栗栖リリ

「女」

一人の女がベランダに立っていた。

ぼうっと辺りを観ているとベランダの手すりに小さな穴があるのに気が付いた。

顔を少し近づけて見てみると、手すりのこちら側の金属面に小さくくり抜いたような穴が開いている。

女はその穴の輪郭を何気なく指で撫でてみた。

すると穴はスルスルと少し大きくなり、指の先が入るほどの大きさになった。

さらに撫でてみると、また大きくなった。その感触はスルスル軽く、そしてゴムのような弾力を感じるが、外側に圧をかけて撫でるとどこまでも大きくなっていくようだ。

感触の興味深さで女が穴を広げ続けると、人ひとりが入れるくらいの大きさになった。

女はその穴に頭を入れて中の様子をうかがった。

穴の縁に手をかけると皮膚のような弾力を感じる。

中は真っ暗で何もないが、下の方を見やると金のような黄色のような丸い粒が落ちている。

女はそれが気になって穴の中に入った。

穴から見た時には下の方にあったのに、不思議な事にそれは数歩歩いてすぐに手が届いた。

直径1センチほどの粒だ。

底が少しつぶれて、アンパンみたいな形になっているが、何かが焦げてへばりついているようなガサリとした部分が天辺と底にある。金属のような光沢もあった。

それを拾い上げた女はそのまま歩き出した。真っ暗で何も見えない中、まっすぐに進む。ハイヒールがカツカツいう。

音は空間には響かず、固く、短く鳴る。その音がどこか心地よい。

カツカツ

カツカツ

カツカツ

カツカツ

 心地よい音に深いリラックスを感じながら暗闇の中を歩いた。

 女はふと足をとめた。上を見て見たが何もない。左右も真っ暗だ。何気なく自分の足先を見ると穴が開いている。

角が丸く取れた四角いその穴はまるで窓のように暗闇に光を取り込んでいる。女は近づいてその穴をのぞき込んだ。

そこにはこじんまりとした家があった。周りは木々で覆われ、葉は黄色や赤に色づいている。よく見ると茶色い枯葉や緑のままの葉もある。

大きめの三角屋根にも壁にも苔が蒸して蔦が這い、地面にぴっちりと根付いている。

緩やかな風が吹いて、秋の森のような柔らかな雰囲気の中でその家は静かに存在していた。

 女はその穴に足から落ちるように入ってみた。ふんわりと浮くような飛ぶような感覚で静かに地面に降りられた。

息を吸うとその世界の空気の匂いがした。

少し冷たい、苔や、枯葉や、石、土、木、じめっとした湿気も感じた。この空気が心地よかった。

 女はその家へ入ってみる事にした。

着地した家へと続く石畳から少し歩いて家のドアを開けた。中に明かりはなく、灰色の石壁に囲われて、中央にはダイニングテーブルと、左端に小さなキッチン、右の壁に丸椅子と横長の台が置いてあった。

寒々しい部屋だった。

もう少し進むと手前の部屋との仕切りがあり、右側には風呂、左側のキッチン裏には空間と窓があるだけだった。

 ちょうど入り口のドアからまっすぐ歩いた突き当りにまたドアがあった。開けてみると、そこは裏庭になっていた。

 木が丸く裏庭を囲うように生え、たっぷりの落ち葉が地面に積み重なっていた。女はその落ち葉の山に手を入れて感触を楽しんだ。カサカサと軽く、どこか湿っぽく冷たい。

女はその上にガサガサと寝転がった。

 気持ちよかった。空は穏やかな青で、雲一つ無く、うっすらと星が一つ光っていた。肌の表面を撫でる風は優しく、ほんのり冷たい。

鼻からゆったりと息を吸うと、またこの世界の空気を感じた。心からリラックスできた。体の背面をふんわりと支える落ち葉に沈み込むように息を吐いた。腕を落ち葉の中にいれて感触を楽しむ。すると手に何か冷たいものが当たった。

起き上がりながらそれを引っ張り出すと、金属のチェーンがシャラシャラと音をたてて出てきた。輪になったチェーンの周りには小さな鍵のようなものがぐるりとついている。

 ふと前を見ると、足先の向こうの木の幹に割れ目があった。中に入れそうなほど大きな割れ目だ。女はチェーンを手に持ったまま、その割れ手に近づいて中を少し覗いてみた。中は真っ暗でトンネルのようになっている。女は中に何があるのか気になった。少しの冒険心が湧いた。女はチェーンを肩に引っさげてトンネルの中に入っていった。

 中は真っ暗だが、目が慣れてくるとなんとなく周りが見えてきた。

丸いトンネルの壁は木と土が混ざったようなものでできていて、じっとりと湿っている。空気は土臭いがどこか爽やかだ。

一本道を進んでいくと、二手に分かれていた。女はとりあえず左に進んでみた。十数歩歩くとすぐに突き当りになって、女は足をとめた。

そこには大きなナメクジがいた。

そのナメクジのすぐ後ろに丸いドアがある。ナメクジは何も言わない。

トンネルの湾曲した壁に沿ってゆっくりと左周りにぬるぬると這っているが、ほとんど前進はしない。

女は近づいて恐る恐るドアに手を伸ばした。ナメクジはおとなしいままだが、それでも少し警戒しながら女はドアを開けた。

 開けた向こうは自分の家の前だった。家の入口の門が目の前が見える。

意外で、それほど興味も湧かなかった女はそのままドアを閉めて、さっきの二手に道が分かれている場所までもどった。

今度は右手に行ってみた。

進んで行くとトンネルの上半分が徐々に苔むしてきた。

左にいった時の四倍ほど歩くと、また突き当りにきた。

目の前には細い木の板がいくつか縦に並んでトンネルの壁に沿って丸くはめ込まれているだけで何もなかった。

女は少しがっかりして、その木の板を撫でた。

すると小さなくぼみがある事に気付いた。

でこぼこと何かの形を彫ったようなへこみが連なっている。はっと気づいた女はもっていたチェーンをそのへこみにはめた。

最後の鍵の形をした金属をへこみにはめるように押し込むと、すっと何の摩擦も重力も感じさせず、軽やかに丸い木の板が向こう側に開いた。

 女は頭だけを出して外の様子を覗った。人も動物も何も生き物はいない、静かな海岸だった。

トンネルから一歩出てみた。

すぐ右側には岩壁があり、数歩歩くと波打ち際に足が届くほどの小さな海岸だった。

浜の砂は荒く、大きな岩があちこちにある。どの岩も濃いグレーと淡いグレーがまだらに混ざっている。

静かな波の音を聞いていると頭の中が静かになるのを女は感じた。

少し冷たい風にのってきた潮の匂いを感じながら、海へ向かって砂浜を歩いた。

荒い砂が靴底でジャリジャリという。

 左を見やると小道があった。道の左右には背の低い草が生えている。

女はそちらの方へと歩を進めた。

進むにつれ、砂浜の砂粒が小さくなって、しっとりとしてきた。

ゆるやかな坂が続き、爽やかな風が吹いてきた。

登りきると、小高い丘の頂上のような場所に辿り着いた。

二つある切り株の右のほうに仙人のような老人が座っている。

長く、真っ白い髪は一つに束ねられている。

立てた杖の上には両手を重ね、遠くを見ながらゆったりと呼吸している。


おんなは近づいて仙人の横に座った。

丘から見える下の世界は一面薄い靄(もや)のようなものがかかり、丘の天辺だけがぽかりと浮かんでいるようだ。

地面から上は薄曇りだが明るく、淡い水色の空が広がる。

「人生で大切な事は三つだけだ。」

仙人がとてもゆったりと話し始めた。

「一つ目は愛、誰かが幸せだと感じるのを願う気持ち。二つ目はニーズ、幸せになるためには何が必要かを考える事。三つ目は知恵、幸せになるために必要なことをどうやったら満たせるか考える力だ。」

 そういうと仙人はまた黙った。少しの間、二人は同じ方向を向いて座った。何もない、白い靄(もや)と淡い空だけの目の前を何気なく見ていた。

「お前さんは幸せそうには見えない。」

仙人がそうぽつりと言うと、女は何か重たいものを感じた。風が冷たい。ほんのりと潮の匂いがした。

「これを持っていきなさい。そしてもう帰りなさい。そこを行けば穴がある。それに入って帰りなさい。」

そういって仙人は袖の袂からプラムを出して女に渡した。

仙人の見やった先にまた小道が続いていた。女は小さく頭を下げ、仙人を見た。

だが仙人はまた遠くを見ているだけだった。

女はその小道の方へと歩いて行った。

また爽やかな風が吹く。

地面の細かな砂はシャリシャリとして濡れているようだ。

歩いて行くと階段があった。

真正面からみると横にした太い木の枝をきれいに積んであるように見える。

段に足をかけると踵(かかと)が木の枝にのる。短い階段を上ると、レンガが積まれているのが見えた。近づいてみると丸い穴を囲むように積まれている。

井戸だった。

中をのぞいてみると水もあるように見える。仙人はこの中に入れと言っていた。

女は不安になった。

仙人を信じて大丈夫なんだろうか。

でも、なんにせよこれは夢だ。

女は平気だろうと少し気持ちが勢いづくのを感じた。

それでも入ろうとするのは勇気がいる。

レンガの縁に手を掛けて、もう一度、でもこれは夢なんだからと思い、両足から井戸の中へと入った。

冷たい水の中に頭の先までどぼんと沈むと底の方から吸われるように引っ張られた。

そのままぐるんと百八十度カーブして真っ逆さまになったまま上方へ吸い上げられ、気づくと自分のベッドの中で横になっていた。

女は起き上がると右掌にプラムがあった。

ベッドから出て、そばにあったクッションの上に座り、プラムをかじった。

実は甘く、噛むと口に広がる。

皮の酸っぱさが嫌で女はそれを指でつまんで出した。

 女は仙人が言っていた事を考えた。

私の幸せってなんだろう。

私が幸せになるために必要なことって何だろう。

 皮を剥きながらもう一口プラムをかじってその甘味を味わった。

 私の幸せ・・・・





落ち葉だ。


 女は落ち葉の上に寝転がった時の事を思い出した。

上から落ちてくる葉のひらひらと舞う景色、ふかふかの落ち葉の山。

 あの時の気持ちを感じて、女は鼻からたっぷりと息を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。

 そして、かじりかけのプラムを目の前のローテーブルに置くと、もう一度ベランダの穴へと入って行った。




―終―

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栗栖リリ @chris_lili

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