第一章 揺れる水面 第2話 山本徹

  ボク、山本徹いう生粋の関西人やけどな。人間、日本人、五十三歳、それと生涯未婚、別に欲してそうなったわけやないけど。まあ、どうしてやろ、疑おてしまうんや、この女性が好意を寄せてくれはるのは本当にボクを知っての上やろか、ボクという人間に対する愛やろか、それとも結婚いう妥協やないやろか、むしろ? などと気を回しているうちに、同居の母も亡くなりぃして、親族いうたら割と近くに住んでいる妹家族だけになってしもうた。


 大阪大学を受験しようかと思うほどの成績やったから、まあ人並みの頭ではあったと思うで。仕事は中堅の自動車セールスマン、人と話すのは苦にならない質やしな、比較的楽しく過ごしてきたんや。いわゆるバブルも、はじけたバブルも経験した。一貫してサムライ魂、のような生き方への幼い、というか、純な憧憬が消えへんかったのは、家庭いう責任を持たんかったせいかもしれんけど、それの体現が合気道というものでな。


 合気道の開祖、ヒゲの長い、小さな盛平じいさん、やっぱ武道の天才やな。こんなに気楽に呼んだらみんなに怒られるわ。物理学と宗教をミックスさせた感あり。

 身体力学をよく把握し、攻撃者の重心をすっとずらすと、相手はもう自らを放り投げるしかない、骨を折りたくなければな。接点の一箇所に全身の力、あるいは気を集中させたらそりゃすごい力が発生するいう仕組みやね。気、て、まあエネルギーやん。見えない。でも効果絶大。ここから、ややミステリアスな、神的な部分が仄見えるやろ。


 え、誰に向かって話してるって? あ、あ、そうか、今はシュートさんや、ボクの頭の中のひょろ長いイギリス人。彼、合気道好きでな、ボクともちょうどいい相手、腕前がね。ボクやや英語できるからな、二人でああだこうだ、手の組み方を研究したり試したり、楽しいで。最後は畳の上でゴロンと転がる、その楽しさ! 


 戦っているように見えるけど、それは目的じゃないのんや。競争でもない、仮想の戦い、身体と精神、物理と形而上学との絡み合いの研究、うん、そうやな、かっこいいやろ。もちろん、もし誰かに突然襲われたら、とかボクの体験やけど、車に当てられたら、そこで日頃の反射神経が効くんや、あっという間に投げ飛ばしたり、車に飛ばされても猫のようにくるりと回転して地面にしゃがんどる。(まてよ、猫いうのはその割りにはよく車に礫かれとるなあ、そうか、あれは光が眩しすぎて身動き取れないせいやと聞いたで)


 山本徹は、咳払いした。つい嵌まり込んでいたシュートとの話を打ち切る。半ば気を失っていたのか。


 誰も知らない、自分に今何が起こっているのか。自分でもわからない、ただ背中と胸が痛んでたまらない。それをこらえようとすると、猛獣のような咆哮が喉から溢れる。それをやめることもできない。瞬時、少し痛みが和らいだとき、柔らかい微笑の顔が浮かんだ。どこと言って欠点のないブロンドの女の顔、それはシュートの奥さんの顔だ。シュートにはどこか、遺伝子の質の悪さ、よのうな部分があった。そう言ってはおこがましいが。彼女には彼には勿体無いような、上質の遺伝子を山本は感じる。シュートの異様なところについ引っかかってしまった彼女マリーに、ダグ・シュートはまさに彼女の上質なところに彼の遺伝子を送り込んだのだ。八歳の息子ハーッシュは天使のような声をしている。子供だとはいえ、わずかの時間で関西弁を自由に操る、それは大した出来であった。


 妄想の中にいるうちに、救急医がやっと診てくれた。大動脈が裂けかかっているのではないかという。裂けてしまっていたらもう命はなかったろう。


 不思議なことに、命拾いした山本徹にはしかしもう合気道は無理そうだった。 入院中はただひたすら安静、血流を正し、栄養バランスを管理され、山本徹の体は真面目に反応し、また浮世に戻って来た。


 合気道の道場に一歩入ったとき、彼は毎度発声練習をして、自分の声が響き渡るのを楽しんだものだ。実は彼には美声があり、市の合唱団で長く歌っていたのだ。そういえば、マリーの両親はともに英国ではオペラ歌手だそうだ、家で合唱するのだと聞いたことがある。まるで夢のような場面ではないか、自分がまだ結婚を諦めているわけではない、とわかっていた。


 しかし、とりあえず、どうしよう。会社では閑職扱いになり、まだ役に立つかどうか自分でもわからないのだった。散歩の代わりに、家の周りの土を掘り返して、畑を作ることにした。下手なりに大根、人参、ネギ、葉の物が育つ。妹に分けても余ったのは、近所の弧老の家に配って回った。どの家でも、爺さん婆さんには顔を輝かせて助かる~~と言われた。ふんふん、とそんな帰り道ではつい歌の練習をした。小さなボランティアか、と呟いて。


 リハビリも兼ねて、と思っているうちに、スーパーで彼らに頼まれた買い物もすることが次第に多くなっていった。昔、母が八百屋の注文聞きの若者に夕食の献立の相談がてら必要な食材を持って来させていたのを思い出した。買うついでのサービスだった。

 近所を回るうちに、これまで接触のなかった人々のうち特に困窮している家が意外に多いと気づく、ここは大阪市の北側、ベッドタウンとも言える中流の洒落た中都市で、金持ちも山手には邸宅を構えていた。もちろん、山本徹の家も安普請の平屋建てではあったが。


 春先、山本徹は脇目もふらず、鍬を振るっていた。無心である。声がして、

「いつも両親がお世話になっていまあす」

と言う、同時に子供の声も

「いつもお世話になってまあす」

と聞こえた。誰のことかと思いつつ顔をあげると、小道によく似た母と子がこちらを向いて笑っているので、徹も自動的に笑いを返す。

「この先の坂の上、田村の娘なんですう」

と語尾を伸ばして言う声が若々しく響いた。色白でふっくらしている。それだけで十分だと瞬間的に徹は感じた。

 それが出会いであった。

「いい声をしてますね」

と徹が敏感に察して言う。

「そうですかあ」

とコロコロと笑う。その後、田村の老夫婦(と言っても還暦すぎたほど。奥さんは顔立ちが日本人離れしている)からの情報で、かの子がシングルマザーであり、介護士をして子を育てている、その子は一年生だとわかった。妙に利発そうな眼差しが印象的な。


 冬の間の入院生活からやっと啓蟄の虫のように這い出たような気がした。特に死にたいと切実に思ったわけではないが、死ぬならそれでもいいと何処かで思っていた。両親はすでにあの世にいるし、この世に心残りも無いではないがまっすぐに心穏やかに生きてきたのを自分に褒めるような心持ちでもあった。


 そして、人の助けになりたい、もしできるなら、と感じている自分に気づいてもいた。何かが、さらさらと流れていた。特に努力しなくても目の前の諸々に心穏やかに、ありのままに接することの平安が徹の中にはあった。こんな自分を賜ったのは前世の因縁かな、とチラと思ったがまた忘れてしまった。


 まあ、ボクの顔はノーブルな方やしな、そんなに悪い印象は与えへんと思うけど、と山本徹はひとりごちつつ、三十過ぎくらいに見えたさっきの母親を思い描いては鍬を振るっていたのだが、恋の始まりのような高揚した、あたりの色合いが変化したような気がするかと気をつけていても、それほどでもなかったけれども、それでもわずかに幸せな気分ではあった。脳の扁桃体あたりにある恋愛の、というか性愛のスイッチが入らなかったのはそれは年齢のせいかもしれんなあ、とまたひとりごちた。


 昔、性愛関係ではお互いに満足していたが、感情関係では、というか性格的には最悪という相手に出会ったことがある。女の動作や、言葉、意見、考え、反応、嫌悪感と非難の多さ、否定的な悪意に満ちた判断、食べ物の好み、色、自然、動物への好き嫌い、どこにもうなづきあい、微笑み合い、認め合って親しく尊び合うという接点がなかったのには参った。第一、他者を認める、仲良くしよう、という態度がゼロだった。世界中を彼女が呪い、呪詛と憎悪のことばを吐き続けるのを、徹が我慢していなければ一日として付き合いは続かなかっただろう。 有り体に言えば、嫌いなタイプだった、おそらく彼女の方も徹のようなやわで優しげな、人の良すぎる男では物足りなかったはずである。しかし、神の言葉通りに性愛のホルモンはバンバンと出ていて、生命を、人間を突き動かすのみ、そこに本来は選り好みはないのだが、一つおそらくより良い遺伝子を選ぶ、という生存競争上の戦略が隠されていて、時に、性愛の相手が一人に決まる場合がある、それを恋愛と呼び、文化的にロマン的な結びつきと思わせ、子を育てるのにふさわしい環境を整える一助とするらしかった。徹はそう教わった。文化人類学などをまあ、いい加減な気持ちで専攻したからであったが。


 要するに、もともと誰でもいいから性愛が満たされて、日常生活であまり齟齬がなく、できればにっこりし合うほどの相性の良さがあればもう満点なのだ。あれ、どうしたんや、自分? 山本徹はあまりに適当な自分に驚く。ここ十年、付き合いそうになっても自分のかなり気難しい条件のせいで、それ以上に進むことをむしろ早めに諦めていたらしい。


 そうやな、執着、依存、それが問題ちゅうわけか。恋したら執着する、嫉妬する、愛されたくなる、所有したい、所詮そういうことやったんや。人間の品を落とす、、、どうしたんや、この悟りみたいな考えは? 死にそうになったおかげで? なんか憑き物が落ちてしもうた? ようオカンが言うてたが、人生はあざなえる縄の如し、となあ。ところであざなえる、ってどんな漢字やったやろ、帰ったら調べよ。


 採れたばかりの大根を数本、新聞紙でくるんだのを箱に入れて、ちょうど自転車でコンビニに持って行くところだった。夕闇がおりて、空の色がすみれ色だったし、上限の繊月が西空にかろうじて引っかかっているのを見ながら、人気のないのを幸い、ちょうど3月のコンサートの演目に決まったイタリア語の歌を口ずさんだ。まだ完全には覚えていない。


 山本さあん、と声がかかったので、山本徹がキュッとプレーキ音をさせたのはセブンイレブンの手前の歩道であった。まだ寒さの真っ最中なので、路地や道端に雑草一つも咲いていないが、人間の花の笑顔がそこにあった。一回り小さな笑顔も添えて。


 笑顔はいいもんや、と咄嗟に感じた。田村さんの娘は、先ほどは、と言い、昨日はまた母がお世話になりましたそうで、と新たにお礼を言い始めた。アハ、いえいえ~と山本も言う、お互い様ですよって。これ何?と子供が、よく見ると男の子らしい、女の子のような感じだったが、よく見るとどうも男の子だった。子供は、自転車の荷台の箱を突っついている。これこれ、と母親が注意する。

「これな、大根が入ってるでボクが作ったやつ。送りに来たん」

と半ば母親に説明したのだが、子供は少しも納得していない、さらに

「どうして、誰にぃ」

と尋ねて来た。その子供らしい押しの強さについ母親も笑ってしまっている。その程度の反応が山本は好きだ。子供に躾が厳しすぎるのは見ていて心が痛む方だった。

「誰にってか、え~っとおじさんの先生にや」 

「先生って誰~?」

 母親がまた笑っている。息子の頭を少しさわりはしたが口では咎めなかった。 

「吉田先生」 

「へえ、何の先生?」 

「合気道の先生」 

「大根好きなの、その先生?」

 そう訊かれるとは思っていなかった山本は不意をつかれて、どもった。 

「大根、大根、嫌いっちゅう人はあまりおらへんで、第一採れたてで美味しいはずやし」

「ふぅん」 

「キミ、大根好きか?」 

「大根、、、まあ料理によるよね~」

 このもっともな返事に大人は笑い出した。


 それから、コンビニに双方入っていき、用事を済ませる。山本徹は弁当を買い、母子も夕食らしきものを買っている。それとなく見ていると二人分だ。そういえば、と山本は思い出そうとする、田村さんの奥さんは確かハーフとかで、二人には娘と息子がいるが、別に住んでいるとかだったかいな~、記憶は確かではない。


「では、どうも」

と、山本があまり厚かましくないように遠慮してさっさと済まそうとすると、母親が答える前に

「またあしたもくるからな~」

と、子供が言うので、

「お。そうか、じゃ採れたての大根あげるさかい」

と思わず言ってしまった。母親の方は可愛くて仕方ないというように、我が子をまた撫でながら、ころころと笑った。

 なかなか、最近ないようないい感じの人やなあ、と思う。神さん、と人間の癖で、大空を見上げて語りかけた。ありがとう、どうも、いつも。いいプレゼントまたいただきました。山本徹の意識は自分がそうつぶやく声を聞いた。




 私、大きな神、太神であるが、は決して手は出さない。いわゆるちょっかいは出さない。全ての決定は人類の自由に任せてある。その結果がどうなるかは決まっているが、取り立てて良いとも悪いとも言えない。どっちにしろ最後は大団円である。最初からそうだ、大団円でないことはあり得ない。この私が唯一の存在なのだから、全ては最初から永遠まで完全無欠、パーフェクト、間違いなし、極楽浄土なのである。これには大いに不満の声が上がることだろう。何万年にも渡り、呪詛の声が上がっている。これだけ神に祈っても何のことも起こらないではないか、と。


 しかし考えてもみて欲しい。先にもすでに触れたことだが、神に願いをかけても、相反するチームの願いが同じく勝利であるなら、どう頑張っても半分はがっかりする。勝負事や戦をしなければいいのだが、まあしてもいいのだが、勝ち負けにこだわってはいけない。楽しく勝負するならいい。結果がどうであれ、楽しく遊べたことが素晴らしいのである。


 そして肝心な点は人類がそのことを思い出すかどうか、であり、もちろん覚えているのだが、表面意識のバリアーを超えてまさに今、現在、そのことを思い出せたらしめたものなのである。


 ところで、この山本徹が人生の達人になるための準備を私はちゃんと整えておいた。大病に際して泰然自若と応対したのは見事だった。心に引っ掛かりが少ない、執着の少ない環境と生活が役立ったのである。これはイエスの言葉にすでに現れている真理の一つ、この世を動かしているシステムの仕組みである。そして彼は頼りになる暖かい家庭を思い描いている、諦めずまっすぐに決めている、その幸せの可能性を選定している。


 そうであればまた、システムのもう一つの仕組みが有効になり、同類の同種のものが集まるようになる、自ずと。彼の願いは具体的な形を取り始めるだろう。しかし、その幸せをより確かに体験するためには、第三の仕組みが働き出す。

 禍福は糾える縄の如し、と私が彼の母親に言わせたごとく、光と対照的な闇が姿を表す。それを克服して初めて光の輝かしさが一層身に沁みる。そのような法則がある。


 一見私の意地悪のように思うだろう、神ならさっさと幸せにしてくれ、と思うだろう。それは神の概念の履き違い、勘違いである。神は、私は完璧であるので、不幸せな存在は創らなかった。聖霊である私と表裏一体の物質宇宙が不完全であるわけがない。人類の意識にそう見えるだけだ。人類は真理の美しさ、完全さを忘れて生まれてくる。それも私の意地悪ではない。


 私の愛をたっぷりと受けて、それ自身完全である分身たちが遊べるように、ちょうど人類が架空のゲーム世界でハラハラして遊ぶように、遊び場としての幻想世界をこしらえたのだ。ただ、その仕組みや法則がわかっていては、本来の自由意志を発揮できない。自由は無制限の愛と一対である。


 最初から満足が与えられていれば、大した体験にはならない、普通のこととして慣れてしまう。しかし、その前に克服すべき暗黒が現れると、それとの対照によって、自由と選択を通して、本来の目的である光明が強まるはずだ。つまり、人類の行動の責任は、一見暗黒に見えることが現れても、山本徹の大病の場合のように、あまりそれに拘らないで行き過ぎさせることである。相手をあまり憎んだり、追いかけたり、思い出したり、不安がったり、悔しがったりしない。現状を受け入れる。できればこれくらいで済んでよかった、ありがとうございますと言ってもらえるといいだろう。


 まあ、それとても、私と人類の遊びではあるが。彼らは知らないけれども。遊びだがしかしこの遊びが真理の遊びなのである。実はみんなわかっている。ただ生まれるときには忘れることになっている。


 人類が私のあり方を想像しやすいように、こう記してみよう。私は存在する全てであり、私はエネルギーである。真善美の全てであり、無限の愛そのものである。人格ではなく、人間の想像は及ばないのだが、なんとかぼんやりとでも想像してみてほしい。


 そんな神がいわば鏡を覗く。いわば湖面を覗く。

 自分を写してその完璧さをみようとして。

 私の唯一の願いである。

 鏡は正しく反射しているのだが、その中に幻が生じている。そこには私の小さな似姿たちが活動している。そんなふうに見ている、人類自身が、自らの五感のフィードバックで。

 彼らの神秘の目的は、至高の真善美を体験することである。ただし、影や歪みを事前に経験しては真の愛を感じて歓喜する、と言うしかけがある。


 人類が永遠の問いのように謎を追いかけている、その謎の答えである。


 もう一度言おう。幻としての人類に納得してもらえるには何度でも伝えることだ。人類存在の理由は(全宇宙も含め)影を押しのけ、一歩一歩とより高い境地に達することである。影に気を奪われてはいけない。それから死を恐れてはいけない。死は恐れではなく待ちに待った喜びの、真理と神とに出会える機会なのであるから。


 かと言って、人類の住む(と思っている)この幻想世界が修練、ないしは試練の場であるわけではない。真理を思い出しさえすれば瞬時に問題は解決するようになっている。この種の大問題に関して、「死すべきもの人間」という有名な言葉があるが、死を意識する人類には苦しみがつきまとうのは確かであろう、しかし、死とはなにか、死の様相と死の感覚は、これまでの想像を大いにこえている。極楽浄土という想像は当たっている、それは保障しよう。

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