【4】

 「明日、金曜だし実習生で飲みにいこうって。かなめも来るでしょ?」


 莉花からのラインに、「いくいく〜」と顔文字付きで返信して、スタンプを送る。本音を言えば少しでも身体を休ませるか、授業の準備をするかしたいのだけど、私にはこの手の誘いを断る勇気は無い。

 島崎莉花とは高校時代に同じクラスになったことはないけど、習熟度別の授業や体育で一緒になることはあって、実習で再会してからは昔からの友達だったということになった。お互い顔と名前を知ってるだけで、高校3年間を通して口を聞いたことなど10回にも満たないであろう“友達”なる存在は、私からすると何かの冗談としか思えないのだけど、莉花のようなタイプの人間にとってそれは本当に“友達”なのだ。

 顔の造形自体は飛び抜けて美しいという訳ではないけれど、化粧のスキルとモデルのような長身と、いかにも帰国子女の英語の先生ですというキラキラした雰囲気とが相まって莉花は美人とされていた。ついでに言えば、何かにつけて私と一緒にいることが莉花の美貌を一段と際立たせているような気もするけれど、そういうことはあまり深く考えないようにしている。要するに、友達とはそういうものなんだ。


 実習生は、女子が私と莉花の2人で、男子が3人。莉花が私の分まで喋ってくれるので、私は莉花や男子たちが話してるのを聞いていればよかった。

 「俺ずっと塾で中学生教えてたからさぁ、高校生は楽だよね、正直」

 店中に聞こえそうな声で自画自賛する栗田に、私はニコニコしながら相槌を打つ。サッカー部出身で、卒業してからも部活の手伝にきていたという栗田は、教員にも生徒にも知り合いが多く、教育実習というシチュエーションに緊張が無いようで、私たちのリーダーを気取っていたけど、私は栗田の数学が気に入らなかった。

 実習生はお互いの授業を見学し合う。栗田の式の立て方は美しくない。指導書の丸写しで何の工夫もない。本来、数学の問題には無数のアプローチがあって、他人の書いた指導書に載ってる解法が自分や、自分の生徒にとってしっくりくるものであるとは限らない。だから自分なりの答えの出し方を追求するのが大事なのだし、数学の面白さもそういうところにあると私は思うのだけど、この男にとって授業なるものは、誰かが用意した解法と答えを生徒に伝えるという作業でしかないらしい。授業がそういうものだとすれば、栗田のようにノリと勢いで生徒を引きつけることさえできればそれがよい授業なのだろうし、なるほど、高校は楽だろう。

 「そんなこと言ってるけど、栗ちゃん今日めっちゃテンパってたじゃん」

 調子に乗ってる栗田を上嶋が茶化す。黒板に書いた式にマイナスをつけ忘れて正しい答えにならなかったのだ。よくあるミスと言えばそれまでだけど、そもそも無意味に複雑な式を展開するから間違いが起こりやすくなっていることに気づいていないのだろうか。

 「いや、あれは凡ミスだから、仕方ないっしょ」

 「まあね、人間誰にでも失敗はあるからね」

 栗田と同じクラスだった上嶋は、いつだって栗田を持ち上げる。

 「そうそう、先生だって間違えるんだっていうのを教えるっていうの?そういうのも大事じゃん?」

 間違いを減らす工夫を考えようとは思わないのか。内心で毒づきながらも、私はやっぱりニコニコしながら話を聞いているだけだ。

 「テンパってたって言うなら昨日は仲澤も相当だったよな?」

 頭が急に真っ白になった。内心で栗田の授業を酷評していただけに、急に話を振られて、自分の授業について何をどう言えばいいのかわからない。

 「かなめはミスしたわけじゃないでしょ?計画通りにやったら生徒が理解しなかっただけ」

 莉花がフォローしてくれたのが意外だった。あれを「ミスではない」とわかってくれたのはもっと意外だった。そう、あれはミスではない。私は自分が準備したことを、準備していた通りにやって、それが生徒に通じなかったのだ。でもそれは、ミス以前の段階で何かを間違えていたということになりはしないか。

 「いやあ、でもさあ、普通教師が教科書を否定しないでしょ」

 栗田の無神経な笑い声で、何かがプツンと切れてしまった。笑ってごまかすのが正解だとわかってるのに、うまく笑えない。場の空気が冷えていく。


 「なんでそれが普通なんだ」


 それまであまり喋らなかった中川君がポツリと言った。

 「教科書を疑うって、大事なことじゃないのか」

 野球部のレギュラーだった中川君の低い声は、騒がしい居酒屋の中で不気味なほどよく響いた。気まずい沈黙が漂う。

 「教科書に書いてあることは全部正しいなんて思ってたら、大学で困るんじゃないか」

 やめてくれ、と思った。栗田も上嶋も引いている。このままではいけない。壊れてしまう、外れてしまう、逸脱してしまう。修正しなければ、何とかして、元の空気に戻さなければ。必死で頭を働かせようとするけど、昨日の授業でのしらけた雰囲気が脳裏に蘇ってくるようで、私はもう、何をどうすればいいかわからなくなっていた。

 「まあまあ、そんな怒らないでよ中川ちゃん」

 上嶋が中川君をなだめにかかる。

 「別に怒ってないよ。教科書を批判するのが間違ってるとは思わないって言ってるだけ」

 中川君はそれきり、黙りこくってしまった。


 いたたまれなくなった私は、電車があるからと言って逃げるように居酒屋を出た。栗田や上嶋がどんな顔をしていたかは覚えていない。

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