希少率0,8%木原東子の思惑全集 巻7 あなたも知りたい筈 「揺れる水面」「時は流れているか バートミュンスターまで」「光はプラスマイナスで進む」「さらば 平成ヤマト」

@touten

第一章 揺れる水面 第1話 神が語るとすれば

 もし私が私について自由に、思う存分、隠すことなく話しても良いと言うようなことが起こった時があったとする。私は自分が神であることを誰にも気づかれないようにしてきた。人間の内で暮らしてみたいと言うただの好奇心、というか究極の好奇心、あなたにおいて私を感じたい気持ちが自ずと物質創造へと反映するのである。


 いつから自分を個別化して、人間の内に潜んでいたかと尋ねられると、およそ三万年くらい前、ということになる。つまり前に進む時間軸において、大脳の進化が現在の状態にまで達した頃である。


 すると瞬く間にガラス瓶の中の砂つぶが落ちてゆき、人類の天才たちが次第に私と言う真理を追い詰め追いすがってきた。願っても無いことだ。無限という概念を人間が考え始め、数学という範疇で「無限プラス無限は」などという等式を扱い始めた、ここ百年余りのこと。


 大脳の重さと容量には一定枠があるが、そこから紡ぎ出される想像、イメージ、思考は私に似て無限であり、無限大無限長、超無限ですらある。



 ところで、神である、と自白するからにはこの現世が誤解に満ちていることを考慮すべきである。特に、「神」についての誤解。人類は私、あるいは想像の私に対して様々な名称をつけた。今、私は日本語を話していて、かみ、という言葉の由来は、「隠身(かくりみ)」、つまり「隠れて見えない存在」からきている。「く」と「り」を隠したのである。要するに、その意味は、人類には見えない、視覚のどこにも私から発する光子が入ってこないということ。死角である。


 つまり私は光を発しない、人類が鋭敏な機械を作り私を観察しようとすると、その瞬間にもうそこにはいない。消えたかのように見えるが、これは神の神秘的な秘密の部類に入るが、超超ミクロな粒子ですら私ではなく、ふっと波動となって霧散する。波動が私の動きである。一個ではなく、無限に、無数に、どこにでも存在する、あるいは存在すらしないが、在る。


 言葉の限界にぶつからざるを得ない。有無の概念を超えるのである。在りてかつ無きも同然だが、幻のような、「やや在るに近い世界」を(ああ、言葉の一つ一つが使いづらいことだ)無限に作ることはあったし、あるし、あるだろう。(この時間軸の人類的な一方向性は私が課した縛りである)


 そうだ、たくさんの縛りをその幻想世界に作っておいた。有限であること、まずはこれが一番目。時間は光とともに存在し、空間も光とともに存在する。光は物質にぶつかって止まり、ぶつからなければどこまでも進む。その彼方は、漆黒であり無いも同然なので、この世界に住むものにとってこの世界は光が進む限りの有限である。無限の世界、あるいは「無い世界」と考えるのは無理だからなのだけれど。


 それでも人類には十分に広大無限であり、この目の前の宇宙の仕組みを知る科学者こそ、従来の概念による神を信じないとはしても、自らが追い求める、解明しようとする相手である真理、宇宙の仕組み、法理の複雑高邁甚大さには愕然とせざるを得ない。ここに大いなる叡智を、見ざるを得ない。

 それは人類の肉体においても、またその特徴たる頭脳にしても、複雑精緻な仕組みには研究者こそ驚き呆れ、誰がこれを作りなしたのかと訝るのも当然である。とは言え、まだ単に物理的な真理というにすぎないのだが。


 道はまだ遥か。私にどこまで迫ってくるか、私のおいた縛りと解けの縁故において。


 私は意地悪でそうしているのではなく、人類を本当に私の実子として扱っているからこそである。(しかし本当の所は、誰でも、私と同じく、その核心において時空を超えており、真理そのものなのであるが)




 この議論の出だしに戻ろう。誰が私に何を尋ねるというのか、とりあえず誰かが尋ねるとして、尋ねられる対象としての私が、無のように広大無辺、無限大ないしは無限小であってはならない。諸君と同じような有限の姿で描かれなければならない。しかしその姿を人類の文化にすぎないとして、信じない人間は増えている。宗教への疑いだ。ただ、無神論者であっても、知りたがっている。自分たちが真理を知りたがっていることの意味を知らないままだとしても。


 地球上のおおよその現状はこうだ。


 ネガティブなことにのみ注目して、まるで神が人類を苦悩させるために大脳を与えたかのように、この生の意味を問い、目的を問い、死があることに絶望し、不幸と不運を神に呪い、あるいは幸運を幸福を神に願って祈る。同じ神に、二つの対抗するグループが勝利を祈ったりもする。人類は殺しあう。どんな理由であれ。もっとも人類は助け合いもするが。あるいは無視したり苦しめたりいじめたりする。我が子を愛したりたまには殺したりする。向上心があるかと思えば怠けたり自暴自棄になったりする。それは運命のなす業であると考えた方が理屈に合うと思う。


 確かに、確かに、相対的ではあってもそれぞれが苦悩している、あるいは種々の理由で喜ぶ場合もある。


  

 さて、人類の一人を俯瞰して、空間的時間的に眺めて観察してみよう。

 祖先探求家、とでも言えるようなひとかたまりの人々なら、インターネットを駆使してあらゆる情報をかき集め、十世代前の先祖グループを探し出せる。私にはもちろん、知識の全てが備わっているので、人類の最初の一人からの増加は逐一承知である。


 この手の祖先の数が思いの外膨大であり、重なり合っていること、個々としては唯一無二でありながら生命体としてのその綿々たるつながりについては、二十一世紀、ほとんどの人類が学んだり、考えたりして承知している。


 それを踏まえた上で、任意に一人の島国の住人を今、みてみよう。この人物が目下のところ私なのである。


 魂はグーグルのサーチエンジンの完全版のようなもので、全て必要な時に必要な解決を知っている。が、ここで、これからここに書かれることの前提条件として私についての誤解の最たるもの、に触れておこう。


 キリスト教の聖書の創世記にはこう書いてある。全能の神エホバが言葉を発し、光が生まれ、そこから地球の生態系を作り、自分の似姿であるアダム、そしてその肋骨からイヴを作った。ライオンもうさぎも共に暮らして楽しかった。満足だった。美しさと叡智とは完璧だった。


 それから、堕天使である蛇が肉と頭脳を目覚めさせた。私は怒って、罰したそうだ。が矛盾したことも言ったようだ(そう書いてある)。

 アダムは汗して糧を得ること、イブは苦しんで子を産む事。

 だがその前に「産めよ増えよ、地に満てよ、地のものを支配せよ」とか妙なことを告げた、と書いてある。その解釈だが、おかしなことに、誰もオカシイなあとは思わなかったようだ。それを真に受けて、人類は肉欲、繁殖、殺生、権力、戦争、地球破壊へと突き進んだ。


 一方で、罪の意識と恐怖と不安から自由にならないままである。殺し合いや病気のせいで、肝心の脳を使った真理の追求は遅々として進まなかった。二千年もかかってビッグバンという現象と量子の世界をやっと知った。天才たちが身を粉にして探求した。


 そうだよ、人類よ、この遅さも神の罰だったという意見もある。余り知られていないが。

 心あるものの、永遠の悲しい問い、何故に我々は存在するのか、どうせ死ぬのに、苦しんで絶望して! 何故に存在するのか???


 しかし、人類よ、安心せよ、神は罰など与えない。神の辞書にはその言葉はない、その概念はない、そんなことを思いつきもしない。

 何故なら。。。。神の定義上、そんなことはあり得ない。不可能である。砂の一粒たりと神が間違って造ったものは存在しない。


 神は完璧無比、パーフェクトである。だから神と呼ばれるのだ。オントロジーではある。生物や人類を苦しめるためにこの世を造ったのではない。第一、君達は苦しんでいない。そう思っているだけである。苦しみのように感じるのはただの幻覚であり、仮想なので、ハッと目を覚ませば消える。百パーセント消える。無かったかのように。無かったのだ。


 数日前にみまかった白寿の老人がいて、兜太と言う変わった名前だったが、日々の瞑想として、亡くなった知己の名前を呼んでいたのだが、そうして、魂を呼び出して語ったりする三十年のうちに、人生の不条理への怒りにいくら燃えていても、死後の世界の穏やかさをしみじみ感じざるを得なくて、ついには生きたままで極楽往生したのであった。


 彼は俳句の名人であったが、人類が各種のエンターテインメントに血道をあげる気持ちは、創造者の私には周知で、自明のことである。現代におけるその最たるものとして電脳的ゲームと呼ばれる遊びは、今後ますます技術的に発展して、リアルか幻か区別がつかなくなるだろう。

 子は親に似るものだ。



 人類の感情、情緒の種類はそれほど多くない、と言っていい。複数の感情が混ざっていることも当然ある。

 その発生には一定のパターンがある。山本徹、というのが私が目下保護している質量体の名前である。言葉を使うとその傍から、記号学的問題が立ち現れるのが人間文化の特徴であるが、まずは、物理学的な説明が必要だろう。


 すでにかなり人口に膾炙しているように、原子核の大きさを野球のボールだとすると、原子の外枠は野球場全体に及ぶという比率になる。そこの周囲を光の速度で回転しているのが(余りにも速いので雲のように見える、見える?)電子であり、そこまでの空間は真空(何もないという意味ではない、そんな場所をも通過するようなミクロの素粒子があり、まさに神の神秘の場なのだ)である。

 原子同士は電子を共有することによってかすかに触れ合い結合し、化学法則に従って分子となり、やや安定する。安定するとさらに結合を増やす。原子核の中にいくつの、どんな粒子があるかによって、元素が(元素表にあるような)規則的に作られ、各自の性格ができる。


 ある程度の分子の塊をアミノ酸と名付け、二〇種類ある。それを組み合わせて生命の体ができるのだが、その前に、ロゴのような組み合せの効く形をした塩基のうち四種類が選ばれて隣り合ってくっつく。そのくっつきが数回続き一つの遺伝情報を担う。違う並びで違う回数でくっついて別の遺伝情報となる。それが繋がって、、、二本螺旋、、、染色体、、、細胞核、、、細胞(ミトコンドリア細胞も)、、、七十兆個まで、肉体の各部分が遺伝子の、あるいは各種ホルモンの製造司令によってせっせと作られる。


 外との接触による情報の脳とのフィードバック、遺伝子解析、各臓器間の情報交換と見事な連携プレー、など21世紀初頭には解明された。

 製作者の私ですら見とれるほどの大活躍である、身体の仕組みも人類の協同作業も。

 みんなでみんなを作るのだ。そういえば、最近ロボットに優秀な人工知能を入れて人間まがいの動作をさせるよう発展していることについて、危惧の声がある。いまにロボットが自分で自分を作ってしまうだろうと。おかしい、生物の構成はまさに自分で自分を作っているのに。生体ロボット。


 ともかく、あまり想像もつかないとは思うが、肉体の基礎にはこの「真空」がある。総体的に、生物の体の基盤は原子核であるように見える。真空によって、エネルギーである電子によって取り巻かれている。その大きさは、あるいは小ささの間にあるものは何と表したらいいのか、それは人類の科学的概念がたどりついていないところだ。


 実は、私は今「山本徹」の肉体を守っている、形成している、生かしている、のである。ただ、当人の意識においては私を認識していない。人類が探し求める真理も救いの神も自分の中にあるのだが、それを忘れている。というのもその状況こそが私の仕組みであり、かつそれが忘却されている。忘却の仮面を脱ぎ捨てて私の家に戻ること、それが人類の為事であるのだが。。。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る