第49話 家出

私は中学生の頃、一度だけ大規模な家出を敢行したことがある。

それは中学2年生の冬、塾の冬期講習で毎日夜まで自習室に閉じ込もり勉強していた頃。自習室の閉鎖時間になり家に帰らざるを得なくなった私は、何を思ったか家とは逆の方向に足を向け、気の向くままに歩き出した。行き先は全く考えておらず、ただ気まぐれに道を折れたり橋を渡ったりして、30分程歩いていたら駅に着いた。そこで私は財布に二千円入っているのを確認すると、1890円の切符を買って下りの電車に乗り込んだ。

電車は県南にある漁村へ向け走り出す。明かりの灯る住宅街から鬱蒼とした山へと景色が変わっていくのを眺めながら、私は数日前に母親から「金貸して」と2万円をかっさらわれたことを思い出した。

あの2万円さえあればもっと遠くに行けて、買い物もできたかも。ぼんやりと考えつつ、景色が山から海に変わるのを眺める。

そこへ、前の車両から人が入ってきた。黒いコートに黒いハットという全身黒ずくめの、初老の男。男は私の隣に座ると「坊っちゃん、何しとんね」と尋ねてきた。

そういえば何をしているんだろう。この時になって私は自分の行動に疑問を持ったが、とりあえず男には「学校帰り」と答えた。すると男はウンウンと頷いてこのように言った。


「偉いなぁ。家出やったらおっちゃんと一緒に来たらいいわと思ったんやけどなぁ」


何言ってんだこのジジイ。あまり関わりたくないなと思ったので、車両を移ることにした。なんなら真っ直ぐ家に帰れば良かったと後悔した。

そうして車両を移って間もなく、電車は1890円分の切符で行けるギリギリの駅に辿り着いた。私は急いで電車を出て改札を通り、後ろを振り向いた。あの男も同じ駅で降りていた。その手には小さな男の子を1人引き連れている。

どこから連れてきたんだよ。いよいよ怖くなったので、近くのコンビニに駆け込み電話を貸してもらった。そうして親に電話をかけていると、男が子供を引き連れたまま店の中に入ってきた。

逃げられない。手足が震える。電話口から聞こえる母親の声が頭まで入ってこない。

男は私の耳元まで顔を寄せ、こう囁いた。


「坊っちゃん、Y浦の大蛇と同じ臭いがするな」


おっちゃんが食われてしまうわぁ。そう言って笑いながら、男は子供の手を引いたまま店を出ていった。

私は愕然として男の背中を見守った。幼い頃に蛇を踏み潰し氏神を怒らせてしまった(※)あの地の名前が"Y浦"であったからだ。


この後、コンビニの店長だという女性が電話を代わってくれて、母親に店の位置を説明し迎えを要請してくれた。そして母親が迎えに来た時には「受験生らしいしストレスが溜まってたんですよ。怒らないであげて下さい」と言ってくれた。

それから母がお礼を兼ねてしこたま買い物した後、帰り際に店長が声をかけてくれた。


「接客業するとわかるけど、ああいう変な人って絶対何人かいるの。大変だったね。お疲れ様」


私はその場でワッと泣き出し、母親に引きずられながら車に乗り込み、家へと帰った。




…というのを最近になって思い出したので、同居人である秋沢氏に話してみた。秋沢氏は目を見開いて「それ知ってる」と言うと、自身のスマホに1つのニュース記事を表示した。それは6歳の男の子が母親に連れられて祖母宅に向かう最中、電車の中で突然行方不明になってしまったという事件の記事だが、事件が発生したのはちょうど私があの男に遭遇したのと同じ時期だった。

行方不明になった男の子は今現在も見つかっていないということで、この後風呂でシャワーを浴びる予定だった私は1人で風呂場に入ることをしばらく躊躇ったのだった。


※《蛇 前後編》参照

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