【6】
「かなめと中川君って同じクラスだったんだっけ?」
泣き止んだ私は、莉花の言葉に無言でうなずいた。
「もしかして、村瀬先生に国語教わってた?」
その名前を出された瞬間、血の気が引いた。何かを誤魔化さなければいけないはずなのだけど、そこまで頭は働かなかった。
「かなめの授業、何となく村瀬先生っぽいなって思ってたんだよね。私、授業では教わったことなかったけど、補習を受けたことはあって」
高1のときに国語を教わった村瀬先生は、すごく変な人だった。
腰に不格好なウエストポーチを身につけていて、その中にはチョークとか指し棒とか、プリント類を束ねる大きなクリップ、それにやたらと音のうるさいキッチンタイマーが入っていて、小テストなんかの時間を計ったりするのに使う。ポーチのチャックには何かのゆるキャラのストラップがぶら下がっている。
外見のインパクトもさることながら、授業も不思議だった。教科書の文章をこき下ろすなんて日常茶飯事だったのだ。「批判」とかいうレベルではない。ボロクソに罵る。
でも、村瀬先生の授業は楽しかった。
「消費と浪費は違う」
村瀬先生の声と、さらさらとしたチョークの音が教室に響く。
「浪費はモノを受け取ること。つまり、美味いものを食ったり、映画を観たり、音楽を聴いたり、要するに何らかの意味で身体的な満足を与えてくれるこういうのを『浪費』という」
「それに対して、『消費』というのは、記号を受け取ること。たとえば、インスタ映えするタピオカの写真を撮っていいねを稼ぐのは、タピオカというモノではなく、SNSのいいねという記号を受け取っている。消費社会には、身体的な満足感を与えてくれるモノを楽しむ環境が実は極端に少ない」
現代の消費社会ではモノを楽しむことが難しくなっている。
身体的な満足を得ることが、難しくなっている。
そういえば、私は色の名前を知らなかった。群青色と縹色がどう違うのか知らない。花の名前もわからなかった。道に咲いている花は、私にとってはハルジオンでもシロツメクサでもなく、単に「花」でしかない。雨もすべて「雨」でしかなかった。五月雨も時雨も「雨」だった。
私の世界は手触りというものに乏しい。
ああ、そうだったんだ。だから私は…
「あれだ、リストカットとかね、ああいうのは自分を痛めつけることで自分の身体性を確認する行為だったりするんですよ」
雷に打たれたような衝撃だった。村瀬先生の発言内容が高校の授業に適切であったと言えるかどうか、そういうことを考える余裕はそのときの私にはなかった。私は、自分のやっていたことが言葉によって意味づけされる感覚に圧倒されていた。
私の自傷癖は、それ以来息を潜めている。自分の行為が定義されたことで、私は私自身から解放されたようだった。
言葉が、私を私の中から連れ出す。言葉が、私を世界と接続させる。私の世界が、手触りを取り戻した瞬間だった。
高2になっても、現代文は村瀬先生で、私は嬉しかった。それなのに…
「村瀬先生、なんで辞めちゃったのか知ってる?」
莉花の声で、私の意識はわずかに今に引き戻された。
「…わからない」
高2の秋頃、村瀬先生は突然学校を辞めた。辞めた理由について、学校からは「健康上の理由」と説明されたけど、それなら村瀬先生自身が何らかの形で生徒にそのように説明しただろう。教員が生徒に挨拶もなく退職するなんてただ事じゃない。
どこからか「卒業生の女子にストーカー行為を働いていた」という噂がささやかれるようになった。そして、村瀬先生はいかにもそういうことをしそうな人だったと見なされた。
必ずしも嫌われていたわけではない。ただ、良くも悪くも平凡な学校で、村瀬先生は異質だった。そして私たちは、異質な存在を好きになるのが正しいのか、嫌うのが正しいのか、よくわからないのだ。
好き嫌いは、個人の自由ではない。私たちは、私たちの社会で好きであるべきとされるものを好きになり、嫌うべきとされるものを嫌わねばならない。それができない人間には、容赦のない迫害が待ち受けている。卒業生の女子につきまとっていたという噂は、私たちが、村瀬先生という異物に対してどういう感情を持つのが正しいのかを決定するのに十分な根拠となった。
「もちろん、私も本当のところを知ってるわけじゃないんだけどね、村瀬先生、嵌められたんじゃないかっていう話があるんだよね」
青ざめた私の表情を遠慮がちに観察しながら、莉花は迷うような口調で話し始めた。
「吹部の先輩がさ、タカノミサキと同じクラスだったらしいの。例の、つきまとわれてたっていう女ね」
そんな名前だったか、あまりよく覚えていない。
「で、そのタカノミサキっていうのが、一見人当たりいいけど、実は相当ヤバい女らしくてさ。メンタル不安定で、依存体質で、被害妄想激しくて、平気で嘘もつくっていう人だったみたい」
なるほど、そういう女はいる。そういえば、村瀬先生はいかにもそういう女に引っかかりそうなタイプだった。
「2人の間で何があったのかはわからないけど、タカノミサキの言い分を鵜呑みにするべきではないだろうって、その先輩は言ってた」
全身から力が抜けていく。タカノミサキとかいう女のことは知らないし、どうでもいい。問題は、おそらくはその女が発信源であろう噂に、私たちが一も二もなく飛びついてしまったことだ。
噂の真偽は全く問題にならなかった。正しいか間違ってるかではなく、納得できるかできないかだけが問題だったから。
私たちは、村瀬先生がいかに気持ちの悪い人だったかを繰り返し語った。見てくれの悪いウエストポーチ、授業中の奇矯な言動。村瀬先生のある種の魅力と見なされていた要素は、全てストーカー行為を連想させる気味の悪い特徴として理解されるようになった。
中川君が一度だけ「噂が本当だって決まったわけじゃないだろ?」と言ったことがある。拒否反応は強烈だった。女子のライングループで、中川君とは口をきいてはいけないというルールが共有され、3年のクラス替えまで、それは続いた。中川君を叩くことで、私たちは私たちが心地よく不快になれる物語を強化していった。
だから、私が教師を目指すようになったきっかけは、村瀬先生であってはならなかった。
村瀬先生に影響されて教師になろうと思ったなどと言えば、たちまち中川君のように迫害されるだろう。村瀬先生の授業を楽しんでいた自分を、私は必死に忘れようとしたし、実際、クラスの女子たちと一緒になって村瀬先生を非難しているうちに、意外なほどあっけなく、私はその人のことを忘れてしまった。ただ、忘れることは、なくなることではなかった。村瀬先生を否定するたび、私の中の何かが傷ついていた。
「私、村瀬先生の授業好きだったんだよね。ああいうことになっちゃったから、言いにくくなっちゃったけど、でも、面白くなかった?」
莉花の声が、私の中で堅く結ばれていた何かをときほぐしていく。私は何かを答えたと思うのだけど、何を答えたかは覚えていない。莉花ももう何も言わなかった。
村瀬先生のことをどう思うかは、自分の心で決めていいことだったはずではなかったか。仮にあの噂が本当だったとしても、村瀬先生に教わったことが消えるわけではない。村瀬先生に教わったことをどう使うかも、自分で決められるのではないか。
すっかりくたびれてしまったスーツの内ポケットに、あの葉書がしまわれている。毎日手に取り、眺めているその厚紙の感触が、なぜか妙に懐かしかった。
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