第91話 呼んだだけ
『○○ちゃん』
突如自分を呼ぶ声が聞こえ、背後を振り返る。そこには普段話すこともない同級生の姿があるのみ。
『呼んだだけ』
続けて声が聞こえる。自分の耳元で。
○○氏は悲鳴を上げて教室から出ていった。
中学生の頃、私が通っていた塾で時たま起こっていた怪奇現象だ。起こるのは決まって夏期講習か冬季講習の間で、昼の授業が終わった後に自習をしていると誰かが叫び出すのだ。その誰かは決まっていない。学校や性別、性格等の法則性も何も無く自習をしている誰かが突然自分を呼ぶ声を聞き、それから半狂乱になって教室を出ていく。
塾は4階建てで全ての階に教室があるが、怪奇現象はどの教室でも起こった。しかもこの塾は市内でも有名な学習塾ゆえに生徒が多く、一部の教室を使わない等の対応を取れなかった為被害を防げなかった。謎の声は学生にとって、また講師にとっても頭痛の種となった。
私が中学3年生になった頃、冬季講習で4階の教室をあてがわれた。冬季講習は元々の会員生だけでなく体験入会の学生達も複数参加する為、教室はいつもより賑やかだった。
1ヶ月後に私立高校の受験が迫る中、今回は無事に講習が終わってくれれば良いなぁと夢見ていると、教室に見覚えのある顔が現れた。黒く長い姫カットを1つにまとめ、カーキのブルゾンにグレーのセーター、厚手のジーパンというファッションよりも防寒に特化した出で立ちをした少女。同じ学校の同級生であるムラヤマさんだった。ムラヤマさんは私と同じ教室で講習を受けるらしく、私の姿を認めると「おう」と軽く手を振って隣の席に座った。
「え、隣に来んの」
「いいじゃん。知り合い君しかいないし」
「えー…」
私は眉根を寄せ、可能な限りムラヤマさんから距離を取った。顔見知り女の子と隣り合うのが気まずくて仕方がなかったからだ。女の子というと男兄弟の私には未知の生物に近かったし、何より人間という奴は男と女の関わりをすぐに恋愛と結びつけたがるのでそれを避けたかった。現に耳を澄ませればもう、辺りで色めき立つ声が。
ムラヤマさんぐらい図太い神経が欲しいなぁ。思いつつ私はムラヤマさんと話し続けた。
それから数学、英語、国語、理科、社会と目蓋の重くなるような授業を(先生に欠伸を注意されつつ)受け、時計が17時を回ったところで問題の自習時間が始まった。1ヶ月後に私立高校の受験が控えているとあってか、いつもより多くの学生が塾に残り少し早めの夕飯を摂り始めた。ムラヤマさんも残るとのことで鞄から大きなメンチカツの入ったパンを取り出しかぶりつく。
私は皆と同じく持ち込んできた夕飯─チョココロネを食べながら、ムラヤマさんに謎の声について話してみた。実はこのムラヤマさんという人、小さな頃から幽霊の類が見えるそうで、思春期を迎えた辺りからは除霊に近い行為もできるようになったらしい。
ムラヤマさんなら謎の声の原因や対処法を見いだせるかもしれない─そう考えてのことだったが、彼女は「ふうん」と素っ気無い返事をするのみだった。
「アンタ『ふうん』って」
「興味無いもんで…呼ばれるだけなんやろ?面白くない」
面白いかどうかって話ではないんだけど。普段から色々見ている人にとっては声が聞こえるとかその程度のことなど怪奇現象のうちに入らないのか。
呆れ半分、感心半分な気持ちでチョココロネを齧っていると、隣の教室から突如悲鳴が聞こえてきた。学生達の話し声が飛び交っていた教室が一気に静まり返り、それから「何?」と口々に言う声が聞こえ出す。すると今度は悲鳴と共に隣の教室の戸が開く音、廊下をバタバタと走る音が聞こえ、続いて音の主を引き止めるような複数の声が響いた。からの、ドンという鈍い音と複数人の悲鳴。
明らかな異常事態にこちらの教室にいた学生達が慌てて外へ様子を見に行き出した。私とムラヤマさんは席に座ったまま教室を出ていく皆を眺めていたが、何だかんだ気になって見に行くことにした。
教室を出ると短い廊下があり、右手に別の教室、左手にトイレ、手前に小さなエレベーターホールがある。エレベーターホールの先には外階段がついており、そこに人が集まっていた。
「女の子が階段から落ちたって」
私達の到着と同時に、群衆の最後尾に立っていた女子が教えてくれた。名前は知らないが顔に見覚えがあるので、私と同じ会員生だろう。冬季講習では全然見かけなかったので隣の教室にいたのかもしれない。
「やっぱりあの…アレ?」
パニックを避ける為、何かとは明言せずに訊いてみる。女子も群衆に聞こえないよう声をひそめ「多分」と返す。
「階段から落ちた人って初めてじゃない?」
「うん。もう怖いわ…講習辞めたいくらい」
でもまあもうすぐ私立の入試だしね…と2人で肩を落とす一方で、ムラヤマさんは明後日の方向を見つめ「そばに川が流れとる」と呟いていた。
その後、階段から落ちた女子は親に迎えに来てもらい病院へ行ったらしい。講師達から教室へ戻るよう促された学生達は大人しくそれぞれの教室に戻ったが、もう自習どころでは無くなり例の女子について「声に呼ばれた」だの「自演からの自爆」だの好き勝手に噂を立て始めた。
そんな中、私は食事を再開したムラヤマさんに何故川を見ていたのかと尋ねた。ムラヤマさんは川のある方向に一瞬だけ視線を移し、それから声をひそめてこう答えた。
「水辺は色んなものが集まるのよ」
どういうことか。言葉の意味がいまいちピンと来ず首を傾げる私に、ムラヤマさんが「だから」と捕捉をしてくれた。
元々川や海などの水辺には霊の類が集まりやすいらしい。それが何故なのかは「幽霊じゃないしわからん」だそうだが、塾のそばを流れる川にも例によって沢山の霊が集まり、救いを求めて学生達に呼びかけているとか。
ちなみに夏期講習と冬季講習の間だけ起きるのは「会員生が鈍い子ばかりやからよ。こんな塾、敏感な子やったら会員生なんかならんで。短期講習は友達から誘われて断れなかったんやろ」とのことだ。
「正体さえわかれば後はムラヤマさんの出番だね。対価としてマック奢るから」
除霊にあたっては必ず対価を求めてくるムラヤマさんの性格を鑑みて先に対価を提示してみたが、まさかの「やだ」と首を横に振られてしまった。
「あれドブ川やろ?臭いし近づきたくないわ。かといってここからは遠すぎて何もできんし。どうせ声だけやし良いやん」
結局、川の霊が祓われることの無いまま冬季講習は終わってしまった。
あの塾では今でも短期講習中に謎の声が聞かれていることだろう。
…という思い出を振り返りながら夕飯の『トマトと卵の中華炒め』を作っていると、どこからともなく私を呼ぶ声が聞こえた。
「はぁい?」
「呼んだだけ」
振り返るとすぐ背後で同居人の秋沢氏が悪戯っぽく笑っていた。秋沢氏はフライパンの中身を見ると「お肉も欲しい」と言い出したので『トマトと卵の中華炒め』に豚コマを混ぜてやることにした。
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