迫しているらしいと感じた。
一度か二度、垣根越しに話をしたのみだったのだが、何とない親和力から、Mrs K.はこう話しかけた。
「田村さん、お隣同志なので連絡できるようにしておきませんか、電話とそれにメールもできるように」
その頃、市の方から災害が起こった場合のため、近所で人手の足りない家を把握したり、お互いに頼んだりしておきましょうという呼びかけもあった。第一、彼女の息子は市役所の人だったのだ。
で、田村夫人にも渡りに船、すぐに連絡網を作った。
間も無く、図書館に行きませんか、お茶しませんか、とMrs K.が始めた。喜んで、待っていましたと田村夫人も応じた。
~~~ここで語り手が私に戻り~~~
こんなわけで、付き合いが始まり私、田村夫人にはまるで菩薩のようなMrs K.なのである。買い物、通院、図書館、ガスト、郵便局に銀行、コンビニ。
ちょっとした物々交換ももちろんあるのだが、それがお世話になったから云々、という贈答文化によるものではなく、本当にあげたいから、もしよければ差し上げる、というやり方であった。それは私の大好きな方法である。
そのやり方に従い、私が最近彼女に差し上げたのが、手作りの黄色い小さな、中身は真っ白いメモ帳(というには厚い作りで、紙の質がしっかりしている)である。私も実は人からもらったのであるが。
絵を描くのが好きだった、というMrs K.なので、ちょっとしたスケッチでもどうだろう、と私は考えていた。
今日は、江戸時代から続いたという大市が開催されていた。天気もよし、風もなし、私たちは語らって、車ではなくバスで出かけた。100円の乗車賃、私の普段の足である。
昔、とは言わないまでも30年前までは、近隣の農家や工具屋が生産物を持ち寄って(何しろスーパーもコンビニも十分にはないという時代)、年越しに必要なものを売り買いしたわけである。
今ではそんな目的ではなく、食べ物の露店、フリマ、若い踊り子、おばあさんのフラダンス、楽器演奏、と老いも若きも楽しげにしている。
私は、
Mrs K.は、同じブローチの他、孫に頼まれた食べ物をかなり買い込んだ。みな孫には目がない。
近くにドトールがあるので、入る。Mrs K.は一人でお店で食べるということに抵抗があったようだ。私は平気なので一緒に彼女の冒険を手伝える。
そこで、黄色い手帳を彼女は取り出し、パラパラと私の目の前でページを繰った。10センチもないほどのページには蟻のような小さな文字が並んでいた。
驚いて、なになに?と目を近づけるとそんなに小さいのに、くっきりと精確な文字の線が見えた。そういえば彼女は0、3ミリのペンを色を揃えて持っていると言ったことがあった。
「実は、隷書体、というのが好きなのね」と言って、唖然としている私にあるページを見せた。そこには隷書についての説明が、辞書から引用したらしく必要なところにはふりがな付きで書き写してあった。
私は、ただ無用な音を発しているのみであった。
「でね、ほら、ここはドイツについてのメモよ、まだ書けるように数ページ取ってあるのよ。例えば、ドイツで作られた肌着って、人体工学に沿った裁断や縫い目などの丈夫で肌に優しいところなど、何年使ってもどうもないのですって」
「ど、どこからこんな情報を?」
「いろいろ、読んだり聞いたりして、あ、と思うとここに書いておくの、楽しいよ」
あるところには、FBIの心理学的な捜査方法について書いてあるので、これにも驚いた。ドラマでも見たのかもしれない。
あまりに意外な、そして素敵な使い方に感銘を受けたのだが、もっと詳しく見せてもらうに至らなかった。今度また聞いてみよう。帰りのバスの時刻になった。
「そうそう、この前山本さんが言っていたアインシュタインのことね、今日の新聞に出ていたから、ちゃんと読んでからあなたにあげるわ」
このことは、Mrs K.には初耳だったので、新しい世界が開けたように思っているらしかった。
〜〜〜Mrs K.解説が終わり〜〜〜
そして結局今日の記事のタイトルは、やや意味なく残ってしまったが、こんな世界を残して旅立たねばならなかった父のことを偲び、残された日々を意味あるものにしていこう、という決意のようなものが込められている、らしい。しっかり考えてつけたタイトルではなくて、慌ただしく。
「今日の本編」
わたくし、2014年69歳になった年の暮れごろ、腰痛に襲われた。(のちに時間系列がわかったのだが、夫が酒飲みになって間も無くのことであった)
医者との交渉ごとの困難が身に沁みた一件である。
特に整形外科、という部門につきものの不信感に襲われたのには困ったが、実は患者の無知とも関係があるとのちにわかった。
つまり、体のこの種の痛みはまだ原因不詳であることがとても多い。同じように老化による骨の歪みがあっても全員に痛みが出るわけではない。
頚椎の故障なのに痛みは背中や脇腹に出ることもある。
なので、整形外科医の仕事は、痛みを解消することではあるがある程度行き当たりばったりであり、その本職としては何らかの、重大な病気を発見することなのだ。
これも余談である。
「さていよいよ本番」
私が腰痛で動けなくなったと聞いて、母が突然眠り病にかかった。私が連れて行くはずのペースメーカー検診をヘルパーさんと行ってもらった。すると翌日朝、眠り病発病であった。
母の心身に何が起こったかは不明だが、ともかくもう生きるのを止めたい、という反応だったと思う。思いもかけず父の後25年あまり生きてしまった、と。
しかし、徐々にまた回復して食事を摂るようになった。
私の腰痛と少しくたばっていた私の精神も同時に徐々に回復して、
「ああそうだ、生きて話ができるうちにできるだけ、母を訪ねよう」
と気持ちを入れ替えた。
〜〜〜そして翌年2015年の夏が来て〜〜〜
私は古稀、70歳となり、母は93歳となった。そしてすぐに父の命日7月11日となった。
「ああ、そうだ、母の安らかな最期を考えてあげるのは私の役目だ」
と、ふと気づいた。
(弟は震災の年に亡くなっていた。父母のあるいは祖父母の、そして幼年期と故郷の思い出は、それを知っている父母と私にしか残されていない、今や私しか存在していない。語り部になろうとして自分にも懐かしい昭和の時代を別に書き始めた。それも自分にしかできない使命として残し始めた)
父が最後まで一心に唱え、修行していた経文の一部を、まず筆で書くことにした。母は父を尊敬していたことだし。お習字が好きだったし。
私自身は書道の心得、と言っても子どもの頃以来である。
「実相完全円満」
ゆっくりと筆の線が美しくなるように気をつけて運ぶと、次第に母が言っていたように、心が落ち着いてくるのがわかった。
そう、この言葉によって私はいわば母に、引導を渡そうと思ったのだ。恐れなくむしろ楽しみに死に相対することができるように。そもそも、例の、天国のような花咲く川べり、というシーンを母は入院した時などに見て経験している。
元気を取り戻したものの、母の短期記憶力は信じられないほど無くなっていたので、私が色々あることないこと、口走り、
「死後の世界は素晴らしいと楽しみにしておいて損はないんじゃない? 極楽があると信じたが勝ちだよ」
などと力説しても、霞のように雲散霧消することになるのだが、それで諦めてはいけない。
と、頑張っているうちに、自分までそう思うようになってしまった。
これは、そうだ、試してみて損はない。
それにしても、この本題の基礎に入っていこう。
科学者が協同して追求している物理学的真理とは、どこまで追い詰めたらたどり着けるものか、あるいは否か、そのことに非常に興味を持つものの一人として、何らかの意図を持つ創造主のような存在は特に必要ないと、あの車椅子の学者が述べたとか、ではあるが、それでもどんな可能性があるのか、考えてくれる天才はもう現代にはいないものだろうか。
特に、人類の脳であるが、自分を振り返ると大して頼りになりそうでもないけれども、要するに「神的な存在」との接点はここにしかない、何らかの方法でコミュニケートするには。そうとばかりは言えないかもしれないが、とりあえずはとっかかり点である。
よし瞑想だ、修行だ、探求だ、失敗でも失うものはない。
すべての努力も虚しく、神を発見できず、くたばったら無の世界で、それこそ無だ。すべてアウトだ。
生きてるうちしかジタバタできない。
ここまで考えがまとまった時から、1年近く経った。(現在は2016年末)
いくつか改善点はある。
さあしかし、この後のことを書いていいものか、大した結果ではないけれども。
*2016年12月27日「こんなこともあるのが人生か」
もし私がシリアのアレッポにいて
「反乱軍」の地域から逃れられずに
自分の政府軍からの攻撃に対する人間の盾にされ
しかもお構いなく爆弾が降ってくるとしたら
神様(アラーでも何でも)助けて、何故なのですかと叫ぶだろう、もちろんだ。
でも平和な日本に、温暖な半島に住んで
地震も震度3くらいで過ぎるし
一応生活もできるなら
ちゃんちゃら可笑しいと誰だって思うに違いない。
でも苦楽の絶対的基準はあまり知られていないので、人並みに「助けて、誰でもいいから~」と叫んででもいたのだろう。
末期の癌でもなく、俗に言うような失恋したじゃなく
ただ歳をとると先に光が見えず
つまり希望がなくなり
八方塞がり状態に陥る。
右に行こうとするが行けない理由があり
かといって左にも進めない理由がある。
昔から、わかっていたが私も相当な悪人である。
なので、これは「贖罪」であろうと思うようになった。
ギリギリに身動き取れず
逃れられないほどに縛られるというのは
苦しむようになっているのだ。
当然の報いだと思うことにして
これに耐えようと思った。
心理学的にも自分を許せず
自分を罰する、とはありうる行動らしいし。
これで悟りました、とはいかない。
すったもんだは止む気配もなし
しかし、そのうちにも瞑想を毎日続け、世界平和を念じる日々のうちに
去年の2015年11月10日(孫の6歳の誕生日)から
変なことに
次々と、ほらこれを読みなさい、と私の目の前に本が現れるのだった。
それも実に不思議でいつも思いもかけない風に。
そいてついに
12月4日のこと駅のそばの陸橋の下でローソンへと曲がろうとした時
自分の人生を悲しく思い返していた。
その時
声が、意味がはっきりと理解された
「あなたに罪はありません」
即、私はそれを了解した。
物質世界と非物質世界、二つの存在を前提としているのだと。
科学女子の私にとって
知りたくてたまらないこの世の(ミクロマクロ通して)仕組み、その真実
そこに人類のたどり着く果てには
果たして非物質(エネルギー)の世界もあるのか?
本当の真実、
請い願ってやまない真実の姿
宇宙の裏表
人類の大脳の謎
平和と満足の世界
ここに希望が透けて見えた
ベールの向こうに明るさが。
生活の苦悩を理想の追求が凌駕する
その瞬間でもあった。
(それからの2016年の修行は、瞑想帖に、紙に記してある)
*2017年1月15日「大丈夫 死は希望である」
今日は成人の日で祝日であるが、ごみ収集はいつものように行われる。しかもゴミ当番が私であった。
つまりゴミを害獣より守るためのシートを出して、たくさんの水入りペットボトルで押さえつけておく。
特に雨風がひどかったので朝、6時、閉口した。
それのみならず、収集車が回収に来ると素早くそれらを片付け、お隣に持って行くまでが当番の仕事なのだ。
いつも困るのは、太極拳の稽古などが11時からはじまるとき、回収が遅れると間に合わないことだ。
今朝、いろいろ工夫を重ね、なんとかギリギリのバスに乗れそうであった。
しかし、豈図らんや、バス停で待つこと30分以上。世界に取り残されたような情けない気持ちだ。寒い。小雨が残っている。
何故ならば、今日は祝日、するとバスは30分に一回であったのだ。それをすっかり忘れていた!!
一度に二つ以上のことを正しく為すことが著しく難しい。
~~~~
さて、脳の不具合と戦いながら、
思い出すままに、この1年余の歩まされてきた(精神的な)軌跡を辿ってみよう。脳の老化甚だしい71歳、そう思いついたこの機を逃すべきではないと思う。
先日より、机の上に立っている5冊の本。
『はじめての短歌』穂村弘
2000年から短歌らしきものを作っているのに、今頃になってこのタイトルとは恥ずかしいけれども、穂村弘は若手のホープであり、私は古手ではあるが歌風が「独自で先端的で洗練されており、知的で硬派」??なのでどんな大家よりも優先するべき歌人というべきだろう。遅きに失するとはいえ。。
今あちこちめくってみたけど、すごい人だわ。参りました。世のしきたりから飛び出している。
こんな本のページを開ける一瞬、私はちょっと息を止める。
何をもらえるかっ?!とばかり。
『偉人たちの脳』茂木健一郎
図書館で、茂木さんだし脳だし、と思って手に取り、ぱらっと開けた。 キリスト(偉人の一人)について、タイトルは受難と情熱、同じ言葉passionに二つの意味があるのはなぜか。キリスト教の突出したところは「愛の教え」である。それはしかし当時の習わしと異なるので受難を受ける、が、それゆえに情熱が燃え盛る。そういう関連性。
「個人と社会の関係が予定調和に陥り、結果として沈滞する日本」と茂木さんは比較している。
ここ数日、やっとイエスキリストのことが気になり始めた。
いわゆる「神様」は偉大すぎ、でかすぎ、小さすぎ、万能すぎ、完璧すぎて声が届きにくい。
それでその部分である私専用の聖霊を呼び出しておねだりしていたのだが、これでは力が足らない感じだ。
やはりグッと能力差のあるイエスを理解せねば、あるいは彼となら全く感情的に結びつくことが可能かどうか、という方向になってきていた。
そうしたところ、古い映画「聖衣」(リチャードバートン主演)に遭遇してしまった。こんな計らいは実に小憎い神の技だ。
私の質問は、「脳のどこに、イエスに出会って心が震え、感涙するような要素があるのか、それはただの私の癖なのか?」
しかし見ると無神論者の夫もなんだか目をしばたたかせている。なんなんだ、これは? 重要な課題の一つ。
次に開かれたページは私の大好きな画家のパウル・クレーであった。タイトルは真実への覚醒。
う~~む、やってくれるな、と私は自分の脳に、魂に話しかける(潜在意識のこと、必要なものを持って来てくれる)。
実は私も色は大好きだ(誤解なきよう!)。
色は光だから。
無限のグラデーション(今、この言葉を絶望的な気分で記憶から探していた、なんとか現れてくれた)で世界に満ちているものだから。
ひとつひとつの色彩に伴う鮮烈な質感のことを茂木さん「クオリア」と命名したよね。
『神の発明』中沢新一
図書館の歴史の棚を見ていたら、これが飛び込んできた。いつもの計らいだ。私はそう認識する。さっとめくると神という概念の由来と構造などらしい。おもしろそ!! 最重要課題だ。
『マヨラナ 消えたな天才物理学者を追う』マゲイジョ
この本は、Mrs. K.が見つけてくれた。彼女は私の物理好きを知っているので。イタリア人で、失踪してしまったこの人は、ニュートリノ、弦理論などを予測していたが不運が重なったらしい。
私が大いに気を揉んでいる物理の始まるところ、物理学で説明不能の量子問題だ。
『森の時間』前登志夫
奈良の山奥に息づく霊力(アニミズムとでも言うのだろうか)の世界を文学的に見事に表現しきった傑作。
ところで意外にも、『神の発明』と言う本でもアニミズムが重要なポイントになっているようだ。
さらにまた、『神の発明』では、脳の進化という視点から説明してあるようなので、続けて意外にも、脳科学の茂木さんの本との関わりも見て取れる。
図書館で10分ほどで集めた本なのに、なかなか粋なことをやってくれる。
これに似たようなやり方で、芋づる式に本が与えられるのが最近の私の日常である。その始まりを簡単に。
時系軸の正確さはあまりここでは必要ないだろう。
鍼灸院の待合室に本棚があり、いろいろな怪しそうな本が雑多に並んでいた。
院長には遠隔治療などのスゴ技があるという話を合気道の先生から聞いてはいたが、ただ眺めるだけにしていたある日。
どうしても見過ごせないタイトルがあった。
「合気道をする物理学者」とかいう。常のこととして、もうタイトルは忘れたが、要するにこの二つは我が家の核心なので、しかも並んで書いてあるというのは読むしかないだろう、と。
中味は、その頃から死を探索しようと決心し始めていた私にぴったりと言おうか、類が類を呼ぶ、ということか、精神世界という別世界体験が綴られている、ではないか。
本当だろうか、ともう一つ似たような本を読んだりする。
突然、生長の家という新興宗教開祖の本がそこにある。
久しぶりに読んでみる。昔、父が熟知していて私もなんとなく読んでいた。
この再会から、母に対する終末ケアという私の考えの由って来たるところがわかって来た。立派な最期を迎えて欲しいと、私に伝えているのは、そうだ、間違いない、父からの采配であったか。
すると院長が、これは面白いかも、と冊子のような本を選んだ。「たくさんの人がこれを読んで救われた」という怪しげなタイトルがポツンと説明抜きでつけてある。第一作者がはっきりしない。
そこに脈絡なく書いてある考えは生長の家と似ている、しかし、どこかつかみどころがない。するとある場所に作者を救ってくれたと言う本の名前が記されていた。
その本もそこの本棚にあった。
『神との対話』ニール D ウォルシュである。
その後、図書館で「ニューソートの歴史」とかいう本が目に飛び込んだ。アメリカのニューソートに属する本を読もうとしているとは知らなかったが、見た途端にそうだったとわかったのだ。
そんな風に図書館(全てあの親切な隣人Mrs. K.のおかげである)で、あるいは人を通じて出会った本のおおよそのタイトル
白洲正子 伝記とエッセイ
科学としての神学の基礎
キリスト教vs科学
エクスタシーの神学
*2017年1月17日「私の気がかり」
表現できるかどうか、さっぱりわからないが試してみよう
まずはこんな始まり方だ
私が生きている、(ように思える)ということは
私を少なくとも物質の法則が
それを科学的真理と呼んでもいいが
そんなほぼ完璧なものが
私の中にあり、私を制御している
つまり、
私の芯は
真理そのものである
あるいはその表現体である
それが理の当然ではないか?
理想形には程遠いとはいえ、不完全とはいえ、
そうした理屈が私を生じさせ、
数十年生きさせ、次世代を作らせた
そうしたからには
真理は存在する
宇宙の果てまで
量子の近くまで
10の69乗くらい(いい加減)の範囲を
制御するほどの
真理は存在する
ところで
光とエネルギーと質量との
アインシュタインのいう関係を思うと
私=物質、と一義的に言えるのか
それは誰でも知りたいことで
しかし不可知の領域に入ることだ
(だってね、
一片が光速の距離の平面四角形で
エネルギーをザクザク刻んだ回数が
質量だということになるので???
全然単位がわからない、、、)
仕方ない
「在りて在るもの」
という指令内容が来たので
とりあえず真理のことをそう呼んでおこう
そんな指示は
瞑想中にぴょこんと浮かんでくる
思いがけなく、どんな想定をも超えて
どこから指示はくるかといえば
私の脳内から、か
あるいは、未知の精霊の領域からか
仮に第三の眼があるとして
そこを通して精霊の領域へねじ込み
(自分の脳内ではありえないと思うので)
グリグリと
目玉を回していると
多分そこは非常に眩しいはずだが
意識には余り感じない
遠くを睨んでいると
来た!
「プラネタリウム」という指示が
そうか、仰いで見ると
プラネタリウムのごとく
そこには理想の創造世界があった
全てが「良きかな」と
輝くような美しさで
人類もいて
殺しあったりせず、自然を享受し
知識を役立てているようだ
それで?
これを何だというのです?
と
私はこの自分自身に向かって
あるいはもっと物知りの自分自身に向かって
尋ねる
意外な今日の指示
「ミイラ」「メモリカード」
死ぬならミイラで死ねと?
メモリカードに記録せよと?
前回の日記以来私の頭はごく正常でさしたるミス、物忘れは犯していない
一度鍋を焦がしただけだ
現実生活に役立ちそうな指示は
「もらいたい、と思うものがあったらまず自分から人に与えよ。なぜなら彼は私であり、私は彼であるから」
現実世界ではとんでもなく役立ちそうにないのだが
そうだ、現実問題 1 トランプ新大統領 2 駅のホームレス
3 「サピエンス全史」これ面白い! 4 夕食に豚肉、卵1、ご飯しかない
もう一度強調しておきます私の頭は正常範囲です今日は、余り目が良く見えず頭が重いだけです。
*2017年2月23日「これぞハプニング!」
前回の日誌とほぼ同じ頃に何か、忘れたくないアイデアが浮かんだ
いい言葉だった
あまりにクリアだったので忘れはしまいとメモせずに眠った
惜しいことにもちろん思い出せない、今もどこか深くに、、
どこにも手がかり一つなく諦めた老いの一日は長そうで短い
出かける準備に2時間かかる
静かに自分の中に沈潜する暇もない
夫は、怒ったり笑ったりしながら物を申してくる
テレビも見なくてはならず、世界の終末が近づいているのか見極めるために、、
一年前まで私の終末が近かった、刑務所に入り、子供達の恥となり果てるようなことを日々妄想していた
絶望が深いほど切羽詰まった時ほど別の世界を夢見る、激しく命がけで
人格の解離が起こる時のように
それで
しばらく鳴かず飛ばずだった
科学的な本と、歴史的な本と、神学的な本を並行して読んだ
あまりに複雑で、命題はシンプルなのに理解するには流石に複雑すぎて
ついにイライラしてきたので
「いい加減にはっきりさせてほしい!」
「もう少しわからせてほしい!」
と叫んで
私担当のタマシイを呼び出した
この一年間、私ができないことはこれに委ねてよろしく、と任せてきた
言葉にはならなかったが、おおよそこんな前置きで
(あなたが神のパーツで私の担当で私に責任があるのならあるいは、あなたが存在するとして本当に存在するのなら)((「神」という言葉は使うべきではないが、とりあえず記号として使うと便利なので、もっともそうするとこれまでの「神」概念に汚染されるという危険がいっぱいだが))
私はタマシイに包まれ、私の脳内を疾走した
私はタマシイではなく、意識を持った肉であるがもともと、私があるかないかはパーセントで言えば、ほとんど無に近く、私は幻想の産物かもしれないのだ。
それでも、タマシイも私も大きな法則の通りに制御されている
次元は異なろうとも、
それ以外は存在しない全き法則と一致しているはずだ
このタマシイ、私と一体であるこのタマシイは小さな「神」として存在している
それ以外の存在はない
そこでハプニング!
残念ながらいわゆる霊的な現象ではない
意味が突然出現した
『私も「神」である』
それはストンと理解された
前回の日誌にも書いた言葉だが、その時はただの理屈だった
それが事実だと納得したのだ
驚いた、思いもかけなかったことだ
すると
その日、うっとおしかった私の脳内の霧がさっと晴れた
突然風がスウスウ通る感じがわき起こった
神経の束から
真っ白な花が咲き開いた
輝くような白い花が
それを感じた
そこらへんに置いてあった両手の間にエネルギーが充満した
何かが存在するような感じで
「私の本体は神である」
「だって存在の法則を体現しているのだから」
「そうである以外にありえない」
いつもの言葉をつぶやくごとにそれが現実だということがわかった
もちろん、この身体は多分幽霊のような存在で過ちだらけだが
そこから動きたくなかったが私は、しばらくしてから手鏡を覗き込んだ
何が写っているか、どうなったのか知ろうとして
完全な白髪になったか、天使のようになったか、
普段の私で、ちょっとシワが一本消えたような気はした
これは昨日のことでこれを書いている今はショックの感は失せている
事実は残っている
ちょっとした脳のマジック?
*2017年2月25日「重なる偶然あるいは神慮」
珍しく鉢花を購入。
昔持っていたがその後なかなか見つけられなかった花キリン。もう一つ、お初にお目にかかるアッサムニオイザクラ。本当に匂う。化粧品のような甘い香りだ。
これらが目に入るたびに、香りが漂うたびに幸せな気分になれる。
今回の偶然の出会い、あるいは神慮、はかくの如き次第である。
桐島洋子と佐藤愛子、この自立した二人の女傑の本を求めたわけでもないのにほら、と手渡された。
歌人会の同僚が「ほら、読んでみる? 今返してもらったのだけど」と桐島洋子の最近の本を貸してくれるという。長く放っておいたのだがついに読んでみると、カラッとした合理的思考のその他の部分とは異なる記述があった。
彼女は気功を習ってはいたのだが、ある時瞑想していると体が自然に動き出し、各部分が勝手にくねくねし出したのだ。1時間も続いてそれが終わるとスッキリしたという。
次は、先日、太極拳の仲間が「ほら、読む?」と渡してくれた「老いの力」という50代から80代までの佐藤愛子のエッセイ選集。
竹を割ったような人となりが窺える中に突然、整体師にかかっていた彼女に、体が勝手にクネクネあちこち動くということが起こり、自分を治療したという話があった。
そればかりではなく、もっと思いがけなく愛子さんにホルターガイストのような霊現象が起こった。
死後の世界を暗示するものとして、少なくとも死後はあっさり無というわけにはいかないかもしれない!
それが吉と、出るか凶と出るか、慌てないようにと、最近はこの可能性を大いに考慮に入れている私である、
さて、お隣の Mrs. Kから一日遅れで新聞をもらうようになってすぐ、広告に「サピエンス全史」というのを見て、即購入。
作者は、人類とその前の原人を分かつ機能を「認知革命」と呼んでいる。
大げさに言えば、心理的に、目の前にあることよりもその前後への思いが強く働くのだ。
無いものを想像してリアルであるかのように対処する能力、例えば銀行という仕組みも全員が約束のもと、運営する(信用が元になるが)ので架空のものが力を発揮する。
(農業革命、産業革命1次、2次 帝国主義 科学革命 貨幣経済 資本主義 民主主義 グローバリズム、という章立てになっている)
で、こんな風に、人類の歴史という視点から何千年、何万年とさかのぼることになったのだが、、、
さらに思いがけなくも、やがて地球の歴史をも通過し、183億年の宇宙の歴史をあっという間に(便利にも)意識の中で走り抜け、、、
例のビッグバンの頃、物質世界ができた理由を新しく教えてもらえることになった。
それもテレビの番組をみわたしていて目に飛び込んできた言葉「反物質」「ダークマター」「ニュートリノ」のおかげである。偶然である。
かいつまんで、しか書くことはできないのだが、要するに最初、物質(電荷プラス)と反物質(マイナス、いわば鏡像)が同数できたはずなのにどうして物質世界ができたのか、ぶつかり合ってエネルギーとなり無が残るはずだったのに?
反物質のうち一個が物質に変換すると、対消滅が起こったのち、50億分の2の割合の物質が残るそうだ。
ところで、その物質粒子ももしダークマターという未だ謎の存在がなければお互いに凝縮し合って物質になれなかったはずだという。
普通の物質1に対し、ダークマターは5倍量で銀河団をバラバラにならないよう締めつけている。
ところで全てを通り抜けていき、この今もここら辺にいっぱいある素粒子ニュートリノこそ物質でも反物質でもない(電荷がない)ので、これがバランスを物質側に寄せた張本人ではないかと見られているらしい。
(ここでもう一つ出会いの偶然があった。ニュートリノのこのようなどちらにでも変化しそうな性質をマヨラナ変性というのだが、マヨラナというイタリアの物理学者、彼が行方不明になったことを書いた本があり、何とこの本をMrs K.が、図書館でたまたま見かけて私好みではないかと推薦してくれたのであった。)
ともあれ、これらについては鋭意実験が行われている。
ホモ・サピエンスは、自らが発達させた科学を最大限に利用して、自らを進化させ(=滅び)、アンドロイドなどの別種になって生き抜くであろう、と「サピエンス全史」は予測している。
物質世界の謎でも手こずっているのに、魂の世界のことには手が回らないだろうが、証明がなされることを(生きている間になんてとても無理だろうが)願いたい。
そうするともっと別種の進化も可能であるかもしれない。何しろ、ホモ・サピエンスはまだ幼年時代であるらしい。
自分を見ても不手際の多いことには驚かざるを得ない、幼児のようだ。せめて、人類のこの特殊に発達した脳に、霊的な機能も仕込まれているかもしれないとこっそり思っている。
*2017年2月27日「知らぬ間に宇宙の一大事が!」
2012年7月以降も、世界に色々あれど、我々の日常は普通の幸不幸、運不運のままに暮らして来た。
私にとってのリラックスタイムは、テレビドラマ(主に海外刑事物)を見る時間かなーと思う。
でもそう言うと、殺人やサイコが好きみたいだし(事実興味深い)、
それにテレビを見てる時は、脳は完全に受け身で活動が少ないらしいので、
また、ドラマの中の集団の絆が結構気に入っているみたいなので、
自分でもどうかなー怪しいなーとは思いつつ。
もう一つ、テレビの楽しみは明石家さんまの番組。
これは夫には大不評なのだが、彼自身が面白いと言うより、ほかの人を一皮剥いで、笑いの対象にしてしまう、あるいは人が自分をオープンにする羽目になる、という点を買っているのだが。
(7年ほど日本にいなくて、帰国してテレビを見たら、妙齢の女性たちが、あけすけに恋愛を語るのに、=ついでに言うとそのほかに生理用品のコマーシャルが大々的に流されているのにも= ともかく仰天したのだが、それは彼の番組だった)
それに、さんまさん語録、「生きているだけで丸儲け」というのがいたく気に入っているし。
彼のように恵まれていればそう思うのも当たり前だろうが、一般的にこのスタンスで、それ以上の生きている全てに感謝できればハッピーになること請け合い、と、今日はつくづくそう思える。(今日は、と言うのは昨日そう思わされるような文章を読んだせいだが)
さて、2015年頃にはスイスにあるLHCとか言うミニビッグバンを発生させる装置が、高エネルギーにアップされると何となく聞いていた。
そうすると、原子核の中にある陽子を光速でぶつけあわせ、未知の素粒子をどんどん発生させる、つまり見つける、ことがより可能になる。
ただ、自分ではそれがどんな意味かは知らぬまま。
一昨日から、急にその結果が気になっている。もう2017年だ。
何故か。テレビだ。
テレビ番組表を流し読みして、何気なく映画を録画しておいた。「パーティクル フィーバー」
それが何と、上に触れたスイスのCERNという大規模施設での「ヒッグス粒子」発見までのドキュメンタリーだったのである。2012年までのことだ。
最後の、神の粒子として長く予言されていたのだが(ピーター ヒッグス博士によって)、私の理解するところを表現すると、それは宇宙に充満していて、粒子の自由な動きを邪魔するために、動きが遅くなる。このことが「質量を持つ」ということらしい。そして、質量を持つとお互いに重力で引き寄せあい、この宇宙が出来うる、のである。
なので、これなしでは宇宙が成り立たない。
さて、目的の粒子が実際に見つかったので喜んでいた科学者たちは、間も無く頭を抱えた。
何故なのかまでは知らないが、ヒッグス粒子の質量は軽いものであってほしいらしい。
要するに、それはこれまで延々と研究されてきた方向の正しさを決めるものだからだ。
それが標準理論とか、超対称性理論とか、いわゆる美しい論理、数学の式で表現できる宇宙の姿、のことである。
一方、計算上の宇宙の質量は実際よりずっとずっと大きいそうだ。だからもっとたくさん粒子があってほしい。
そうでないと、別の宇宙、マルチヴァース、泡宇宙、カオス、ただの偶然、という学者にとっては絶望的な宇宙像が出てくるのだ。
この場合ヒッグス粒子の質量は重たいということになるのだそうだ。しかも文字通り最後の粒子として。
残りの質量は別世界にある??
必死でヒッグス粒子の質量を調べて見ると、
驚くなかれ、それは、ちょうど真ん中。
二つの可能性のどちらもあり得る、という値だったのである。こんなことがありうるだろうか。
これが2012年のことだ。映画はここまでである。
*2017年3月4日「終活における 些事と大事304」
前回の日誌からもう1週間経ってしまった。月末と月初はジタバタする時期である。するべきことを粛々とこなして、終活の日々もここに三月に至る。
いわゆる短期記憶、ワーキングメモリーとかの磨滅には参る。
この季節、確定申告のためにする、医療費の仕分けと計算だが、今年は特に間違えることはなはだしく、ため息つきながらやっと一覧表を作った。57万円もの額になった。
こうして税の控除をしようとするのだが、実際は、所得より控除額が完全に多くて話にならないのである。
個人年金(苦労して長年掛けておいてよかった、そうでなければ今の生活が成り立たなかっただろう)から源泉徴収された分を還付してもらわなければ!という一心のみで。
こんな重要な雑事につい紛れてしまうのではあるが、あくまでも(遅々としてではあるが)私の非物質世界探求は続いている。
向こうからぶつかってきた本など、ははーっと押し頂いて何かどこかのアンテナにピンとくるものがあるかどうか、私の心の深部にしっくりと捉えられるのかどうか、客観的、理性的に読みながら、もちろんそこを越えられかどうかが眼目なので、瞑想のうちに、
「そうであるならそうであれかし、在らば在れかし」
とあなた任せでじっと待っている。
終活の日々に、今回受け取った言葉は
「死すらも生命である」という文であった。
突然この一文が光り出したのだ。
もちろん、私の場合は武士のような潔い思いからではない。
生は死を超えて続く、永遠に続く、という命題からである。
そこには、偶然で動くものは何一つなく、全てが、全てが大きな法則の展開だ、という信仰がある。
であってもしかし、人類の意識にはその「?」からの自由意志があり、しかも結局その「?」に抱かれたままであるはずだという、まさに孫悟空の立場である。
何気ない言葉が突然光りだすのは、実に頼もしい。
「?」と書いたのは、私がたどり着こうとしている、存在が私の定義する力からはみ出しているので、呼びかけることさえままならないという、まさに悩ましいわからない課題であることが現れた結果である。
神よ、主よ、仏様、と簡単に呼びかけることができない。
しかし、それを考え、開拓して行くのは心楽しい、とも言える。
その夜だったか、夫がどうしても本屋に行くというのへ、あまり乗り気でなく付き添って行った。(乗り気でない些細な理由は様々あった)
しかし、
店に一歩入り、通路の真ん中に書棚があって、そのど真ん中に、新聞広告で見て、しばらく前から気になっていたタイトルが見えた。
「死ぬ瞬間」キュプラーロス
一冊しか残っていない。即買い。また出会ったのだ。
内容は、死を予告された重病人を心理学的にリサーチすることと、思いもかけずそこからカウンセリングとしての効き目が見られ、一分野が開かれた、という次第を記したものであった。
読みながら、しかし、これではないな~と思い始めて、訳者のあとがきを見る。
筆者は、研究者として始めたのであったが、種々の体験を経て、死そのものの新しい(新しくはないのだろうが、改変された?)定義を信じるようになって行った。
なるほど、ここだったか、と教えてもらったこと(神慮)に感謝して、彼女のその後の本を手に入れようとしている日々となった。
*2017年3月12日 「『あなた?』はご存じでしょうが」
(これは虚空「あなた?」への報告です。なので、また戯れ言、世迷いごとになりますが、それを敢えてするのは、たとえ私が見失っても、向こうは私を決して見失わず、興味とケアを忘れず、私にGPSタグをつけていると、そう信じることにしていればこそ、なのです。)
さて、「あなた?」はご存知のはずですけれども、まあ日本語による世間話ということで。
最近の読書は、キュプラーロスの「死ぬ瞬間と臨死体験」や森田健の「生まれ変わりの村」、まあ参考としてという感じである。
先日の朝、6時にふと目を開けた、ような単にまどろんでいるような時、突然のイメージにショックを受けて目覚めた。
うちに古い、誰も使わないボアの男物の室内ブーツがある。それをあの駅に住むホームレス氏にあげよう!
なんだって??!!
自分で驚く。
いい方法ではないか。この冬も靴下なしで壊れた靴のままだった。ひどい状態の脚だ。
そ、そうですね、これならできそうです。やってみましょう!! (もっとも次第に自信がなくなり、あれこれ考えあぐねて実行には遠そうなのだが)
春眠暁を覚えず、とばかり、だらしなくもまた眠りこもうとした。と、また起こされる。思考が素早く駆け巡り、あっという間に結論が出る。
私のこの世の、この生活に不満不平を言うのはもう止めよう!!
(解説:そんな理由はないはずだ、完璧の創造を信仰するのなら)
実際、満足できるほどの有難い生活ではないか?!
ありうるすべてを、善きことはもちろん、病も貧も手のかかる夫も含め、どんと受け入れよう、私は!
ありがとう、と言ってそうするのだ、喜んで!
自由な意思決定である。
自由を感じた。
不平不満に押しつぶされるのではない、
それを押しのける自由も得たのだ。
とはいえ、弱虫の私が後ろの方で、困ったなあ~と袖を引くのではあったが。
タイトルは忘れたが、ブラウニングとか言う人の詩
時は春
日はあした
あしたは七時
片岡につゆ満ちて
揚雲雀 名乗りいで
カタツムリ枝に這い
神 空にしろしめす
すべて世は こともなし
まあこんな気持ちに襲われた。
*2017年3月18日「気づく、と 忘れる の応酬」
前回の日誌の最後に与えられたミッション:
*今生のこの生活に金輪際不平不満を言うなかれ
*ホームレス氏を支援せよ
困った。
前半生、家族では優しい、温和な男達しか見たことなかったのに、この伴侶は天罰かとも思えるほど、手に余る。今でもそうだが、それでもこうして生きていける。そこを足場にすると、妙なことに不満は思わない、ありがたいと思う
と言う行為と、
現実には、腹を立てたり言い合いをしたりする行為
この二つが、共存して別に違和感がない。
それが面白くなっていた。
問題は2つ目だ。
月火水と言い訳めいた外出が続いた。
ついに明日が木曜日となり、どう見てもこの日だろうとわかるが、あれこれ、想像してひるんでしまう。勇気が出ない。
もし「神様」だったらどうする、もし「愛」そのもだったらどうするだろう?
ベンハーという映画が昔あった。
砂漠で、ベンハーが行き倒れになる場面で、人影が彼に近づく、ひと椀の水を、命の水をくれる。
そしたら私はスッと立ち上がって、水をあげに行くだろう。私がせめて神の子だったら。余分なことは考えないだろう。ホームレス氏の壊れた靴と汚いスネ、薄いコートもボロボロになっている。
木曜日にもう迷わず、突進して駅に行った。
その日、歯医者の予約の前にこの課題を済ました。
ミッション完了!
私の友人にはこんなふうに説明した。
「一つには、ホームレスにありがちな袋をたくさん持って歩く、ものを集める、という甲斐性?がなくて、この寒さの中、他のホームレスはセーターなど手に入れているのに、余りにもひどい有様なので、普通に考えても放って置けないでしょ!と、無視している人間への怒りすら感じて。
また一つには、あれこれ読んだり知ったりした中の、「あなたが神ならどうする、愛そのものであるならどうする」という問いかけが浮かんで来て、その途端に、怯む心が消えたのです。この言葉を思うたびに、神性がぬっと乗り出して来てそれでいっぱいになってしまいます。
そのどちらかの状態をキープしたままで、ずんずん進んでいき、新聞紙の上で座って眠っている彼をつついて、
「新しい靴、履いてください!」
そしたら、目をやっと開けて「ありがとう」と。
喋れるんだ!
でも実は、一つ私への助けがありました。
すでに二つプラスチックの白い買い物袋が置いてあったのです。多分食べ物。
それも私を力づけました。他にも誰かがいて、彼はこれらを受け取ったのだと。この事実が。
そう、室内ばきは小さすぎるとわかったので、夫の新品の靴をあげたのです。(その人の壊れかかった靴もひどすぎました)
夫の足はむくんでしまってもやは履けません。
それとひざ下までの靴下、化繊のホットシートも。」
別に神様になったような高揚感はなかった。さっとこの出来事を通り過ぎていた。
実は既にその前、日曜日に、私は大いに感動して涙を流したのだった。
(この日記を書くのは、そうでないと全て忘れてしまうからである。毎日のように何かを与えられるのに、or 見つけるのに、痕跡が残らないことがある)
ドイツの童謡の一つがオカリナの練習中に見つかった。
夜空いっぱい、星はいくつあるだろ
大空ゆく雲も数限りない
そのひとつも忘れずそのひとつも逃さず
数えてくれる 神は数える
陽を浴び飛びまわるたくさんの羽虫
涼しい川の中 たくさんの小鮒
呼んでいのち与えた
楽しく生きよと神は名を呼んだ
朝は早く目覚め 昼は楽しく
わずらいもなくその日
過ごす子供たち 神様のお気に入り
かけがえのない神の愛し子
こんな「神」との関係、こんな「神」の意図、こんな実際、それをどれほど切望していることだろう。
目の前の現世は程遠い。
どちらかが間違っているはずだ。
21世紀までに人類が追い詰めてきたとんでもない宇宙の仕組みを見ると、現世の悲惨の方が分が悪い。人間の愚かな部分の方がありえない。
木曜日の夜、新聞に本の広告が目に止まった。
「神の子」というタイトルだ。
あんまりじゃない?と思ったが、、、
金曜日、図書館に行った。1分ほどぐるりを見渡すと、果たして「神の子」が目の前にあった。なぜ読むのかは分からずに、上巻を読破した。
しかし、これらのあえかな連絡の、なんと失われやすいことか、こうして印をつけておかなければもう見失う、永遠に。
・こうして君の前に次々に差し出される配慮は、実は君自身が創造したものなのだ、君はミニ「神」だからね
・ええっ! 私が創造していると? あなたの神慮ではないのですか?
・そうだなあ、何しろ私と君はひとつのものだからして。
*2017年3月26日 行ったり来たり
弥生の冷たい雨が
クリーム色の薔薇を濡らしている
蕾のまま2ヶ月も耐えて数日前の暖かさにちょっと騙されて咲いてしまった
おまけにヒヨドリに齧られている
同時に笑って咲いたヒゴスミレ、白
鹿児島から母と共に旅をして房総半島でも門柱の角で満足して香っていることだろう
そこまで鼻を持っていけない
薬丸岳作「神の子」上下を猛スピードで読んだが力作ではあったけれど、却下。
キャサリン・ロス 森田健 大川隆法 通り過ぎる。
しかし、「神の子」下を図書館に受け取りに行った時、
大阪人の幻月さんの名を久しぶりに見て、めくって見たがおどろおどろしくて却下。
その隣に、玄侑宗久の名が。
そうか、これだったか~と納得して借りる。仏の世界に招かれたようだ。
一方、未だに呼びかけ方にこだわっていて、アレヤコレヤ、決定しない。
在りて在るなる太神(おおみかみ)
完全の実相なる統めら命(すめらみこと、天皇ではなく)
永遠の慈愛なる太魂(おおみたま)
この三つの相が私なりの定義となっているようだ
玄侑さんの本はとりあえず
「アミダーバ無量光明」
もろに臨死体験と死後の感覚に挑戦したもので、物理を援用しているところ、大いに我が意を得た。
「化蝶散華」
まだ読みかけなのだが、アプローチが「お金」の役割と位置づけなのが独特だ。禅の世界に入って行った男が「魂あり」の立場と世間の有様とを擦り合わせていく、という話らしい。確かにここ(すり合わせ、意味の改革)が肝心なのです。
これまで単純に、死ねば終わり、と思っていたので、せめてそうでない可能性を探ろうとあれこれ行ったり来たりしているが
贅沢にも
既成の宗教や他人のお題目を借りるとしても、
自分自身に問いかけて、勘違いであれともかく自分の中から自分用の世界理解を深めていこうとしている。
それで、次々に面白いことが目の前に差し出されるように出てくるのだが、ここで、注意。
これをもって深慮、摂理、と捉えるべきか
あるいは自分が決定して選択しているのか、視野が異なってきたのみなのか。
まあ、退屈している暇はない。しばらく仏の世界に。
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