【3】
「仲澤さんの感想を語るのは授業じゃなくて無駄話なんだよ」
沢口のうんざりした口調が重くのしかかる。別に個人的な感想を語ったつもりはない。必要だと考えたことを説明しただけだ。そんな反論も言葉にはならず、か細い声で「すいません」とだけ答える。
沢口がため息をつく。
教育実習が始まって2週間。私の授業は迷走を続けていた。何かがうまくいかない。
扱ってるのは短めの評論で、「家族に必要とされていると実感できない人が、ペットを家族の代わりとみなすようになっているので、ペットに依存して金をかけすぎることがないようにするべきだ」というようなことが書かれている。前段はいいとして、後段がよくわからない。少なくとも、ペットを家族と見なしてそれにお金をかけることがなぜ問題なのか、その点についての説明は必要のはずだ。授業でそういう話をしたのだけど、それが失敗だったらしい。生徒たちは、あからさまに困惑していた。
「生徒からすると教科書に書かれていることは正しいはずで、なのに先生がそれを否定しちゃうと、混乱するんだよ」
それはそういうものなのかもしれない。でも、だから教科書を批判してはいけない、ということになるのだろうか。生徒たちに教科書に書かれていることは正しいはずであるという思い込みがあるなら、その認識は改めさせなければいけないのではないのか。そんなふうにも思うけど、現に私の授業は生徒を混乱させただけだったのであって、それはやっぱり、私が何かを間違えたということなのだ。私はまた小さく、「すいません」と答える。
「仲澤さんって、誰に国語教わってたの?」
沢口の質問に一瞬当惑する。高校時代、つまり、私がこの学校の生徒だったときに国語を教わっていた教員は何人かいるけれど(沢口自身がその1人だけど、この指導教諭は私のことを覚えていなかった)、その中で誰の名前を挙げるべきなのか。ある人のことが一瞬心に浮かんだけど、私はすぐにそれを振り払った。
「高3のときは、野田先生でした」
嘘をついたわけではないのに、ひどく胸が痛むのはなぜだろう。
野田は50代くらいのおっとりしたおばさんで、思い出の先生として話題に上げるには当たり障りのない人物だと言える。沢口は「ふうん」と生返事をしただけだった。正しい。私は質問に正しく答えた。自分にそう言い聞かせる。野田の授業は普通だった。教科書の文章をセオリー通りに解釈して、セオリー通りに理解できたかを試験で問う。そんなのつまらないと思ってしまう自分を抑えなければいけないのかもしれない。少なくともこの学校には、そういう授業は似つかわしくない。そう、昔からずっと、そうだったはずじゃないか。
翌日の古典の授業で使うプリントを作って、散々だった授業の振り返りを実習日誌に書き終えると、もう21時。残っている先生たちに挨拶して校舎を後にする。帰宅ラッシュの時間帯をとっくに過ぎた駅のホームは、人影もまばらで、空いていたベンチに座って電車を待つことができた。
リクルートスーツのポケットに、あの子からの葉書が入ってるのを確かめる。そこに書かれている文字を、今は読む気にならなかった。読むまでもなく、角ばったいかつい筆跡と、わずか3行の文面は私の脳裏から離れてくれそうにない。
「私のせいにはしないでください」
ぐうの音も出ない。あの子のせいにして何かから逃げようとしている私の甘えを、2ヶ月後に13歳になる女の子が正確に見抜いている。あの子はさぞかし私を軽蔑しているだろう。あの子からの葉書を、私が肌身離さず持ち歩いているなどと知れれば、尚更気持ち悪がられるに違いない。
消えてしまいたい。
どこにもいない、誰でもない存在でありたい。
不意に、風にあおられているのに気づく。電車は、たった今出発したところだった。構内の電光掲示板は、次の電車の到着が16分後であることを告げている。乗り継ぎのことを考えると、自宅に着くのは23時近くになるだろう。私は、次の電車に乗り遅れないように、鉛のようになった身体を立ち上がらせて、乗車位置に並んだ。
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