8. 親愛なる偏見

「天野さん」

 呼び止められたのは、店を出てすぐのことだった。誰だかは声を聞いただけですぐにわかった。

「水野さん……。どうしたんですか」

「タメ口でいいよ」私の傍まで駆け足で来て、水野さんは笑う。「居心地が悪かったから抜け出してきちゃった」

 そう言う水野さんには居酒屋での冷たい空気がなくなっていて、私は胸を撫で下ろした。

「えっと……。あそこに集められた人たちって、みんなボランティアみたいな人じゃなかったの?」

「いやいや全然。町屋さんには講義でペンを貸したことがあって、そのお礼に食事に行きませんかって誘われたんだけど、まさかあんな大集団の中に連れられるとは。他の人がどうかは知らないけど、私はあんな気味の悪いボランティア、知ってたら来てないよ」

 やれやれといった様子で肩をすくめる水野さん。本当に気に入らなかったらしく、こちらには聞き取れない声量で口元に悪態をこぼしている。

「……そっか」

 ありがとう、と心の中で水野さんに手を合わせた。不快がっていることもそうだが、何より水野さんがいなければ私はきっと、今もあの湿気た居酒屋で口に出せない苛立ちを押し殺しているのだ。

「天野さんの台詞よかったよ。私もちょうどいらいらが限界を迎える頃だったから、すごくすっきりしちゃった」

 水野さんは傍の電柱に寄りかかって、やるじゃん、と言ったふうに拳を突き出す。洋画でよく見る挨拶みたいに。

 私は慣れない手つきで拳に応えた。そして、少し迷ってからこう言った。

「本当は、私あんなふうに言いたいことを言う人じゃないんだよ」

「そうなの?」水野さんが意外そうに首を傾げる。「様になってたけど」

「……水野さんは、私に何も訊かないよね。気にならないの?」

「あんまり」きっぱりと彼女はそう言った。「人のセクシュアリティ詮索するとか無粋なこと嫌いだし、人はセクシュアリティをアイデンティティに生きてるわけでもないし。とりあえずラベリングしたい人たちは嫌いだよ。そういう人ってペットボトルの中身を確認せずにラベルだけ見て商品を選んでるようなものじゃん。しかもそのラベルすらも捏造する人がいるんだから、たまったもんじゃないよね」

 確かに、その例えは秀逸だと思う。

 それにしても、相変わらず姿勢の良さは崩れないのに、水野さんの口はどんどん悪くなっていく。気がする。心なしか雰囲気も初対面のときと随分違う。それとも、私の目が節穴だったというだけだろうか。

 私の不思議そうな顔を見てから、それに、と彼女はつけ足した。

「私、恋愛も性欲もわかんないから。そういう話題自体あまり好きじゃない」

 その言葉に、水野さんの第一印象を追っていた私の脳は、少し遅れてはっとする。

「いわゆるアセクシュアルだよ。恋愛感情も性的欲求もわからないから、恋愛はいいぞとか、人を好きになるのは当たり前だみたいな風潮が嫌いなの」

 電灯が何度か点滅して、暑くもないのに手に汗が滲んだ。水野さんの双眸が、注意深く、けれどそれを悟られないように絶妙な素っ気なさを装って、私を見つめている。ずっと、私を見ている。

 私は、何も言えずに固まっていた。

 先ほどの言葉のひとつひとつが、じわじわと胸に突き刺さる。

 数分前まで、私は「彼氏・彼女いるの?」ではなく「恋人いるの?」と言えばいいのに、などと考えていた。その質問自体は不味くはないけれど、私はそれを恋人がいることを前提に考えていた。恋人を欲しがらない人がいるなんて、微塵も考えていなかった。

 私は顔を上げて水野さんを見る。

 なんて浅はかなのだろう。誰かの偏見を探り出しては、口に出さずに心の中で不満を並べ、夢や妄想で人に当たることしかできず、そうすることで、心の安寧を保っていた。一番愚かで恥ずかしいのは私じゃないか。

「水野さん……」

 謝ろうにも、私は赤面して上手く言葉が出せなかった。言葉にならない、喘ぐような音が口から漏れる。

「なに?」水野さんは顔を近づける。私よりも背の低い彼女は、首を伸ばして、周りの雑音に私の声が掻き消されないよう、覗き込むように上目遣いになった。

 私はそれに一歩退く。

 繁華街特有のざわめきが聞こえる。どこか遠くない場所で酔っ払いが叫び、ガラスの割れる音がした。頭上の電灯が再び点滅する。

「――私、さっきまですごく失礼なこと考えてた。恋愛も性欲も、当然のものだと思ってた。みんなの前であんなこと言ったくせに、想像力が足りていないのは私のほうだった」

 口に出してみるといっそう恥ずかしかった。私のやっていたことは愚痴を垂れていただけにすぎないんだ。偏見と正義に囚われていたのは私の方だし、そんな幼稚な意志で誰かを糾弾しようなんて。おこがましいにも程がある。

 恐る恐る顔を上げると、水野さんは目を丸くしていた。

「そんなこと気にしてたの?」彼女は可笑しそうに笑う。「誰だってこんな世の中で生きてたら想像力を養えないよ。私は自分がそうだからこうやって言えるけど、もし人を好きになれる人間だったらアセクシュアルって言葉すら知らないだろうし、異性だけが恋愛対象の人間だったら、同性も愛せる人の気持ちなんて、言われるまで想像できないと思う。まあ、想像力にも限界があるから、誰にも失礼なく生きることなんて無理だろけど――それにしても、想像力のない人が多すぎるよね。右に倣えの国だから、誰も自分で考えることをしないんだ」

 少し、遠くを見るような目つきになる。しかし、すぐ戻る。

「その点、天野さんは大丈夫だと思うよ」水野さんは続ける。

「私が?」

「だって、ちゃんと気づいてわざわざ正直に謝ってくれたじゃん」

 水野さんは私の顔を覗き込むとわずかに笑って、ゆっくりと駅の方に向かって歩き出した。ふんふん、と妙な鼻歌を歌いながら。私は少し遅れて、その背中を追う。

「……水野さんは、どうしてそんなふうに穏やかでいられるの?」

「へ?」振り向いて、水野さんはいつかのように静かに吹き出した。口元に手を当てて声を殺し、こちらは真剣に訊ねているのにあまりに長く笑うものだから、私は不満げな視線を向ける。

 ごめんごめん、と水野さんは謝る。

「私、そんなに穏やかな人じゃないよ。自分に甘く生きてるだけ。自分に甘くなると、不思議と他人にも甘くなるよ」

「……おばあちゃんみたい」

「せめてお母さんにしてくれ」水野さんは再び笑い出した。今度は我慢することも諦めたのか、口を開けてげらげらと声を出している。その豪快な笑い方に、私までなんだか可笑しくなってきて、気づくと二人で悪の組織のように笑いながら夜の繁華街を歩く不審者になっていた。

 ネオンに横顔を照らされる水野さんは、やはり別人のように思えた。なんというか、会うたびに印象が変わる人だ。のらり、くらり、水みたいに。掴み所がない。

 しばらく進んだところで、水野さんは振り返らずに私の名前を呼んだ。天野さん、と。

「さっきは色々言ったけど、この問題を解決するには莫大な時間がかかるだろうし、私たちが死ぬ頃にだって世の中はあまり変化していないかもしれない――ていうか多分根本的な問題に限定したらしてない。でも、私たちはそんなクソったれな世の中でも生き残っていかないといけないわけだから、身を守る手段をできるだけたくさん知っておくことが目下の課題じゃないかなと思う。――水野さんは、自分を大切にできるようになるところからスタートだね」

 最後にこちらに視線を寄越し、ふ、と柔らかい笑みをこぼした水野さんは、やはり私より断然大人びている。これは姿勢の良さのせいなんかではないと、私にはちゃんと理解できた。

「さ、帰ろ帰ろ」

 手を合わせ、水野さんは妙な鼻歌を再開した。ふんふん、ふん。ふふん、ふふふん。全然知らない曲だったけれど、音程がかなり外れていたので、もしかすると知っている曲だったのかもしれない。わからない。

 姿勢良く上品に振舞ったり、不恰好な鼻歌を歌って豪快に笑ったり、出鱈目な人だ。いや、こう思うことも偏見なのか――?

 思い至って、苦笑を漏らした。そんなの、私の知ったことではない。

 それから水野さんは、駅に着くまで一言も喋らなかった。結局、私のセクシュアリティについては一つも話が及ばないまま、彼女とは駅であっけなく別れた。

 ちょうど帰宅ラッシュの時間帯だったらしく、押しつめ合う車内で、私はほとんど窓に貼りつくようにして外を眺めた。私たちが辿ってきた道のりがほんの一部、垣間見える。

 ここからでも路上にはぽつぽつと人が確認できた。町中のネオンが夜空から光を奪い尽くしたかのようにギラギラと光っていて、先ほどまで身を置いていた街の喧騒が思い出される。

 私は駅までのわずかな道のり、水野さんの一歩後ろに位置を取り、そこそこに賑わう夜の街を眺めながら歩いた。少し前まではあの無駄に騒がしい空間が苦手だったのに、今夜はそれほど不快に思わなかった。それどころか、定期的に酔っ払いを見かける度、ゲームのクエストか何かでモンスターとエンカウントするようだと考えると、少しだけ笑えた。

 ここはああいう場所なのだ、と今は思う。いろいろな人がいて、それぞれに正義を持っている。私が神経質に探し回っていた偏見と呼ばれるものだって、そこらじゅうに蔓延っている。誰が正しくて誰が間違っているとかではない。ただ、混沌とのだ。何が自分にとって良いものかは、自分で決めればいい。決めるしかない。その代わり、嫌いなものとの接し方も、距離の取り方も、すべて自分の責任だ。

 誰かが守ってくれる世の中ではない。

 自分を大切にする者が、生き残る。

 不満を並べる暇があったら、私たちは自衛の手段を、その場を切り抜ける方法を考えなければならない。真っ向から立ち向かうだけが、問題と真摯に向き合うということではないのだから。

 かたかた、とちいさく車両は揺れる。その度に日夜社会で戦うサラリーマンたちの勇ましい身体が背中にのしかかり、呻き声をあげそうになる。

 なんだかわからないが、笑ってしまいそうになった。

 これから少なくとも四年間、私はここで生きていく。

 きっと世間が変わるのを待っているうちに、私が殺されてしまうから。そうなる前に、自分に甘く、のらりくらりと言葉をかわして身を守る、そんな人に。

 私も、なれるだろうか。

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