【仮題】装置は一人で物思いにふけるのか

灰野海

1.装置は今日も記録し、覚える

「満月、あれは何?」

 真白な小さな部屋では、天使のような金髪の少年と、白百合のような少女が談笑している。否、第三者から見れば談笑に見えるのだろうが、それは立派な教育であった。尤も、第三者など、この世界にはとうにいない。

「どれ?……ああ、桜よ」

「じゃあ、あの黄色は」

「あら、金木犀!甘い秋の香りがしてね、私あの花大好きなの。このあたりまで生えるようになったのね」

「じゃあ……この音は?さっきからざあざあ鳴っている」

「波の音かしら?ここももう、かなり海に近くなってしまったから」

 その部屋には、ベッドと小さな棚が一つと、椅子が一つ。真白な壁にシーツ。木目の棚以外の物はほとんど白く、白いことだけが取り柄の、決して広くはない個室だ。恐らくは、病室だったのだろう。

「海ってあれだ、前聞いた。夏のフーブツシってやつ」

「あら、よく覚えていたわね」

「満月が教えてくれたから。満月が教えてくれたこと、ちゃんと覚えてる」

 みつき、と呼ばれた少女を見つめる彼の目はどこまでも青く、どこまでも心の内を暴いてしまいそうな程美しい。しかし、彼に満月の心が読めたことなど一度もない。

「それは光栄ね」

「コーエー?」

「とても嬉しいわ、ってことよ」

「なら、そう言えばいい」

「日本語って奥が深いのよ」

 そういうものなのか、と頭を掻く少年を、満月はくすくすと笑いながら眺めている。その表情は楽し気ではあるが、今にも泡になって消えてしまいそうな危うさを孕んでいる。

「あなたには、結構たくさんのことを教えられたと思うわ」

「こうして流暢に会話ができるくらいには」

「ふふ。でも、きっともう少しね。まだ名前はあげられない」

「どうして」

「だって、冬がまだきていないわ」

 ねえ窓を開けて、と満月が少年に目で訴える。からりと乾いた音を立てて窓が開くと、真夏のような生温い風が金木犀の香りを運ぶ。

「春と秋は同時に来て、夏は数時間おきにやってくる。でもまだ、冬らしいものが何も見れていないわ」

「シキの最後の一つか。どんなものだ」

「寒くて冷たくて、冷たさが痛くて……いえ、もうただただ寒いわ」

 さむい、という言葉は彼にも分かる。あついの対義語だ。きっと満月が汗をかかない季節なのだろう。

「いつだったかしら、昔言われたのよ、お医者様に。きっと君は、次の冬を迎えられないって」

 それはイシャというかオトナの発言としてはどうなんだ、思わずそう口にすると、余命があるなら言って頂戴、ってお願いしたのよ、と満月はふんわりと笑った。

 人間の寿命はついに百を超えたという。それを考えれば、十五の彼女がどれだけ幼いかなんて、少し考えれば分かる。

「だから、ね。どうせなら見てやりたいのよ、冬を」

 にやりと笑ってみせる彼女は、子どもには見えない。少し前まで、もっと幼かったような気がするのだが。

「今、この窓の外には見えないのか、冬は」

 窓の外の景色は、少年が記録していた日本のもの、世界のものとは異なっている。まだ多くはない語彙を総動員して表現するのであれば、この世のものとは思えない。

 樹齢百年はくだらない、天を覆うつもりなのであろう巨大な桜の木。風が吹くたびに花弁を散らせるが、ちっとも緑を宿らせる気配がない。公園だったのであろうその土地には、もう子どもが遊べるような遊具はない。捻じ曲がった鉄の棒と化した元遊具に落ちる影の正体は、もっさりと生えた金木犀だ。生ぬるい風は、金木犀の香りと海の音を部屋に流し込む。まともな人間がもしこの世にまだいたならば、有り得ない、なんだこの世界はと叫びだしていることだろう。幸いにも、そんなうるさい人間はもういない。

 世界が滅びを迎えて約二年が経過していた。尤も、滅んでしまってからカレンダーは意味をなしていないのだが。満月が五時間以上眠った回数は八百九拾弐回。それを一晩と換算するなら、二年と四か月といったところか。

 あの日は、外にいた人間は肌の露出度が低かった、と少年は記録している。今思えば、あれが冬、もしくは冬の始まりか終わりかだったのかもしれない。満月に初めて会った日、少年はまだほとんど何も知らない、ただの装置だった。いや、実際のところ、今も装置であることは変わらない。少年が起動した頃は、まだ世界は正常だった。

「初めてあなたに会った日を覚えてる?」

「オボエ……記録のことか」

「そうよ。でも、人の記憶のことを、記録なんて言わないわ。学術的には言うのかもしれないけれど……言ってほしくないわ」

「どうして」

「機械みたいじゃない」

「しかし、自分はそういう類のものなのだから良いだろう」

「そんなこと言わないでよ、天使様」

 そう言って満月は、初めて会ったあの日のように小首を傾げて笑った。そして一つ、咳をした。

「ん、んん。とにかくね、あの日は確か十月の終わりで、もうすぐ冬を迎えるところだったわ」

 やはりそうか。あれは冬の始まりだった。また、一つ学ぶことができた。

「あの後すぐに私、季節だとかそういうもの、全部壊してもらっちゃったものねえ」

 年老いた老婆が死の間際に若い頃を思い出して懐かしむように、しかしどこか悪戯をした子どものように笑ってみせる彼女を、真っ当な大人が見たならば少々不気味に思ったかもしれない。だがここには、その本人と、形だけ美しい少年を模しただけの装置しかいない。彼には、背筋がぞわりとするような機能は搭載されていないのだから、その笑顔を見ても特に感じるものはなかった。ただ、笑っているな、と。それだけを記録する。もとい、覚える。

「……質問よ。私が最初に言った願い事は?」

 その質問をされたのはもう何度目だろう。二度目の質問の際に指摘すると、これは質問ではなく確認なのだ、とそう言われた。だから少年は今日も答える。――否、少しだけ言葉を選んだ。

「ああ。記録し……覚えている」

 乾いた小さな唇が紡いだのは、たった一言だったのだ、忘れるはずもない。


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