第6話 ゆうきさん

出版社の金本氏から「弊社の事務員を助けてほしい」という頼みごとをされたのは、肌にまとわりつくような湿っぽい暑さを感じるようになった初夏の頃。前々から執筆依頼を受けていた記事について金本氏と話し合っていた時に「ついでのお願いなんですけど」と話を切り出された。


「ウチの事務員にゆうきちゃんっていう女の子がいるんですけど、最近変なのに付きまとわれてるみたいで」


詳しい説明は本人からさせましょう、と金本氏は一度席を外し、間もなくして一人の女性を連れて戻ってきた。

その女性─ゆうきさんはちょうど退勤するところだったようで、肘を覆い隠す程長いフレア袖の白ブラウスに薄桃色のチュールスカートをヒラヒラと靡かせ、白のショルダーバッグを提げて部屋に入ってきた。私は彼女の出で立ちに「お姫様みたい」などと感想を抱きつつ挨拶を交わし「なんか付きまとわれてるんですか?」と尋ねた。


「そーなんですぅ。ここ一週間くらいですかねぇ」


間延びした声でゆうきさんが答える。


「警察には相談してないんですか?」


続けて尋ねると、やはり間延びした声で「いーえー」と答えた。そこへ金本氏がすかさず「相手が人間じゃないんですよね」と口を挟んだ。


「生きてる奴相手だったらゆうきちゃん一人で制圧できますよ。彼女ボクシングやってるんで」


金本氏の捕捉にゆうきさんが笑顔で頷く。

あら意外、と驚きを口にしつつ「またその手の奴なのか」と呆れた私は黙って詳細を聞くことにした。

以下、ゆうきさんがここ一週間以内に遭われた何かの話である。




ゆうきさんは自宅アパートと出版社の往き来をバスで行っている。自宅から歩いて20分程の場所にあるバス停からバスに乗り、15分かけて出版社のある市街まで行く。それから5分程歩くと出版社に着く。帰りはその真逆である。

ある日の帰り道、ゆうきさんはいつものバス停を降りたところで妙なものが立っていることに気づいた。それは一見人のようなシルエットをしているが、肌はフグの白子を思わせるブヨブヨとした質感をしており、目、鼻、口はどこにも見当たらない。

ここ最近忙しかったから、変な見間違いでもしてるのかな。そう思ったゆうきさんは人型の物体に軽く頭を下げて横を通り抜けて帰った。

すると翌日の帰り道、また例の物体と出くわした。しかし今度はバス停を降りたところでなく、そこから数分程歩いた曲がり角に立っていた。

もしかして関わっちゃいけない類のものだったのだろうか。ゆうきさんは何も見ていないフリをして物体の横を通りすぎた。

物体は翌日もゆうきさんの前に現れた。前日の位置からさらに進んだ場所だった。ゆうきさんは無視して通りすぎたが、翌日も、さらに翌日も物体は位置を変えてゆうきさんの前に現れ続けた。




「でー、昨日はもうウチが見えるぞってとこにいたんですぅ」


全く危機感を感じさせない声でゆうきさんが言う。


「それゆうきさんの家に近づいてません?」


「そーなんですぅ、もう怖くてぇ夜も眠れなくてぇ」


いや、全然眠れてそうだけど。彼女のゆったりした返しに心の中でツッコミを入れながら「で、どうすればいいですかね」と尋ねた。


「とりあえず見に行ってみたらいいと思います」


金本氏が答えた。


「見に行くんですか」


「ダメですか?」


「いやダメってこと無いですけど」


実際ダメということは無かった。女性からの相談を蹴るなど私の男としての意地が許さなかったし、フグの白子のような物体を生で拝んでみたいという欲もあった。

ただ一つ、かなり個人的ではあるが問題があった。


「なんかこう、歩いてて犯罪臭漂いませんか?」


こんな日に限って私は絶妙に柄の悪いカーキ色のキューバシャツを着ていたのだ。金本氏は私の右側頭部にできた大きな刈り上げとキューバシャツ、ゆうきさんの姿を見比べた後「美女と野獣ですね」と笑った。

その後、金本氏の笑い声に反応して集まってきた他の方々からも「美女と野獣」と呼ばれ半ば悲しい気持ちになりながら出版社を出た私は、フグの白子のような異形を拝むべくゆうきさんについて行った。

道中私はキューバシャツ姿のダルダルした男と優雅な姿の美女という組み合わせに警察官が職質に来るのではないかと冷や冷やしていたが、ゆうきさんが色々話を振って下さったおかげかそれとも世間様がお優しいのか何事もなくゆうきさんのお宅付近のバス停まで辿り着くことができた。

バス停のある大きな通りから住宅街に入り、角を右へ左へと曲がりながらしばらく歩いた後、ゆうきさんが「アレが我が家ですぅ」と400m程先にある2階建ての真新しいアパートを指した。


「昨日ここで出くわしたんでぇ、今日はアパートのそばぐらいまで来てるんですかねぇ」


そう思うと帰るの嫌になってきますねーなどと笑い合いながら、私とゆうきさんはアパートの前まで歩を進めた。アパートの前を見渡したが、異形らしきものはどこにもおらず、他の住人が置いたのであろう植木鉢が風に揺られていた。


「いないですねぇ」


辺りを見回すゆうきさんを「家の中にいたりして」と脅かそうとしたが、彼女がボクシングをしているという話を思い出して口をつぐんだ。

それからゆうきさんのお部屋がある2階へ上がり、二人で固まった。片側に各部屋のドアが4つ並んだ共用廊下の1番奥、ゆうきさんのお部屋の前に例の異形が立っていた。フグの白子のような質感の外皮、目、鼻、口等のパーツが見当たらない頭部。しかしシルエットは人そのもので、手足もしっかりと存在する。

私は咄嗟にゆうきさんの肩を抱き、部屋に向けて歩き出した。「いやめっちゃ怖いな」と声を上げてしまいそうだったが我慢した。そうしてゆうきさんにドアの鍵を開けてもらい、中に入ろうとしたところで


「彼氏ですか?」


異形が声をかけてきた。


「あ…えっと、はい…そうですけど」


嘘をついてみた。「貴方を見に来ました」等と正直に話すのは異形とはいえ失礼な気がしたのと、よくわからない物体と長く話をしたくなかったので無難な答えを出してみたのだ。

これが良かったようで、異形はそう、と返した後「お邪魔しました」と呟きながら消えてしまった。その声はどことなく悲しさを帯びているように思えた。

部屋のドアを閉めた後、私とゆうきさんは一斉にきゃーっと声を上げた。


「何あれ!何あれ何あれ!何あれ!」


「白子でしょ!?白子でしょ!?」


「僕"彼氏ですか"って聞かれちゃったよ!何あれ!」


「"お邪魔しました"って言ってましたよね!"お邪魔しました"って!」


ここで私はあることに気づき、ゆうきさんに伝えてみた。


「あれ、ゆうきさんのこと好きだったんじゃないんですか…?」


2~3秒の沈黙の後、私達は再びきゃーっと悲鳴を上げた。部屋の外からドアを叩く音と「大丈夫ですか!?」と焦燥した男性の声が聞こえてきた。応対し二人で「お騒がせしてすみません」と頭を下げた。

その後、私はゆうきさんから「一人にしないでほしい」とシャツを引きちぎらんばかりの勢いで掴まれ懇願された。


「ちょっと同居人がお腹空かせてるので」


「自分でご飯作れるでしょ!今夜だけ!服は貸せないけど今夜だけ!」


いつの間にかゆうきさんの声は間延びしなくなっていた。

仕方なく私は同居人の秋沢氏に電話をかけ、事の次第を説明し今夜はゆうきさんのお宅に泊まりますと伝えた。秋沢氏からは「一線越えちゃダメだよ」という返事だけが帰って来た。

こうして私はゆうきさんのお宅に一泊した。




翌朝、ゆうきさんのベッドを占領もしくは侵食するわけにもいかず床で寝てしまった為に腰を痛めた私に、ゆうきさんが「ありがとうございましたぁ」と何やら紙袋を下さった。


「大丈夫ですか?まだ白子が現れるかもしれませんよ」


「でも黒牟田さんばかり頼るわけにもいかないのでぇ」


次出てきたら金本さんにでも頼みますぅ。そう言って出勤の準備を始めたゆうきさんに挨拶をして、私はゆうきさんのお宅を後にした。

帰りのバスの中で、ゆうきさんから頂いた紙袋の中身を見てみた。「ありがとうございました」と達筆で書かれた一筆箋と大きなおにぎりが2つ入っていた。私はおにぎりを1つ食べながら、昨晩の異形が呟いた「お邪魔しました」という言葉を反芻した。

あの言葉が帯びていた悲しげな響きは、恐らく失恋によるものなのだろう。少し可哀想だが、かといってゆうきさんに「付き合ってやれ」等と無責任なことも言えない。

これでよかったのだ。後は彼(彼女?)が新しい恋を見つけてゆうきさんのことを忘れてくれれば良い。

私は心が痛むのを感じながら私は2つ目のおにぎりに手をつけた。


この後、私は腰の痛みとおにぎりの残骸(紙袋等)が元で秋沢氏に大きな誤解を与えてしまうことになるがそれはまた別のお話。

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