第27話 蛇〈後編〉

私の名前が"初郎"に変わってから数週間が経ったある日の昼過ぎ。

母がベランダで洗濯物を干している間、私は居間で一人、母が録画しておいたアニメ映画を見ていた。

そこへ玄関の戸が開閉する音と共に「ただいまー!」と元気の良い声が聞こえてきた。声の主─学校から帰って来たばかりの兄は居間にランドセルを放ると、隣接している台所に駆け込み二人分の缶ジュースを取り出してきた。そして1つを私の前に置きながら言った。


「■■、お母さんは?」


この時兄が呼んだのは私の旧名、抹消したハズの子供の名前だったが、私は何一つ気に止めず「ベランダ」とだけ答えた。兄は旧名を呼んだことに気づいたようで「あっ間違えた」と独りごちたが、特に気にする様子もなくジュースを飲み始めた。


その夜、夕飯が野菜のたっぷり乗ったインスタントラーメンだったのだが、私は何故だか無性に肉が食べたくなり母に「お肉が食べたい」とゴネた。


「わがまま言わんでよ。だいたいアンタラーメン好きやん」


「好きやけど今日はお肉が食べたい」


「じゃあもう食べるな!」


母がヒステリックに叫び、私の分のラーメンを取り上げた。いつもならここで私が折れて、母が料理を私のもとに戻すという流れになるが、何故かこの時の私は折れようとせず、逆に母の脛に噛みついた。


「痛い!」


母親の足が咄嗟に私の身体を蹴飛ばす。私は近くの箪笥に頭を強く打った。頭に瘤を作り大声を上げて泣く私に、今度は父が「お前がわがまま言うたんやろ!」と怒鳴りつけた。兄は気まずそうに麺を啜る。

その後、私は母によって家から締め出されてしまった。夏は過ぎていたがまだまだ夜は暑く、私は身体を汗だくにして家の中の家族に向け声を上げ続けた。

その時ふと、耳に動物の鳴き声のようなか細い音が聞こえた。私は頭の痛みも忘れ、音の根源を探し回った。家の門を抜けコンクリの道路を少し歩いた先、電柱の下に段ボールが置かれ、中で仔犬が一匹弱々しく震えていた。私は仔犬を見下ろしながら、何故かこう思った。


お肉だ。


私は仔犬を一匹手に取ると、その小さな頭を口にくわえようとした。

そこへ「初郎!」とヒステリックな叫び声が耳に入り、同時に仔犬を奪われた。


「アンタ何しよんの!」


母が仔犬を抱え、私を見下ろしていた。


「お肉」


「これはお肉やないの!」


母は仔犬を段ボールに戻すと、私の手を引いて車に乗り込んだ。車の運転席には既に父が座っており、助手席では兄が「初郎ごめん」と言いながら鼻を啜っていた。


「どこ行くの」


「住職さんとこ!」


母の叫びと共に車が発進した。




車に揺られ約1時間後、私は母の実家がある集落から山を挟んで裏側に位置する別の集落に連れて来られた。父が適当な空き地に車を停めると、母は私を抱えて家々の間に伸びる狭い坂道を登った。

坂道の中腹まで来ると、大きな寺が現れた。母は寺の敷地に入ると、自宅に使っているであろうスペースの玄関に立ちインターホンを押した。すると間もなくして、先日私に新しい名前を与えたあの僧侶が寝間着姿で出てきた。


「千代実ちゃん」


「住職さん、この子、犬を食おうとしたんです」


僧侶は「こらまぁ大変や」と言って私達家族を家の中に上げた。

豪奢な仏像や仏具が飾られた本堂に通されると、僧侶の妻が出て来て「あらまぁ大きな瘤」と私の頭に氷嚢を当ててくれた。


「住職さん、ウチの長男が初郎の前の名前呼んだみたいで…それから変なことばかりして…」


母が目に涙を溜めて話し、兄が「ごめんなさい」と泣き喚く。僧侶は妻に兄の介抱を言いつけると「しょうがねえわ、子供だもの」と穏やかな口調で返した。


「ワシやち改名は気休め程度のつもりで勧めただけでな、まさかこんななるとは思わんかった…ほらこん子の目」


僧侶に促されて私の目を覗き込んだ両親がえっと裏返った声を上げた。私の瞳が、蛇のそれの如く細く小さくなっていた。


「タケシん奴もこんな目ェしちょったわ。あんしのは生まれつきじゃ思いよったけど、大蛇に憑かれた証やったんやなぁ…どうしようかなぁ…あ、そうや」


僧侶は思いついたように本堂から廊下へと出ていった。それからピッピッという機械から出ているような音が10回鳴った後に僧侶の声が聞こえてきた。

何をしているのかと両親が怪訝に思っていると、僧侶がもどってきて言った。


「詳しい人おったけん電話しといた」


僧侶の電話から10分程経って、本堂に一人の老爺が入ってきた。


「堂島さんの家はな、代々塚のお守りをしよるんじゃ」


僧侶の紹介を受けて堂島と呼ばれた老爺が会釈をし、私の前に座った。そして私の目をじっと見つめた後「こらまぁ大変や」と顔を険しくした。


「住職さん、こらいけんわ。こん子が大蛇の化身になってしもうとる」


その場にいた私以外の人間がえっと声を上げた。


「化身になったらどうなってしまうんですか!?この子はもう戻らんのですか!?」


半狂乱になりながら尋ねる母に、堂島老人はゆっくりと首を横に振った。


「残念やけど戻らんわ」


堂島老人の答えに母が声を上げて泣き出し、兄の泣き声も一層酷くなった。父と僧侶の妻が一緒になって母と兄を宥めていると、堂島老人が「抑える方法はあるよ」と言った。


「塚を掃除してな、そばに大量の肉を埋めるんや」


「肉ですか…?」


「昔から大蛇の化身にされてしもうた奴がおる家ではな、塚を綺麗にして肉を捧げることで祟りの進行を抑えよったんや。肉は何でもいいけん、時々こん子の様子を見て危ないなと思ったら埋めにおいで」


「…わかりました」


斬新な対処法に両親は面喰らった様子でいたが、それで我が子が少しは大人しくなるのならばと実家の冷蔵庫から肉を持ち出し、夜遅くにも関わらず塚を訪れた。そして母親が塚の掃除をし、側で父が大きなスコップを使い肉を埋めた。

掃除とお供えが終わると、塚の前に蝋燭と線香を立て家族全員で黙祷した。


「本当にこれで大人しくなるんかいな」


「ならんかったら次は病院に連れていこう」


両親が小声でそう話すのが聞こえた。


後日、私の肉への執着は嘘のように治まり、肉の入っていない食事に文句をつけることも、動物を見て肉だと思うことも無くなった。しかし大蛇の祟りはあくまで「抑えられた」だけに過ぎず、何年か経つとまた肉への異常な執着が起こった。

私は周囲の動物や人─肉としてカウントできるものに対する敵意のような食欲のようなものを感じ、両親にそのことを話した。両親は大量の肉を買って私をあの塚まで連れていき、一緒に掃除とお供えをしてくれた。


そうして何年かに一度、肉への執着→塚へのお参りをしながら私は今まで生きてきた。実家を離れてからは両親を巻き込まないよう、一人で塚まで行くようになった。




そして2019年夏、私は約6年ぶりに塚を訪れた。もちろん一人で、ラップに「メガ盛り」と書かれたシールの貼ってある鶏胸肉を3パック携えて。

というのも3日前、日頃お世話になっている出版社の編集者である樹氏から「血と獣みたいな臭いがする」と指摘を受けたからだ。

私は塚の石を磨き上げながら、樹氏に指摘されるもっと前から同居人である秋沢という青年に対して「美味しそう」という感想を抱いていたことを思い出した。

しょうがないよあの子最近プクプクしてきてお腹なんか霜降り肉さながら…この考え方が兆候なのか。誰にも聞かれたくないような独り言を呟きながら塚の掃除を終え、続いて肉を埋めるべく地面に穴を掘った。流れる汗を拭いながらメガ盛り鶏胸肉3パック分がちょうど入るぐらいの穴を作り、肉を落とし込む。そして一面ピンクになった穴を土で塞いだ後、蝋燭を点け線香を焚きながら黙祷した。

さて、もう帰ろう。また独りごちながら蝋燭の火を消し、塚を後にしようとしたところで、肉を埋めた場所の土が突然波打つように蠢き出した。まるで土の中に潜む何かが、右往左往しながら肉を食べているようだ。土はしばらく蠢き続けた後、何事も無かったかのように動かなくなった。

そういえば埋めた肉がどうなるのかずっと疑問だったけど、まさかこんな風に食べられていたなんて。

驚きつつも「今度こそもう帰ろう」と塚のある山を下りた。


後日、ニュースで「妻を山に埋めた」と言って60代の男が警察に出頭したと報じられた。警察は男が妻を埋めたとされる場所を掘り起こしてみたが、人間の遺体など見つからなかった。

その時ニュースに映っていたのは、あの大蛇の塚がある山だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る