第89話 蝶の骸

出会いがあれば別れもある。どんなに親しい人とも、どんなに愛しい人とも別れは避けられない。いずれは別れるのだ。どんな形であろうと。

例えば我が親愛なる同居人の秋沢圭佑。彼とはもう3年も一緒に暮らしているが、彼に恋人ができれば我が家を去っていくことだろう。勿論それは良いことだ。友人の幸福は私の幸福でもあるし、あと部屋が広くなる。ただ少しどころでなく寂しい。もともと1人でいるのがあまり好きでないタチだし、1人きりで余暇を迎えると何をしたらいいかわからなくなる。

そんなわけで私は秋沢氏との別れを恐れに恐れているのだが、先日ついに別れの予感を感じることが起きてしまった。秋沢氏と友人の細木氏、純也君とスーパーを物色している最中に、秋沢氏の元カノを名乗る女性が現れたのだ。秋沢氏が"チャコちゃん"と呼んでいたその女性は愛しげに秋沢氏の名前を呼び、秋沢氏も懐かしそうに彼女と話をしていた。

興味深そうにしている友人達に混じって(不安を抱えながら)2人の様子を見ていると、突然頭上でバタバタと大きな羽音が聞こえた。どうやら雀蛾が店内に入り込んでいたようで、奴は蛍光灯に2〜3回ぶつかると硝子窓の方へと飛んでいった。でけえなーと驚きつつ雀蛾を見ていると、突如チャコちゃんが「そういえば蛾じゃなくて蝶なんだけど」と先日彼女に起きたという不可解な現象について話し始めた。

以下、チャコちゃんの話。




半月程前の朝、チャコちゃんが眠りから目覚めると枕元に黒い蝶が落ちていた。蝶は既に事切れており、細い足を折り畳んでぐったりと横たわっていた。

窓も無いのにどうやって入ったんだろう。チャコちゃんは怪訝に感じたが、昨日仕事から帰宅した時一緒に入ってきたんだろうと思い死骸を窓の外に放り出した。

その日の夕方、仕事から帰ったチャコちゃんは虫が入ってこないよう気を配りながら家に入った。それから鞄を置いて中のスマホを取り出そうとしたところで目を剥いた。黒い蝶の死骸が入っていたのだ。

通勤中は肌身離さず持っていて、仕事中でも鍵付きのロッカーに仕舞い込んでいるような鞄にどうやって蝶の死骸が入るのか。通勤中に誰かが悪戯で入れたとしか考えられない。朝の死骸のこともあるし気味が悪い。チャコちゃんは警察に届けることを視野に入れつつ、また蝶を窓の外に放り出した。


翌日からチャコちゃんは周囲を警戒しながら外に出るようになった。通勤中、買い物中、チャコちゃんの鞄に蝶の死骸を入れるような人間は現れなかったが、それにも関わらずチャコちゃんの鞄には毎日蝶の死骸が入っていたし時には枕元にも落ちていた。勿論真っ黒なものが。

気味が悪いもののあまりに非現実的すぎる為に誰にも相談できず1人で抱え込んでいたチャコちゃんはある日、蝶の死骸が落ちているかもしれない我が家に帰るのが億劫なので勤務先近くのカフェで時間を潰した。窓際のカウンターでクリームのたっぷり乗った珈琲を飲みながら外を眺める。

そこへ隣に男性が座ってきた。男性はテーブルに珈琲とPCを置くと「アレッ」と言ってその場にしゃがみ何かを拾い上げた。黒い蝶の死骸だった。


「やだ!」


悲鳴を上げるチャコちゃん。周囲の視線がチャコちゃんと男性に向く中、男性は穏やかな声で「怖がらないで、蝶ですよ」と言った。

怖がらないでと言ったって、ずっと蝶の死骸を見てきたチャコちゃんにはもう恐怖の対象としかとれない。ジリジリと後退るチャコちゃんに男性は戸惑いつつ「外に放して来ます」と言って店から出ていった。それから間もなく戻ってきて、チャコちゃんに「大丈夫ですよ」と声をかけた。


「すみません、ありがとうございます…」


「虫苦手な感じですか?」


「いや、そうじゃないんですけど…」


チャコちゃんは男性に対しここ数日の奇妙な出来事について、知らない人だしいいかと思い話した。もう会うことは無いだろうし、引かれても問題無い。そう思ったが、チャコちゃんの考えと裏腹に男性は話を真剣に聞いてくれて、彼なりの意見をくれた。男性いわく黒い蝶は「死者の化身だと言われることがある」らしい。


「大抵は身近な人が蝶になって現れるらしいんですけど、身近に心当たりはありませんか?」


チャコちゃんは少し考えてから、大学時代に別れた恋人─秋沢氏のことを思い出したが、いやいや訃報があったらさすがにわかるだろと思い直した。それに何故死骸の状態で見つかるのかがわからない。


「なんで死骸で見つかるんだろ…」


チャコちゃんが疑問を口にすると男性が「うーん」と首を捻り、それからこう言った。


「自分が必要でないと思ったから…?」


いやわかりませんよ、絶対じゃないですよ。慌てて付け足す男性に大丈夫ですわかってますと頷きつつも、チャコちゃんはやはり秋沢氏ではなかろうかと思った。チャコちゃんには今、結婚を考えている恋人がいるからだ。

チャコちゃんは男性に礼を言うと、足早に店を出て家へと向かった。ちなみに別れ際、男性から自分はライターであると聞かされ「色んな人に恐怖体験や不思議体験を募っている。何か出版することがあったら掲載しても良いか」と訊かれたので快諾した。

しかしその後、友人伝いに秋沢氏の存命が発覚したので黒い蝶の正体が何なのかわからなくなり、結局お祓いに行って解決したそうな。




「あ〜…その辺の魂がついてきたとかなんですかね」


チャコちゃんが話し終えた後に私がそうコメントすると、チャコちゃんは「そうかもです」と笑ってから秋沢氏に「ね、ちょっと」と声をかけて彼をどこかへ連れて行った。何だどうしたと細木氏と純也君が顔を見合わせる中、私は不安を感じつつも「後でわかるやろ」と言って2人をお菓子コーナーへと誘導した。

10分程経って、秋沢氏が何事も無かったかのような様子で戻ってきた。何の話をしてたのかと尋ねると「振ってきた」とのこと。


「チャコちゃんから『今でも君が好き』って言われたから振ってきた」


秋沢氏いわく、チャコちゃんとは大学時代に付き合っていたが、就職活動に奔走しているうちに自然消滅的に別れたらしい。それからチャコちゃんは就職先で別の男性と付き合い結婚の話まで持ち上がりかけているが秋沢氏のことが忘れられず、今日秋沢氏と再会したのを何かの縁だと思い告白したそうな。


「相手の人も話聞く限り真面目で良い人みたいだし、その人と結婚した方がチャコちゃん幸せになれると思うんだよね」


晴れやかな顔でそう言う秋沢氏に私は恐る恐る「それで良かったん?」と訊いた。私にとっては秋沢氏を我が家に繋ぎ止める結果となったので良いことであるが、秋沢氏の方は半居候のような状態から脱却する機会も恋人を取り戻す機会も失ったわけだ。本当に良いのか。

心配する私をよそに秋沢氏は明るい声で「いーのいーの」と答えた。


「今の暮らしが1番好きだもん。まだ暫くお世話になるからねー」


秋沢氏が言い終わるより先に私の涙腺が崩壊してしまった。どこに泣くとこがあったんだよと戸惑いつつ袖で涙を拭いてくれる秋沢氏に頭を預け、私は「ありがとう」とうわ言のように言い続けた。

私達の背後では細木氏と純也君が「お邪魔にならないよう帰るか」と話し合っていた。




翌日、私はチャコちゃんの言っていたライターを名乗る男が何となく引っかかったので、ライター仲間の木村という男に連絡を取り蝶の件について話してみた。


「なんでその話を知ってるんだ!さすがライバル…!」


やっぱりコイツか。予想が的中したところで私は電話を切った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る