第35話 LSD
昨年の末頃、私が右側頭部にある刈り上げのケアに通っている美容院の店長である細木氏から「クラブへ行かないか」誘われた。人生で初めてクラブへのお誘いを頂いた私は驚きのあまり思わず「手芸クラブ?」とボケてしまい刈り上げの範囲を広げられてしまった。
「むかし通ってたクラブがさ~、幽霊が出るって噂になってて~、初郎君ゼッタイ好きじゃんって思ったのよね~。ギャハハ」
いや好きじゃないし。そんな言葉が口をついて出そうになったが、クラブとやらに一回は足を運んでみたいなぁと思っていたので「まあね」と返した。
「オッケーじゃあ明日の夜ね~、クラブっぽい格好してきてよ~ギャハハ」
「クラブっぽい格好とは」
"クラブっぽい格好"という課題に戸惑いつつH木の店を出た私は、友人知人のSNSにメッセージを送り意見を募った。
その結果、私はかなり前に知人の但馬氏から頂いたしまうま柄のモコモコしたファーコートを羽織ってクラブに行くことになった。また、全員から「色の薄いグラサンかけろ」「あるやつでいいからアクセ着けろ」という指示を頂いたのでその通りにした。
そして完成した"クラブっぽい格好"の自分を鏡で確かめながら「なんか遊ばれている気がする」と思いつつ、その身なりのまま仕事から帰ったばかりの同居人の秋沢氏にクラブに行くことを持ちかけた。顔を合わせるなり秋沢氏が吹き出したので「遊ばれてたのか」と思った。
当日、秋沢氏は仕事ゆえに遅れて参加するとのことだったので、いったん私一人で細木氏の言うクラブを訪れた。店の前では既にライダース姿の細木氏が待っており、私の姿を見るなり「めっちゃクラブじゃん」と言いながら腹を抱えて笑い出した。やはり遊ばれていたらしい。
細木氏に笑われながらもクラブへ入る。中では舞台の上でラップを披露する演者、腕を振り上げて合いの手を入れる観客、カウンターで酒を煽る客と多くの人でごった返しており、人混みに流されないように気をつけつつ「前に見た映画でこんな場面あったな」と呟いた。
細木氏の先導の下カウンターに辿り着くと、両腕に刺青の入ったタンクトップ姿のマスターらしき男が「ヤスじゃねえか!」と近寄ってきた。"ヤス"と呼ばれた細木氏(下の名前が保則なのだ)が「おやっさん久しぶり~ギャハハ」と席につく。
「変わんねえなぁその癪に障る笑い方。横のは…誰?」
私をまじまじと見つめながら尋ねるマスターに細木氏が「T高校で頭張ってた奴だよ」と嘘をついた。そんな奴いたかな、とマスターがいよいよ首を傾げ出したので訂正しておいた。ちなみにT高校は私の母校でありごく普通の進学校である。
私は突っ込みついでに、クラブで目撃される幽霊について尋ねてみた。気を悪くするかな、と少し不安になったがマスターは「ああ、あれね」と何食わぬ顔で言った。
「最近多いんだよなぁ、その話してくる奴。お陰で逆に商売繁盛してんだけど」
商売上がったりではないようだ。良かった。
「でもおやっさん、俺が高校の時そんな噂無かったよな」
「無かった無かった。ほんと最近だよ。1年も経ってねえぐらいだよ」
細木氏とマスターの会話を聞いていた私は思わず「えーっ」と舞台上の演者にも負けないくらいの声を上げた。周囲の客が振り向いたので「すいません」と謝った。
「高校生がクラブ入ってたの?」
私が小声で尋ねると、今度は細木氏が「えーっ」と声を上げた。再び周囲の客が振り向き、細木氏が「どもども~」と愛想笑いを浮かべる。
「ここいらの高校で通ってない奴なんかいないよ~」
「いるわここに!ウチの高校もここいらなんだよ!」
いや~ん真面目く~んと細木氏に笑われ多少苛立ちを感じつつ、お互いの母校における文化の違いを話し合っていると、唐突に尿意に襲われ出した。
「ちょっとトイレお借りします」
「ホール出て左な」
マスターに示されてカウンターや舞台のあるホールを抜け、やや幅の狭い廊下に出る。10m程の廊下の先、突き当たりに灰色の扉、右手にピンク色の扉、左手に紫色の扉と3つ並んでいる。恐らく真ん中は関係者の通用口だろう。そして男子トイレは恐らく、マスターが言っていた左側の扉。
私は紫色の扉を引き開け、その先の光景に首を傾げた。扉の先は確かに男子トイレであったが、便器は全てピンク色で、壁や床は赤、青、緑といった原色と呼ばれる鮮やかな色が散りばめられ蠢いていた。LSDと呼ばれる麻薬を服用すると世界が色彩に溢れて見えるというが、多分こんな感じに見えるのだろうか。LSD、というか薬物らしきものを今までのやり取りで摂取させられるような場面は無かったのに。どうしてこんな。仕様だろうか。
訝りつつトイレに足を踏み入れようとして、私の足下に突如大きな目玉が現れた。思わず後退ると、トイレの中の壁という壁から目玉が現れ出した。
これはもうトイレどころではない。私は急いで細木氏とマスターの下に戻り「出た出た出た!」と叫んだ。また周囲の客が振り向いたがもうお構い無しだ。
「なにここ!LSDでも散布してんですか!」
「するかそんなもん!何見たんだよ!」
マスターに問われ見たものを正直に話すと、マスターは目をカッと見開き「それそれ」と言った。
「見た客みんなそう言うんだよ!ヤス、いい機会だからテメーも見てこい!」
マスターに促された細木氏はあいあい~と明るく答えトイレへ向かった。しかしすぐにしょんぼりとした顔で戻ってきた。トイレが元に戻っていたらしい。
元に戻ったと聞くなり私は再び席を立ち、無事に排尿を済ませた。
それからマスターオススメのコカボムをあおりながら、細木氏と「秋沢遅くね」と話し合った。
店に入ってから既に1時間半は経過しており、秋沢氏の定時も遥か前に過ぎている。
「チビだからそこら辺でガキにカツアゲされてたりして~ギャハハ」
「不安になるじゃ~ん…見てくる」
席を外し、人混みを掻き分けてホール内を隈無く探す。
思ったより早く秋沢氏は見つかった。ラッパーのステージを楽しむ観客達から少し後ろに離れた所。会社から直接来たらしいスーツ姿の秋沢氏が、パリピの美人なお姉さん達に囲まれて鼻の下を伸ばしていた。
鼻をつねっておいた。
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