【5】
動悸がおさまらない。過呼吸が止まらない。週明け、私はどんな顔で同期たちに会えばいいのだろう。
なんでもない会話だった。実習生同士、お互いの失敗を笑い合って、来週も頑張ろうと言って終わればよかっただけなのに。
はずれてしまった。逸脱してしまった。この逸脱は修正できるのだろうか。左手首を、何かから隠すようにぎゅっと握りしめる。
華金の駅前は、22時近くになっても明るくて、色や音で満たされてるはずなのに、私はそれをまるで知覚できない。背中から私を呼ぶ声が聞こえるような気がする。かなめ、大丈夫?というその声に、私はどう答えるのが正しいのかわからなかった。大丈夫じゃないなんて答えられるわけがない。私が大丈夫でなかったら、綻びが生まれてしまう。私が、綻びになってしまう。私は、大丈夫でなければならない。
誰かが私の右腕を掴んだ。私はぼんやりとした意識で、その誰かの方を振り向く。息を切らした莉花の姿が、少しずつ視界の中で形をつくる。私は何も言えなかった。表情を作ることもできなかった。どうして莉花がここにいるのだろう。私を心配して追いかけてきたのだということさえ、うまく理解できなかった。
「ちょっと、どこかで休んで行こう?」
莉花の声が遠い。莉花がどんな顔をしているのかもよくわからない。
いくらか気持ちが落ち着いて、状況が把握できるようになったときには、駅前のファミレスの、トイレに近い奥まったテーブル席に座っていた。ドリンクバーからホットウーロン茶を2つ持ってきた莉花が私の隣に座る。
虫の鳴くようなか細い声で、「ごめん」と謝る。
「なんで謝るの?」
なんでと言われても、こういう場合、謝る以外の対応がわからない。
「かなめは、悪くないよ」
莉花がつぶやく。
悪くない。そうなのだろうか。私のせいで場の空気が乱れても、私は悪くないのだろうか。悪い悪くないは別としても、栗田たちに上手く切り返せなかったのは私の失敗だ。もっと穏便に話題を変えることもできたはずだ。
「かなめは、悪くない」
莉花の口調は、今度は少し強い。
「私、かなめはすごいなって思ってるよ。毎日8時とか9時まで学校に残って教材研究して、生徒の顔写真と睨めっこして顔覚えて、自分のやりたい授業がちゃんとあって」
思わず、莉花の目をまじまじと見つめる。私は莉花に興味がなかった。だから莉花も同じくらい自分に無関心なのだろうと思っていた。莉花の英語の授業はどんなだったか。私が見学すると、莉花は必ず「どうだったかな?」と私に聞いた。私は、決して角が立たないような当たり障りのないことだけを答えていたけど、莉花はあまり満足していなかった。私は、莉花に自分の授業についての意見を求めたことがない。私の授業を見学する莉花は、始終熱心にメモを取っていた。私はそれを、莉花の指導教諭へのアピールか何かだと思っていた。
私はもう一度、莉花に謝ろうとしたけど、言葉にはならなかった。
「私は、かなめの国語、見ていてすごく楽しいよ」
莉花の静かな声に、抑え込んでいた何かが溢れ出してくる。気がつくと、泣きじゃくる私の背を、莉花がさすってくれていた。不思議なことに、泣けば泣くほど、私の五感は研ぎ澄まされていくようだった。世界に輪郭が与えられる。この感覚には覚えがある。あの子との交換日記がそうだった。そして、あの人の授業がそうだった。私の世界に、手触りが戻ってくる。
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