第25話 におい

平素お世話になっている出版社の編集者である樹氏は嗅覚過敏持ちらしく、半径1~2m程離れた人の体臭や口臭からその人の健康状態を察したり、時には僅かな残り香からそこにいた人を割り出すことができたりするらしい。


「…で、それが最近変なんですよ」


出版社の小さな談話室の机に座り、カップに入った緑茶を揺らしながら樹氏は言った。


「変とは」


「ずっと同じ匂いがするんです」


樹氏いわく、会社にいようと家にいようと、また昼だろうと夜だろうと関係なくふとした瞬間に同じ臭いが漂ってくるのだと言う。それはムスク系の香水でも振り撒いたような甘い香りで、最初に漂ったのは会社で一人残業に追われていた時だそうだ。


「はじめは女性社員のものかと思ったんですが、それなら本人の出勤中にも匂ってくるはずなので」


次に匂いを感じたのはその2日後の朝、出勤の準備をしていた時。服を選ぶ為にクローゼットを開けた瞬間、一瞬だけ同じ匂いを感じのだという。

それから匂いは毎日、忘れた頃に一瞬だけ漂うようになり、害こそ無いものの少し気になるので私に相談を持ちかけたとのことだった。

人間の嗅覚というのは誤作動を起こしやすく、時々その場に漂っていないハズの匂いを感じることがある。何も無い所で線香の匂いを感じたという怪談の真相はだいたいこれであるので樹氏もそうでないかと考えたが、それにしては匂いを感じる頻度が多すぎる。

そもそもそのムスク系の匂いとやらに心当たりは無いだろうか。尋ねてみると、樹氏ははにかみ笑いを浮かべながらこのように答えた。


「ちょっと言いにくいんですけどね、高校の頃に付き合ってた女の子がつけてた制汗剤と同じ匂いなんですよ」


表情の割に言ってることが怖すぎる。樹氏の頬にできた愛らしい笑窪を見つめながら思った。

しかし匂いの根源が元カノだと分かれば話は早い。おおよそ元カノが樹氏に対して抱いている未練が、制汗剤の匂いとなって樹氏を取り巻いているといったところだろう。そんな私の推測を樹氏に話してみると「絶対無いですね」と切り捨てられてしまった。


「僕がその子にフラれちゃったので。その子のこと好きすぎて『他の男の子と話さないで』って言ったら着拒されました。メール送ってもガン無視で」


この人ソクバッキーだったのか。若干引きながらも、匂いの主に一切の未練が無いのであれば他にはどんな可能性があるか、と頭を巡らせた。

そうだ。逆ならば。


「樹さんは元カノさんのこと、まだ好きですか?」


「え、それは…いやいやどうしてまた」


樹氏の目が泳いだ。私は続けて質問、というより詰問した。


「もし元カノさんに現在彼氏がいなかったらどうしますか?」


「ちょっと待ってください。質問の意図が」


「まず質問に答えてもらいましょうか」


私が凄むと、樹氏は小さく溜め息をついてから「好きですよ」と答えた。


「好きですし、何かの拍子にヨリを戻せないかと思ってますよ」


「そこー!それー!多分それが匂いの原因ですよ!」


机に身を乗り出し樹氏を指しながら言うと、樹氏に指をつままれた。折られそうだったのでさっさと引っ込めた。


「とにかく樹さんの方が未練タラタラだからそんな匂いしちゃうんですよ。どうかしてその未練を解消しましょう」


「どうやって?」


「……SNSで元カノさんのアカウントでも探してみたらどうです?もう結婚してるかも…」


「結婚して無かったらワンチャン狙って良いですか?」


樹氏の質問に「そこは自己判断で」と答えつつ、樹氏に元カノのSNSを探してもらった。

検索エンジンで元カノの実名を入れて検索をかけると、すぐにそれらしいSNSのアカウントが見つかった。プロフィールのページを開いてみると、人の良さそうな顔の旦那らしき男性と二人の小さな子供と一緒に写る女性の写真が上げられており、樹氏は女性の顔をまじまじと見つめ「彼女だ」と呟いた。


「結婚されてますね」


「子供までできて…」


「諦めはつきそうですか?」


「…ええ」


「良かった。もし元カノさんがまだ独身だったら、樹さん本当に突撃していきそうだから」


「はは、まさか」


樹氏はとっととSNSを閉じると「すみません」と頭を下げた。


「すごく見苦しいやり取りをさせてしまいました」


「いやいやそんなこと」


「でもお陰で自分の未練と向き合うことができました。本当にありがとうございました」


「いやいややめて下さいよ、僕達ただ話してたらこんな流れに行き着いただけですし…」


ここから2分程「ありがとう」「やめて下さい」というやり取りを繰り返した後、帰ろうとする私を樹氏が呼び止めた。


「言ったら失礼かなと思ったんですが…どこか怪我されてます?」


「怪我?いや全然」


「あれ、そうなんですね。ちょっと血みたいな臭いが…あっでもなんか獣…」


「もーやめて下さいよ怖いな」


「すみません」


二人で笑い声を上げた後、私はさっさと出版社を後にした。ずっとクーラーの効いた建物の中にいたにも関わらず、背中に汗をかいていた。実はつい昨日、私の同居人であるA沢氏からも同じことを言われていたのだ。


「また一回掃除しに行かんとなぁ…」


私の脳裏に、母の実家がある集落の、裏山にひっそりと建てられた塚の姿がよぎった。

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