第56話 風船

私が普段ライターとして記事執筆の依頼を頂いている出版社には"ゆうきさん"という事務員の女性がいる。ゆうきさんはフワフワとしたお嬢様のような印象を与える美女だが、趣味がボクシングだったり休日はいつもどこかへ出掛けていたりとエネルギッシュな暮らしをしている。


先日、そんなゆうきさんについて出版社の編集長但馬氏から興味深い話を聞いた。出版社の職員揃っての大規模な飲み会で本人から聞かされたというそれはゆうきさんが出版社に入社する以前の話で、現在のゆうきさんからは想像もつかないような内容だった。

以下、その話。




今から5年程前、県内の4年制大学を卒業したゆうきさんは地元の小さな商社に就職した。男性は社長を含め24人、女性は事務員が4人。女性は皆勤続10~20年のベテランで、一番若いゆうきさんは男性陣からも女性陣からも可愛がられた。


働き出して3ヶ月程が経った頃、仕事に慣れて余裕が出てきたゆうきさんはそれまで遠慮していたネイルアートを軽く施して出勤した。事務の先輩方が「あら可愛い」と誉める中、1人の先輩がこう漏らした。


「私達もゆうきちゃんぐらい若けりゃやるのにね」


その先輩は30半ばで、会社の中ではまだまだ若い方だった。ゆうきさんは「やりましょうよ」と返したが、先輩は「もうババアだから」と首を振った。

そこへ1人の男性社員が会話の中に入ってきた。彼はゆうきさんの爪を見るなりこう言い放った。


「何!?今日デート!?」


ゆうきさんはぎょっと目を見開いたが、すぐに「違いますよぉ」と返した。何故彼が爪1つでデートという発想に至ったのかわからなかった。

何となくモヤモヤしたものを感じながら仕事を終え帰宅したゆうきさんは、部屋に見慣れぬ玉が転がっているのに気づいた。サッカーボール程の大きさをしたそれはパッと見ピンクのゴムボールのようだが、ゴムボールに見られる光沢は無くどちらかと言うと膨らみかけのゴム風船に近いように思える。

いつからこんなものが。ゆうきさんが触れようとすると、玉は彼女の手を拒むように天井へと上がっていった。まるで生きているような風船をゆうきさんは怪訝に思ったが、何をしてくるわけでも無いし可愛いからいいやと放っておくことにした。

それから何週間か経ったある日の昼休み、ゆうきさんが昼食として持参したカップ麺を啜っていると初老の男性社員が「えっ」と驚いたような声を上げた。


「ゆうきちゃんお昼それ?意外~」


「そうですかぁ?」


「やっぱ女の子ってサンドイッチとかスムージーやん?」


ゆうきさんは一瞬だけ眉をしかめた。相手は何の気なしに言ったのだろうが、腹に溜まらない食べ物のチョイスになんだか「霞を食べて生きている」という言葉に似たものを感じる。ゆうきさんは笑顔で「それじゃお腹すきますよぉ」と返したが、ちゃんと笑えているかどうかわからなかった。

その夜、ゆうきさんが帰宅するとサッカーボール程だった風船が少し大きくなっていた。強いていえばバスケットボールぐらいか。

これ大きくなるのねぇ。ゆうきさんは驚きつつも可愛いのでそのままにしておいた。


それから数日後、仕事から帰ったゆうきさんのスマホに実家の母親から電話が入った。主な内容はただの生存確認だったが、母親はそこへこう付け加えた。


『会社にいい人はおらんの?』


ゆうきさんは母親の言葉の意味がわからず「へ?」と返した。


『おるやろ~いい人。お父さんみたいな』


そこで初めてゆうきさんは母の言う"いい人"というのが"好きな人"もしくは"恋人"であることを理解した。当時(今でも)ゆうきさんに恋人や想い人の類いはおらず、なんなら勤め先でそんな相手を見つける気はさらさら無かった。父親だって偏屈で文句ばかり言う割には何もしないで、母親が例えに出した意味がわからない。


「いないよ」


『そうなん?女の子やし頑張らんと』


何を頑張れというのだろう。モヤモヤしながら電話を切った後、ゆうきさんはワッと声を上げた。風船がまた少し膨らんでいた。もうボールに例えられるサイズではない。

もしかして、私がモヤッとする毎にアレは大きくなるのかしら。部屋が埋め尽くされたら困るな。ゆうきさんはなるべく人の一言一句を気にしないようにしようと決めた。

しかしゆうきさんの決意に反するように、勤め先の人達の言動は若いゆうきさんをモヤモヤさせた。

ある時はゆうきさんが髪を切ると男性社員達がこぞって「失恋した?」と訊いてきた。またある時は事務員の直属の上司にあたる課長に社長が「花畑やね」と声をかけ、課長が「ほぼ枯れかけですけど」と返し女性陣が引きつった笑みを見せた。さらにある時は服の系統を変えた矢先に「彼氏できたの?」と言われたし「俺の好みではない」と勝手に品定めされたりもした。同時に風船もどんどん膨らんでいき、とうとうアーティストのコンサート等で観客席を跳び回る大きな風船と見間違える程の大きさになった。その時初めてゆうきさんは風船に触れることができたが、感触は風船のそれではなくもっとジットリかつプニプニとしていた。


そして入社から2年が経とうとしていた頃、とうとう風船が割れてしまった。その日、ゆうきさんは会社の忘年会で「年女だから結婚しなきゃ」だの「俺の息子紹介しようか」だの「俺ならどう」だの面倒臭いことを散々言われモヤモヤしながら帰宅した。鞄を置いてよそ行きの服をTシャツとジャージに着替え、買ってきたチューハイの缶を開けたところで母親から連絡が入った。


『今度お祖母ちゃんがウチに泊まるから電動ベッド買わんといけんのよ。少しお金出してくれん?』


この時、ゆうきさんは飲み会の他に化粧品や洗面用品への出費も重なっていたので所持金が殆ど無かった。なんならゆうきさんには県外で大企業に勤めている高給取りの兄がいたので、私みたいなカツカツのイチ事務員じゃなくて兄貴に頼んでと母親に伝えた。直後、母親から返ってきた言葉にゆうきさんは絶句した。


『お兄ちゃんは忙しいからいいの』


私は忙しくないとでもいうの?私だって兄貴と同じように会社に勤めて、毎日クタクタになってるのに?だいたいいつもそう、小さい頃からお年玉やお祖母ちゃんがくれたお小遣いを没収されたのは私だけだし、私の"花嫁衣装代"とかいって貯めてたお金も兄貴の学費に消えたし、いつも私ばっかり損してるじゃないの。ワナワナと震える手から缶チューハイが落ちて、液体が床にぶちまけられる。目許から雫が伝う。と、同時にゆうきさんのそばで膨らみ続けていた風船がパンッと音を立てて割れ、気づいたらゆうきさんはいつもと間取りの違う、しかし見慣れた家具だらけの部屋のベッドで朝を迎えていた。

何これ。パラレルワールドって奴?突然の出来事に困惑したゆうきさんはまずスマホを立ち上げた。画面に表示されている日時は、母親からの電話に憤ったあの日よりも半年以上後の日付だった。

さらに困惑したゆうきさんは自分の物を手当たり次第に調べてみた。それでわかったことだが、ゆうきさんはあの風船が割れた後数日も経たないうちに仕事を辞め、失業保険を貰いながら新居を探し引っ越してしまったらしい。ゆうきさんのスマホには母親からの不在着信履歴がびっしりと並び、テーブルには求人誌が置かれている。

これだけ色んなことが変わってしまったのに1つも覚えていないの?ゆうきさんは背筋が凍るような感覚を覚えたが、しかしすぐに「逆に良い機会かもしれない」と思い直した。

まずは失業保険が切れているようなので新しい仕事を探さないと。ゆうきさんは求人誌から気になる会社を3つピックアップし応募した。そうして面接を受けた結果、1社のみから不採用の連絡が来て残りの2社からは「来週からでも来て下さい」という連絡を受けた。その2社からゆうきさんは、廊下ですれ違った社員の感じが良いと思った方を選んだ。それが現在の出版社である。





「あの風船が私を変えてくれたってずっと言ってたんですよ」


微笑ましい様子で語る但馬氏に「そのすれ違った社員って誰なんでしょうね」と返すと、但馬氏から驚くような納得のいくような答えが返ってきた。


「金本です。金本がヘラヘラしながら『こんちぁー!』って頭の悪そうな挨拶したんですけど、逆に嫌味が無くて良いって」


「あらまぁー!」


金本氏といえば出版社の中において雑誌編集を務めている男性だが、好奇心が旺盛故に小さな事件を度々起こす問題児である。ゆうきさんが意外にも金本氏に好感を持っていたとあって、私は誰かの恋愛話でも聞いたような反応をしてしまった。


「しかし但馬さんにそんなこと打ち明けてくるなんて、ゆうきさんって但馬さんのこと信頼してるんですね」


私は但馬氏の人望に感嘆しながら言った。実際但馬氏のことは金本氏がよく「あの人は男の中の男ですよ!」と称賛しているし、他の職員のあいだでも理想の上司として尊敬されている。だからゆうきさんも信頼するのだと思った。しかし但馬氏は半ば呆けたような顔で「え?いや?」と返した。


「この間皆の前でハイボール煽りながら話してたんですよ。だから周りにいた人皆知ってますよ」


「えっそうなの」


ゆうきさんが皆を信頼しているということにしておいた。

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