第57話 ASMR

昨今、巷では"ASMR動画"というものが流行っている。

ASMR動画とは聴覚と視覚を介して脳を刺激することで心地好さを感じる効果を利用して作られた動画で、有名なものだと食感の良い食べ物の咀嚼音や耳かきの音等を録ったものが出回っている。

私もASMR動画、特に咀嚼音に魅せられた者の1人であり、鼻から下だけを映した女性が海ブドウをプチプチと言わせてみたりフライドチキンをザクザクと言わせてみたりする動画を毎日イヤホンで聴いている。


実はこのASMR動画、我が家に起きた奇妙な出来事を解決するのに役立ったこともある。

それはつい2ヶ月程前、私が深夜に布団の中でイヤホンを着けてASMR動画を見ていた時。女性が飴でコーティングされた蜜柑を噛み砕く様に腹を空かせていると、隣で何かがのっそりと動く気配がした。どうやら隣で寝ていた同居人の秋沢氏が起き出したようで、彼は背をやや屈めながらフラフラとトイレへ向かっていった。その姿勢がまるで腹を下しているように見えたので、私は救急箱から整腸薬を取り出し台所で白湯を作ろうとしたが、そこへトイレから響いてきた声に思わず手を止めた。

ハァハァという激しい息遣いの中に混じる断続的な喘ぎ声。多分彼はトイレの中で…。いかがわしいものを想像した私は白湯を作るために取り出した鍋をさっさとしまい、秋沢氏が戻ってくる前に布団に潜り込んだ。そうして再びイヤホンを着けて動画に戻ろうとしたが、何故だかドキドキして集中できない。

それでも十数分に渡る動画をなんとか見終えたところで、秋沢氏が一向に戻ってこないことに気づいた。どうしたのかと恐る恐るトイレへ近づく。しかし既にトイレは無人になっており、代わりに風呂場からジャブジャブと水の音が聞こえてきた。

こんな時間に風呂?尋常じゃない事態だと思った私は風呂の戸を勢いよく開けた。風呂場では秋沢氏が浴槽の蓋の上に水の張った洗面器を置き、その上で何かを洗っていた。


「あ、起きたの…」


何かまずいことが見つかったかのように顔を強張らせる秋沢氏。その手には秋沢氏が普段履いているボクサーパンツが握られている。


「パンツ洗ってんの?明日僕が洗うのに?」


「あ、まあちょっと自分でやりたくて…」


気にしないでと秋沢氏が私を締め出そうとする。私は逆に秋沢氏を風呂場の奥に追い詰めた。


「あの、ちょっと気にしないでっつってんじゃん」


壁際に追い詰められた秋沢氏が目を逸らしつつ私を押し退けようとするので、こちらも押し退けられまいと踏ん張る。


「ちょっとマジで気にしないでよ…こっちだって言いたくないこと色々あるんだから」


「そっちこそそのパンツそこに置いてさっさと寝ろよォ。こちとらおんなじ男やぞォ。わかってんねんキサンが何洗うとるか」


「何弁なんだよ。とにかく出てけよ」


「出ていきませーん」


ここからしばらく問答を繰り広げた後、このままでは日が昇ってしまうとようやく秋沢氏が折れた。パンツを洗面器に浸けたまま風呂に置いておき、さあもう寝ようと秋沢氏と共に風呂場を出たところで、秋沢氏が恥ずかしそうに顔を赤らめながら「ちょっと話聞いてもらって良い?」と言った。


「何?」


「ここ最近さ、よく耳許でエロい音が聞こえるの」


「んふっ」


秋沢氏の口から出た言葉に思わず吹き出す。秋沢氏は「笑い事じゃない」と怒るが"エロい音が聞こえる"なんて悩みを聞かされて笑わずにいられない人はそうそういないと思う。


「ちなみにどんな音?聞かせて聞かせて」


「実演させるな」


突っ込みつつも秋沢氏が説明してくれた音というのは肉か何かを捏ねているような湿り気のある音や柔らかい物がパンッパンッと連続してぶつかり合う音、誰かの激しい息遣いなどエロいと言われればエロいものばかりだった。


「それをエロいと思ったのか…」


「悪かったな欲求不満で!でもここ毎日ずっと悩まされてるからすごい寝不足でヤバイの。どうにかなんないかな」


確かにここ数日、秋沢氏の目には寝不足によるものと思われる隈ができている。お互い同じ時間に寝ているのにどうして彼にだけ隈ができるのか疑問だったが、毎晩そのエロい(?)音に悩まされているのが原因だったとは。対策は私が日中に練っておくとして、この日は一旦寝ることにした。


翌朝、秋沢氏が出勤するのを見送った後、私は自分の仕事をしつつ秋沢氏に起きた怪異への対策になりそうな情報を調べた。初めは"色情霊"というものへの対処法を漁り、お祓いだとかお清めだとかいう本格的な方法をピックアップしてみた。しかし寺社の方に「色情霊に悩まされてます」なんて訴えるのは秋沢氏が嫌がりそうだし私が当事者でもやりたくない。というわけで本格的な対策はボツとして、次にネット掲示板で出回っている方法を探ったが、以前TVで霊媒師の女性が「ネットを当てにすんな」と言っていたのでこれもボツ。

仕方ないから秋沢氏にはしばらく寝不足とムラムラで苦しんでもらおう。私は諦めてSNSアプリを開き、するとそこで1つの記事が目に入った。これいいな、試してみよう。私は記事に"いいね"をつけて、それから自分の仕事に集中した。


その夜、私は寝ようとする秋沢氏に「これ見て」と言ってスマホとイヤホンを突きつけた。スマホで起動しているのは私が普段よく見るASMR動画。鼻から下だけが映された女性がラーメンとフライドチキンを食べる回だ。


「なんで夜にこれ?いじめ?」


「いやSNSに『食欲と性欲は両立できない』ってあったから。これでエロい音を打ち消せるんじゃないかと」


私の説明に秋沢氏は「少し違うと思うけど」と呟きつつ布団に潜り込み、イヤホンを装着してASMR動画を再生した。秋沢氏はしばらくぼんやりと画面を見つめていたが、やがて目を閉じ寝息を立て、手からスマホを離してしまった。私はスマホの動画を再生したままにして秋沢氏が起きないか見守っていたが、この日彼が途中で起きてトイレに駆け込むことは無かった。


翌朝、秋沢氏は随分とスッキリした様子で会社へ出ていった。ASMR動画の主が奏でる美味しそうな咀嚼音のおかげでエロい音が聞こえなかったらしい。

私は思ったのと違うけど良かったと安堵して秋沢氏を見送った。

今度は私がエロい音に悩まされるようになったことは言わないでおいた。

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