第二章 時は流れているか バートミュンスター まで  その2 塗炭の古希前後

ー−西暦2016年ーー


五 

 医者の診察を受けるときは、五分も時間をもらうと御の字である。

 しかし鍼灸医院では、(確かに保険適用なしで一回五千四百円かかるとはいえ)、五十分前後ゆっくりと相手をしてくれる。石橋院長には全体の監督役であるので、弟子の一人山本さんと次第に話し相手としての関係ができていった。まだ二十代ののっぽの青年である。

 で、二千十五年の先に触れた柿の花の散る頃には、身体的にもう訴えることがなくなり、自然に足が遠のいた。


 それから一年ののち、また柿の花の散る頃となった、それが今二千十六年である。


 で、その今から過ぎること半年前のこと、二千十五年末、私のただ一人の孫祐介の七歳の誕生日、十一月十日、その日にふと半年ぶりに「鍼灸に行こう」と決意した。深夜、背中に針を刺されるような凝りを感じたのだ。その時に決心した。


 その時までの丸一年間は、深酒するようになった夫に手を焼いていた。


 すでに二千十五年九月には夫婦関係が二進も三進もいかない膠着状態になっていて、私の喉にはいつも何かが貼り付いているような違和感が消えなかった。夫も病身となり、天涯孤独ともなって、苦悩は彼にとっても十年来のものであるとはいえ、私は攻撃される側であったので、耐え難い感覚があった。


 実際、奴隷のように、また性の奴隷のように生きていた。


 古希という年齢にもかかわらず静かな老後には程遠い惨状が続いた。私にも限度が、これ以上我慢できない壁が見えるようになった。

 睡眠不足と不整脈が並行して進むらしかった。


 家人は日にウイスキーボトル一本というペースで、つまり一日中前頭葉を痺れさせている日々になっていた。その年のはじめ、二月と四月に心不全悪化のため二回入院した後、退院してから一層本格的になった。私の腰痛を痛み止めで押さえつけていた頃だ。


 深く秘匿されているだろう、老夫婦の間で。

 愛の行為? 夫婦生活? (なんと呼ぼう、名付けるべき記号はあるのか)性行為の試み? 性行為とは何? 冷感症になった妻と勃起不能射精不能となった夫の間に生じる不毛な涯のない怒号、支配と被支配をめぐる死闘。絶望しかない欲望。ただの眠りすら不可能となった。


 苦し紛れに歌を作った。日記とは言えない、事実の羅列を綴った。昔、長男が自死した時、私を保たせたものの一つがみそひともじと言われる三十一音の短歌形式の詩であったように。


 それに関連して、二千十五年九月十一日 私はこんな歌を作った。

「扉あき笑顔さし出づ 天国に住む人恋ふてすがるまぼろし」

 まるで亡き人が別の世に居ることがわかっているかのように。


 九月十五日 私には別のまぼろしが浮かんだ。

 包丁を人の胸に突き刺し、静かにさせる幻が。

 やがて私はそのことを当人に伝えた。眠りがここまで不可能となったならもう殺すか別れるしかないと付け加えた。


 社会の認識の趨勢として、家庭内暴力を耐えてはいけないと言う意見を知っていたし、友人知人、鍼灸院でも別れることが相手を生かすことであり、私が我慢していると相手の成長を妨げるとむしろ脅された。


 しかし、ある時、別の事実を、つまり別れることも病人を見殺しにすること、であり倫理的に許されないと言う事実を、自分の確信として発見した。日本に他に頼れる人はなく、故国にも親も家も友人もなかった。そんな男だった。そう言えば、小説家のフランツ・カフカも自分の足元三十センチ四方しか立つ瀬のない存在だったが。


 一方、そんな変な確信こそ、暴力の影響であったかもしれない、その可能性もわかっていたが、それでも、何とか事態を中和したいと思ってであろう、昔馴染みの父の経文「実相完全円満」を何十年ぶりに唱えて人の真の姿の輝きを見ようともするのであった。


 それどころか、急に習字の練習まがいのことをし出して、障子の破れに「実相」(五感で捉えたから現実だと考える癖がついている我々であるが、それはほとんどは歪んでいて、歪んでいない本当のあり方はと言うと、神の似姿であり何の傷もなく完璧である)と筆ぺん書きした半紙を貼り付けて忘れないようにした。


 このような「世界と世界以上」の見方は理論物理学でホログラム理論として思考されていることも知っていた。


 同時に、何となく全ての出来事が、鍼灸院へ行かせようとしているかのようにも見えてきた。塞翁が馬、とでも言うように一つが起こると、次の出来事へと繋がって、意味付けられていくように思えた。畳み掛けられているようだった。無意識に願ったことが現前してくるかのように。


 九月末には、夫の実相が完全円満であると無理にもみようとした、その甲斐あってというべきか、彼の酒量が減り、私は彼を恐れなくなり、たとえ罵られていても、心は澄んでいて、お互いを信頼できた。

 その変化は、一瞬にしてという感じだった。


  同じ頃、母に習字を再開させよう、つまり「実相完全円満」は父の生涯のお題目であったのでそれを書くことを勧めよう、と思い当たった。引導を渡したいという考えが実践できると思った。それで、自分でも本格的に書を書いた。その道具は遅滞なく揃えることができた。


 十月二日に私がまず母の前で書いてみせた。実行したのだ。その時の心境を詠った。

「過去失せてよるべなき母ひとり発つその日のために真言を教ふ」


 十月八日、自死した長男の命日であり、父の誕生日でもある日から心がしんしんとまとまっていた。思えば彼が思いもかけず命を絶ってから、私の異界への旅は導かれてきたのだ。


 十月十二日には「瞑想帖」を書き始めた。友人が手作りの白いノートを作ってくれたものに。

 それは字の練習でもあり、尊い楽しい時間をくれた。不眠の対策としても、呼吸法をしながら、眠る前にくらやみに座しそのお題目を唱え、万象について思いを巡らし始めた。夫も座禅にはあまり文句を言えなくて、邪魔はしなかった。


 十月十六日、数日前から私は化粧品を変えた。資生堂からコーセーにとかいうのではない、界面活性剤を使わないものに変えたのである。それまでは高いクリームを使えば使うほど、塗ったところの肌が乾くのが不思議で仕方なかったのだ。ネットの広告だったろうか、偶然に目につき気づいた。

 社会が提供する間違いに「偶然に」気づいた。すると待ってましたとでも言うように、母の介護に出かけた時、駅の側の本屋で新刊として、そんなタイトル「偶然の科学」を見つける、と言う寸法だ。そうして、すっとそれが「摂理」として納得できたのである。変な気づき、心の動きが起こった。

 偶然に出会った「偶然の科学」の内容は経済的なものだった。要は偶然の意味は、むしろ必然であるかもしれないという点にある。


 十月二十二日まで思考の限りを尽くして、科学の成果も参考にしながら、形而上学的、あるいは霊的な世界を探求し、人を同胞として純粋に愛することにしようと、自分の心の方向を決めた。


 しかし、その頃三男の幸雄が転職の淵に立ち、心身ともに乱れているのを知った途端、脆くも自分の安心立命の心が崩れるのを感じた。心配の波に呑まれそうになったが、しかし、辛くも一条の真の光がを見つけることができた。

 つまり、逆説そのものであるが、心配することは帰依の心が足らないことそのもなのである。ネガティブな思考をこれでもかと積み重ねて、それが実現するのだからたまった物ではない、これに思い当たったとき、心が一瞬に軽くなり、真の麗しい姿のみが見えてただ嬉しいのであった。希望が差し込んでくる、そこには希望しかなかった。


 十月三十日、家人との間は一進一退ではあった。彼を同胞として愛すると言う自分の決意が目の前の醜さに負けてはならない、死と闇があるのみだ。特に行動で示す必要はなかった、そう自分に言い聞かし確認すれが、手応えは自分の中にも家人の態度にも時に現れた。その現れを見逃さないこともコツだった。



 十一月三日、瞑想帖に書いた。「つまるところ、トラウマとか心理的元凶を探し出して悪い意味づけを確信するのは、自分の目(これも影としての)でしかない。愚かならざるや。」




 先に触れた十一月十日となった。唯一の孫の誕生日である。生日死日の数字的偶然をいくつか体験してきた私には重要なことである。

 悔しさをにじませてわざと足音荒く入ってくる夫の動きに身をすくませ、耳栓をしてもついに不眠の一夜となった後、鋭い痛みが一瞬私の腰に走った。それが合図であった。それを見逃さなかった。

 スイと決心して鍼灸院に予約を入れた。契機を捉えた。それが孫の誕生日のことであった。



 ここからは怒涛のごとくメッセージを受け取った。

 私がそう解釈したし、そう信じてみた。

 どうなるか、何か次に来るかと。

 この日、待合室にたくさん並べてある図書を眺めていた。別に意図はなく。


 ん? 合気とある。理論物理学者とある。


 手に取るほかない。私が信用できる要素が二つ揃っていたので即、借りるほかなかった。「愛の宇宙方程式」保江邦夫

 「スピリチュアルな力がすべてを統べている」というメッセージであった。近代的人間にはますます秘められたままの、思いもよらぬ人間の能力を開拓しようとした人々の中に、おのづと植芝盛平、谷口雅春など一線の名前が並ぶ。


 超弦理論をめぐる話と摩訶不思議とも思える偶然、必然、運命のつながりが語られる。


「かくしてここにあまりにも明らかに、パズルが一つ一つ現れて組み合わされていく。何も画策しなくても神意の真理の糸が繋がっていく」と、私は驚いて瞑想帖に書いた。


 家人については「あなたの役割は自身が悟ることではなく、私に試練を与え続け、真理にすがるしか無くなるまで追い詰めることだった」と書きつけた。


 飛躍もあった。愛するとは相手を神様だと思うこと、と読んで、不審な気持ちではありながら、試しに一瞬でもそう思えた時嬉しくて涙が出そうになった。


 神が愛だというのは、理屈ではとても納得できないが、理屈抜きの体験であるのかもしれない。

 


 十一月十八日からは、何十年ぶりに夫婦で一緒に並んで就寝し、静かに眠った。それは意外にも穏やかな共寝であった。私の贖罪意識が苦しみを呼び寄せ、夫の祖先たちの恨みが彼を通じてなぜか私に向けられた。理由は人間にはわからなくても贖罪はなされなければならない。しかし私を苦しめる役割のままでは彼も浮かばれない、私という菩薩の役割はもう長年にわたり果たしたと思われるので彼を解放しなくてはいけない、などと、証拠のないことが連なりつつ頭の中で考えが進んだ。


 しかし、共寝も一週間が限度となり、また支配をめぐる戦いが繰り返された。


 十二月になると、家人の最後の抵抗のような、修羅の日々となった。


 私ははっきりと、初めて怖がらずにはっきりと離婚を口にした。

 彼が恐ろしい形相で、上部は静かに「離婚したいのか?」と繰り返した。


 これまでそこを乗り越えることができなかったのに、私は明らかにはっきりと理性的に離婚すると宣言した。


 このような、結婚以来初めての私の反乱行為には突然でも偶然でもない長い因縁の繋がりがあった。ようやくここまできたのだ。


 夫JBの根っからの合気道好き、この土地に来て出会った合気道の武藤先生、その知人の石橋鍼灸院、私の腰痛、間も無く私の問題を見抜いて院長がくれたに違いない一枚の紙。さりげなく窓口に置いてあったのだが、私がそれを見つけた。



 まずは愛と平和の祈り。「生きとし生けるものが幸せでありますように」と様々に範囲を移して願って行く練習。私は飛びついて練習した。

 生きとし生けるものの幸を祈った、心から祈った。そして私の心が澄むことによって自動的にJBの心にもそれが伝わることを信じて、愛と和解を祈った。「彼とその一族が真に癒されますように!」


 それもできなくなった時、まさに次の紙が一枚そこに、鍼灸院の窓口に置いてあった。

 躍り上がってそれをもらった。

 それからは自分の魂とも言える自分の中の「ハイヤーセルフ」へ、

「どうしても夫を許すことができない私です、そんな私を許し、全てをあなたに任せます、私の大切なハイヤーセルフ、あなたに」

と日々祈った。



 その日は十二月四日であった。そう祈りながら歩いていた。


 突然「あなたに罪はありません」と聞こえた。足が止まるほどに衝撃を受けた。

 誰の声でもない、思念というには声であった。それを受け入れた。スピリチュアルな世界という、私の意志と関わりない動きが同時に納得できた。  



 十二月七日、JBが深酒して転んで怪我をした。哀れな醜いさまを私は冷たく眺め、冷静に近場の長谷川病院外科に連れて行った。この後長谷川病院には何かと頼るようになった。

 数日後には、夢うつつの時に、はっきりと孫の祐介の声と言い方で、「おじいちゃんは、、、なんだよねえ」と響いた。空白には「仏様」が入るのは明らかだった。


 十二月十一日、裕介の誕生日からひと月たった。

 自分という意識の限界を知り、ひたすらハイヤーセルフを呼び出した。

 あなたに委ねます、ということの影響は凄まじいものである。一遍に全身が浮き上がる軽さ、心配する必要がまったくない、私はただその叡智を信じて楽しく安寧のうちに暮らせばいい、完璧を信じることだ、実相の円満なることに安堵することなのだ。これを帰依というのだろう。


 十二月十九日、就寝前にフルパワーの呼吸法で瞑想に入るようにしてから三日目。家人の一週間の便秘が解消。何かと心配な孫のことを案じるのをやめ、幸せそうに笑う素晴らしい姿を拝した。「もうこれはやめられない」と感じた。


 しかし翌日から、寝不足と緊張とで不整脈が強くなったので病院に行く。

 マイナスの波がきただけだ。

 その間に色々家政上の失敗をしたが、それにもとらわれない。

 失敗するべき成り行きだったのだ。そう受け止め、こだわってネガティブにならない。


 十二月二十四日、クリスマスイブ。一週間前から温めていた言葉をついに使うことになった。マッチョ的なハラスメントが続くので、考える前に言った。


「あなととの共生からお暇をいただきたい」

 自分に納得できるように日本的で古風な言い回しを使った。もちろんJBにはわからない。休暇を取らせてもらう、と私は訳した。そして二人の間の平等性と公平さが重要だと付け加えた。



 二十七日、またテーブルに離婚の言葉が載った。

 無意味なセクハラの後、彼が初めて無意味だ、と言ったのに乗じたのだ。

 しかしその前に、自死した長男も、またJBも、一族の希望の星であって、苦悩の記憶から救われたがっている祖先を引き連れていることが妙にわかった。それを手助けするというのも自分の、この強い私に課せられた仕事であるとわかっていた。


 二十八日、前夜、離婚を要求した。

 しかし、その後のことを考えていると、この朝のこの状況が言いようのないほどの恐怖そのものとなってのしかかってきた。怖かった。離婚が怖いのではなく、その結果が怖かった。私の身の振り方云々ではない。


 してはならない、という叫びがあった。そうすればJBをめぐる地獄を見る。取り返しがつかない。避けなければならない。

 進むも下がるも恐怖。前も後ろも断崖絶壁、あるいは切り立った崖に両側から挟み打ちだ。

 おぞましい惨めな夫の残骸がちらついた。それが恐怖の原因であることに自分でも驚きつつ、圧倒されていた。

 これはダメだ、これはとてもたまらん、私はすぐに切り替えた。


 関係を改善する最低条件がすぐにわかった。

 気持ちの上では離婚している。しかしヘルパーとして家政婦として共に暮らし、必要な世話をする。生き方(彼の三悪)と考え方(男権主義)を、家政婦が居易くなるよう改める。


 このことを翌日二千十五年の十二月二十九日に鍼灸師の山本さんに話した。まだ世間を知らない若い彼にはむごい話であったし、どこまでわかるかは別として報告しておいた。

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