第10話 こっち来ます?
土曜日の繁華街。黒い壁のシックなバー、黒ずんだ引き戸の前に暖簾を垂らした居酒屋、盛り髪の美女が大々的に写し出された看板を掲げたキャバクラ、呼び込みの美男子を店頭に配置したホストクラブ。
飲み会帰りのサラリーマン。客を連れたホステス。退屈そうにしゃがみ込むホスト。
建物も人も様々なジャンルが入り交じりえもいわれぬ熱気を帯びたこの街の片隅、私はへべれけになってしまった同居人の秋沢氏をおぶって、繁華街から歩いて1km程の所にある駅を目指していた。
この日、秋沢氏は繁華街の中にある居酒屋で催された会社の飲み会に参加しており、その飲み会が終わり次第秋沢氏と飲み直す約束をしていた私は飲み会が終わる時間を見計らって繁華街に突撃した。
秋沢氏に教えられた居酒屋の前に辿り着くと、いかにも会社の飲み会といった風の集団が十数人、二次会の参加者を募っており、その中で秋沢氏が数人の男性に両脇を抱えられ項垂れてていた。
「あのう、秋沢の友人ですが」
繁華街の喧騒の中でも彼等に聞こえるよう大声で声をかけると、全員が一斉にこちらを向いて顔を強張らせた。
「黒牟田さん」
固まりきってしまった集団の奥から一人の男性が私を呼んだ。以前、毎日同じ夢を見ると私に相談をしてきた秋沢氏の同僚山野氏だった。
「こいつめちゃくちゃに飲まされて」
山道野氏が秋沢氏を引きずって来る。すっかり出来上がった様子の秋沢氏は私を見るなり「お迎えご苦労!」といつになく陽気な声色で声をかけてきた。
「出来上がってますね」
「そうなんです。家に泊めてやってくれませんか」
泊めるも何も同じ家に住んでいるんだが。秋沢氏は私と同居していることを山野氏に教えていないようだった。
念のため私も何も突っ込まずに秋沢氏の身柄を引き受け、その場でおぶった。そうして集団を離れる際、恰幅の良い中年男性と目が合ったと思いきや彼はバツが悪そうに目を逸らした。
こいつがしこたま飲ませた犯人か。私は嫌味ったらしく彼に「お世話になりました」と伝えてその場を離れた。
これは飲み直すどころじゃないなあ。私は駅の方角に向けて繁華街を進んだ。駅まで行けば複数のタクシーが待機しているので、自宅付近まで乗せてもらおうと思った。
秋沢氏ははじめ、私の後頭部に頭をもたげ、回らない舌で何やら嬉しそうに話していた。それがしばらく経つと人の名前や誰かへの悪口を喚くようになり、酔いが回ったことを覚った私は彼を宥めつつ駅まで歩いた。
何やら喚き立てる童顔の男を背負って繁華街の大通りを歩いていると、道行く人が皆私に視線を向ける。何だか妙に恥ずかしい。なるべくなら見ないでほしいと顔を伏せて歩いていると、秋沢氏の口からまずい単語が飛び出した。
「おしっこ!」
うっそだろ。私は思わずゲッと唸り、辺りを見回した。近くにあるトイレといえば繁華街のど真ん中、今進んでいる方向と逆方向にある公園の公衆トイレのみだが、些か遠い。かといって付近のコンビニに今の秋沢氏を連れて入るのはかなり迷惑だろう。
ならば一つしかない。私は秋沢氏を背負ったままビル群の間、僅かな隙間に滑り込んだ。
「待ってね、すぐ脱がすからね」
空き缶やゴミクズが溜まった路地裏で秋沢氏のズボンを脱がせる。何も知らない人が見たら警察を呼ばれそうな光景であるが、この時の私はそこまで考えがいかなかった。
秋沢氏の身体を支え立ちションの介助をしていると、路地の奥からタッ、タッ、と革靴を踏み鳴らすような音が聞こえた。
まさか奥に人がいたなんて。肩を震わせながら「すみませんすぐ終わります!」と声をかけ、音の方向に目を向ける。そこにはスーツ姿の男性が一人、こちらに向かって立っていた。暗がりで顔がよく見えない。
すみませんすみません、と言いつつ秋沢氏のズボンを上げていると、男性が声をかけてきた。
「こっち来ます?」
え、なに言ってるのこの人。関わってはいけない人かと思った私は「いえ大丈夫です」とだけ返し、秋沢氏をおぶってとっとと路地を出た。
それから繁華街を出て、大きな国道を挟んだ先にあるオフィス街を歩いていると、ビル群の隙間からこのような声が聞こえた。
「こっち来ます?」
げ、ついてきた。でもどうやってそこの隙間に入った?疑問を覚えながらも私は「大丈夫です」と返しオフィス街を進んだ。気づけば秋沢氏が喚かなくなっており、私の背中で何かを呻くのみになっていた。
やっとこさ駅に辿り着きタクシーに乗り込んだ時、秋沢氏は蚊の鳴くような声で何かを呟くようになった。このままでは秋沢氏の意識が途切れてしまうのではと不安になった私は、タクシーに揺られている間ずっと秋沢氏に声をかけ肩を揺すり続けた。
「すごい酔ってますねー。そういう人って周りが面白がって飲ませるんですよー」
運転手の男性が苦笑いしながら言う。そんな怖いことをする奴がいるのか。私も苦笑いした。
自宅付近にあるコンビニで降ろして貰った後、私は再び秋沢氏をおぶって歩き出した。しかしすぐに秋沢氏がえずき出したので、私は一旦側にあった電柱の側に秋沢氏を降ろし、嘔吐し始めた秋沢氏の背中を擦った。
すると、背後から声をかけられた。
「こっち来ます?」
振り返るとあの男性が立っていた。電柱に取りつけられた街灯の真下であるにも関わらず顔が見えない。
しまった。こいつ人じゃなかったのか。立ちすくむ私に彼が再び声をかけた。
「こっち来ます?」
さっきから彼が言い続けている「こっち来ます?」とはいったい何なのか。立ちすくんだまましばらく考えた後、あることを思いついた私は「結構です!」と語気を強めて返した。
「この子は僕が責任もって介抱しますから!そちら側には行きません!大丈夫です!」
辺りの人家まで声が響くのにも構わず捲し立てた。
彼の言う「こっち」というのは、もしや彼がいる側、つまり「あの世」を示すのではないか。少々無理矢理な気がするがそうではないかと思ったからだ。
これがどうも良かったらしい。彼は「そうですか」と呟くと、霧が晴れるようにじわじわと消えていった。
私はさっさと秋沢氏をおぶって家へと急いだ。
何となくだが、彼の「そうですか」という言葉の響きに優しさや安堵のような、暖かいものを感じた。
家に帰り着いた後、私はA沢氏を着替えさせ水を飲ませた。秋沢氏は先程より回復したようで、私の質問に逐一答え、私が差し出したコップ一杯の水を自らの手で受け取り飲むようになった。
それから一晩寝かせたら秋沢氏は嘘のように回復し、朝からベランダに出てペットのメダカの水替えに励んだ。バケツに網を潜らせメダカを掬い上げる秋沢氏の姿を眺めながら、私は前夜に見たあの男性について考えた。
飲み屋の多い繁華街では秋沢氏のように上司から飲まされたり、はたまた自分から潰れるまで飲んで救急搬送される人が多く、中にはお亡くなりになってしまった方もいる。
実は前夜の彼もそういう類いの人間なのではなかろうか。泥酔した秋沢氏と生前の自分が重なった為に、心配になって「こっち来ます?」と尋ねていたのだろうか。
そう考えると彼の善意をはね除けるかの如く語気を強めて言葉を返したことに申し訳なさを感じるが、しかし彼が最後に呟いた言葉が帯びた暖かさからするに頼もしく聞こえたのだろうか。
「初郎くん!水替え終わった!餌やるから持ってきてくれない?」
突然の声にベランダを見た。Tシャツを濡らした秋沢氏が満面に笑みをたたえて私を呼んでいる。僕の苦労と前夜の彼の心配など、彼は一切覚えていないんだろう。まあ何はともあれ、彼が元気になって本当に良かった。
「赤虫と糸ミミズどっちがいいー?」
私はサイドボードに置いていたメダカの餌を2種類手に取り、ベランダに向かった。
#怪談 #小説
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