■035――新たな隣人

 俺の名は神無月了。


 しがないアラサーの小説家……の、筈なのだが。

 停滞していた俺の人生に怒涛のイベントラッシュが来て悪戦苦闘していたら、ここにくる前の自分が思い出せなくなっていた。


「俺は約束を守れているんだろうか……」

「どうしたの?急に」

 朝食の席でオルトは心配そうな顔で話しかける。

「今の俺は以前とは違う人間なんじゃないかって……最近思うんだ」

「カンナヅキ……」

 彼はテーブルに置いた俺の手をそっと掴んだ。

「カンナヅキは今まで大変な戦いをくぐり抜けてきたんでしょ?それで何の変化もない方がおかしいよ……それに君はまだ若いんだし、成長して大人になったってことじゃないかな、そういうものだよ!」

「そうかな……」

「君は少し疲れてるんだよ。もう少し自治区が落ち着いたらゆっくり休もう。僕も手伝うから!」

 友の手の温もりを有難く感じると同時に、正解に手が届かないもどかしさが焦れったかった。



 アースガード自治区に龍王国軍属の魔術師たちによる、施設の建築ラッシュが相次いだ。

 近くダンジョン拡張の情報が公開され、戦争が終わったことにより、近日中に転移門が開通される見込みであるゆえ、冒険者や旅行者向けの各種施設を事前に建設している。

 完成した暁には、その運営は村長一族を筆頭にした村人たちが携わることだろう。


 それと、義務教育の試験運営として寄宿学校を運営中だが、さらに追加で生徒寮を増設していた。既にある寮よりグレードが高い印象だ。

 寮というよりホテルのスイートのような部屋が多く、特にその最上階は中立地帯で宿泊した部屋にも劣らない感じだった。

 既に全国から厳選された孤児たちが集められていたが、孤児以外の子もやってくるのだろうか?


 農業試験場の方でもジュンの希望だった温室が設置されたのだが……

「……ちょっと、大きくない?」

 家庭菜園の規模をなんとなく想定していたが、実際建てられたのは学校の体育館くらいの大きさのモノだった。

 ジュンは呆れ気味で施設を見上げている。

 思い当たる節はある。

 文書で要望を提出した時に日頃の感謝の気持ちも込めて、一緒に収穫したイチゴと、思いつきで作ってみたイチゴアイスクリームとジャムも添えて転送ストレージに入れておいたのだ。

「姉さんがここのイチゴを相当気に入ったみたいでねー……王室付きの庭師と魔術研究所の植物学者が研修に来ているよ」

 一々やることのスケールがデカいんだよな……。

「あと、この前献上した黄金林檎と蜂蜜から作った化粧水が凄まじい威力らしくて……ここの収穫物に関して新しい発見があったら逐一報告するよう強く言われててさぁ……まったくこの忙しい時に、もう……」

 ゲンマはため息交じりにぼやいている。 

 貴重品を使って何やってんだよ……俺も人のこと言える立場じゃないが、龍族も大概だよな。

 温室の隣に二階建ての研究所が併設され、ここでも収穫物を使った研究開発を行うらしい。



 その日、フィン王国からの供犠として、ニコラとアランの兄弟がアースガード自治区に到着した。

「ようこそ、龍王国特別自治区アースガードへ」

 ゲンマと俺は正装で二人を出迎えた。ちびっこでも国賓だからな。

「お出迎えいただき感謝いたします!ゲンマ様、エンダー様」

「新生フィン王国の親善の証として、ニコラ・ティモン、アラン・ティモンの両名を我がアースガードの一員として迎えよう」

 俺が手をかざして宣言すると、二人は恭しく跪き臣下の礼をとった。

「さて、堅苦しい挨拶はここまで!さあ、ボクらの自治区を案内するよ!」

 ゲンマはニコニコしてそう言うと、二人の顔は緊張から解放されて明るく輝いた。


 かつてプリムム村だった場所を一通り紹介した後に、寄宿学校の新設された生徒寮に二人とその追従の側仕えを案内した。

 なるほど。流石に要人の子供だと個室というわけにはいかないか。

「僕は別に他の生徒たちと一緒でも構いませんがね」

 アランが微笑みながら言うとニコラはやや嗜めるように注意する。

「寄宿学校はガーラ様の肝いりで始めた国家事業ですよ。生徒間で余計な諍いが起きないように配慮していただいたのですから感謝して受け入れるべきです」

「領主様方のお気遣いには感謝してますよ。それでも一日も早く列強諸国の暮らしに慣れたいというのが僕の本心です。ダンジョン!エンチャント!今から胸が高まります!」

 早熟でも男の子だな。トオル達ともすぐに仲良くなるだろう。

「はぁー……大丈夫かな?母上は諦め気味だったけど……領主様にご迷惑だけはかけてくれるなよ?アラン」

 真面目そうなニコラの心配をよそにアランは嬉々として運び込まれた荷物の開梱作業で側仕えに指示を出していた。



 ティモン兄弟が到着した翌日に、王都からサメイション商会のローラ一行が自治区に到着した。

 ローラ嬢と共に来たのは、ヨネ子、ナス子、出向していたイノ、それと護衛の冒険者数名だった。

 冒険者たちはギルドで依頼完了の手続きを取るやいなや、ダンジョンに直行して駆け込んだ。

 あの様子だとしばらく滞在しそうだ。


「お久しぶりでございます、ゲンマ様、カンナヅキ様」

 出迎えた俺たちにローラは丁寧に礼をする。

 領主館の応接間でヨネ子、ナス子がソファに身を沈めてぐったりしている。

 旅程は相当の強行軍だったようだ。

「随分急いで来たもんだね。もっとゆっくりでもよかったのに」

「ゆっくりしたかったのは山々でしたが……王都からの追っ手を巻くのに必死になって……気がついたらこうなってましたの……」

 出版ブームは予想以上に加熱しているようだな。

「王都の官僚改革以降、元官僚による事業立ち上げが相次いで、良からぬ連中と手を組む輩が後を絶たない状況ですわ」

「言ってくれたら迎えに言ったのに」

「いえ、ゲンマ様。私たちは現状エルス共和国から出向している身。ゲンマ様の御力をお借りしたら後々問題になるやもしれません。お気持ちだけいただきますわ」

 ローラは旅の疲れを感じさせない気品溢れる微笑みを浮かべた。

 なんにせよ無事でよかった。



 イノはユリアに連れられて、ここの家事業務を手伝うべく研修を受けるようだ。

 俺たちは農業試験場に三人を案内した。

 そこではイチゴの収穫を手伝う子供達と引率するモジュローがいる。

 ナス子は猫耳のヴェールを見るやいなや、直立不動で硬直した。

「……」

 明らかに挙動不審な初対面の女にヴェールは怯えた。

「ど、どちらさまですか……?なぜ、私を見ているのですか……」

 ヴェールが首を傾げて声をかけても、ナス子は痙攣するのみだった。

 モジュローはヴェールを後ろ手に庇うように二人の間に立ちふさがった。

「ヴェールに何をするつもりですか!おかしな真似をしたらタダじゃすみませんよ!」

「……お兄様!」

 ヴェールはモジュローの後ろに隠れ、その腕にしがみついた。

 このやりとりを呆然と眺めたナス子は、やおら近くの休憩所の柱に近づき、頭を何度も打ち付け出した。

「「ひぃ……!!」」

 モジュローとヴェールは変な女の訳のわからない奇行に完全に怯えて抱き合っている。

「あんた、なにをやってるの!!」

 見かねたヨネ子がナス子の動きを止めた。

「コロシテ……コロ……シテ……」

 ナス子は頭から血を流して呟いている。

「はぁー???」

「……これからの人生でこれ以上素晴らしい光景に出会える気がしない……」

「バカなこと言わないでよ!!あんた中立地帯のイベントでも同じこと言ってたでしょ!!もういい加減にして!!」

 ヨネ子さん頑張れ。

 後でナス子くんにはコンプラ尊重の精神を叩き込まないとな。



「失礼。少々、取り乱しました」

 俺たちは温室横の研究所の応接室でナス子のクールダウンを待った。

「大丈夫なのか?……本当に、分かってるのか?」

「やだなー、さすがに犯罪行為はしませんよー。ちょっと猫耳の破壊力にまいっただけで……いやー、眼福……まさか生猫耳に出会うとは……異世界に来て本当に良かった……」

 おいっ。ウチの子に何かしたら、切り捨て御免じゃ済まないぞ。

「しませんってば!!イエスネコミミ、ノータッチで!」

 だから、お前は何を言ってるんだ。


「そろそろ仕事の話してもいい?」

 ゲンマは呆れ気味に口を挟んだ。

「はい!錬金術のスキルが必要としか聞いてないので詳しく聞きたいです」

 切り替え早いな……。

「仕事はちゃんとしますよ。これでもサメイション商会では真面目だと評価されてるんですから」

 隣で心配そうに様子を見守っているローラ嬢も頷いている。

「とりあえず、希少素材を使ったポーション開発がメインね。まずは回復系ポーションの品質アップと供給数の増加が目標。最終的にはエリクサーの安定生産が出来たら嬉しいけど、これは長期目標ね。いますぐは無理でしょう。地球の機材や資料も希望があれば取り寄せできるわ。薬剤師を目指していたと聞いてるけど……どう?出来そう?」

 ジュンは近辺で採取できる素材リストを彼女に渡した。

「んー、私は就職に有利な資格目当てで大学に行ってたんで、そこまで優秀じゃないんですけど……」

「既に錬金術スキルがあるのでしょう?十分助かるわ。力不足ならここのダンジョンでパワーレベリング出来るし育成ならフォローするつもりよ。それに科学知識が少しでもある人材は貴重なの。使ってる度量衡も同じで擦り合わせも不要だし。それに、こっちの人ってまともなドキュメントを残さないから困ってるのよ」

「あー、それは分かります。職人気質というか、秘密主義というか……苦労して秘伝書を手に入れても書式がバラバラで解読が必要だったり……」

「そうなのよねー。ただ、今は基礎づくり、科学のメソッドでこの世界特有の要素を解析して有効利用するために試行錯誤してる段階で、成果に関しては急いでないから、気負わなくていいわよ」

「ここでの安全と住居は保証するし、これまで通りの給金もちゃんと出すよ。機材や素材は充実してるから、より効率も上がるだろうし、空いた時間はレベリングでも創作活動でも自由にしてていいよ」

 ゲンマの補足に彼女はニッコリ微笑んだ。

「それは助かります!」

 エルスや王都の熱狂ぶりを考えると、創作活動だけでも食べていけそうだけど、いいのかな?

「いやー、それが……仕事と趣味は分けておきたいんですよね。創作は好きだけど、仕事にはしたくないというか……」

 そういう人もいるか。筋金入りの同人者ってところか。



 帝国から使者がやってきた。

 以前の市で情報をやりとりした行商隊プロブ隊を案内人に貿易の打ち合わせにレイモンドが文官と共に自治区に訪れた。

「久しぶりじゃのー」

 リーダーは相変わらず飄々と挨拶をした。

「無事だったか。元気そうだな」

 ジョイスはリーダーと握手を交わした。

「はっはっは。この程度の混乱を乗り越えられなかったら、この大陸で商売なんて出来ませんて」

 彼は自治区の城壁を眺めてひとしきり感心する。

「しばらく来ないうちに見違えたもんだ。これからはわしらも頻繁に来ることになるかもしれんなぁ」

 行商隊はジョイス、オルトと今後の取引について話し合いに入った。

「じゃあ、ボクらも打ち合わせするか。レイモンド君、領主館に案内するよ」

「お出迎えに感謝します、ゲンマ様」



 人間領域では列強諸国の商品の取り扱いは基本タブーとして禁止となっているが、いくつかの例外はある。

 代表的なものは“塩”だ。

 塩の生産は沿岸部に集中していて、戦乱の絶えない人間領域だけでは需要に応えるだけの十分な量の流通は難しいようだ。

 列強諸国では塩はシステムから比較的低価格で入手可能であり、人間領域では保存食の作成には必要不可欠なのでほぼ言い値で売れるだろう。

 その次は意外なことに“酒”らしい。

 葡萄酒やエールといった酒は生産されているがそれらは貴族や富豪が嗜む用で、庶民のための安酒――蒸留酒の類はまだ現地では作られてはないようだ。

 システムが供給する度数の高い透明な蒸留酒は樽に入れられた状態で行商隊を通じて酒場に納品され、それを薄めて“魂の水”と称して客に提供しているとのことだ。

 後はポーションや書物、かつて市で見かけた通りだ。


「塩や香辛料はどれだけあっても買い手はいるので優先して取引したいです」

「それと、ポーション……特に上級の解毒ポーションは材料はあってもこちらでは調合が難しいので発注したいです」

「最近、王都で流行の“いんさつ”なる技術による美しい絵画や書物がこちらでも評判になってます。宮廷でも是非取り寄せたいと要望を承ってます」

 文官たちは旅の疲れもそっちのけで堰を切ったように話し出した。

 これらの交易は今まで行商隊を通じて細々と行われていたが、帝国は自治区の制定に乗じていち早く通商条約を締結することで他国より先手を打った状況だ。

 俺たちとしても数多くある人間領域の国と個別に対応するのは面倒なので帝国を窓口にするのは手間が省けて非常に助かる。


 交易の打ち合わせが一段落した頃、レイモンドは書簡をゲンマに差し出した。

「陛下からの上申でございます」

 ゲンマは書簡を受け取り、中身を改めて、表情を曇らせた。

「これは……」

 レイモンドはジッとゲンマを見つめて頭を下げた。

「……私からもお願い申しあげます。どうか陛下の願い、お取り計らいのほどよろしくお願いします」

 ゲンマはため息をついた。どうしたんだ?

「懸念は当たっちゃったね……」



 レイモンドが帝国に帰って数日後……。

 俺たちの目の前に新しい客人……いや、隣人が到着した。

「ゲンマ様!エンダー様!本日よりお世話になりまする!よろしくお願い申す!」

 そこに立っているのは、帝国の宮殿で会ったアン王女だった。

 どうしてこうなった?


 発端は宮廷の茶会でのリチャードの奇行だったらしい。

 ティモン兄弟の供犠に触発されて、帝国もこれに倣うべきと唐突に言い出した。

 彼の意図する考えは側近でも計り知れていないが、概ね政敵である弟ヘンリーに対する牽制と受け止められている。

 もっとも一部では本気で列強諸国に亡命したいのでは?と懸念されているが、流石に識者には一笑に付されているようだ。

 ともかく、これをきっかけに帝国の対応は国内外から注視されることになった。

 結果、帝王スティーブのとった手段は末子アン姫を供犠として差し出すというものだった。


 元々、庶子のアンとアルバートの二人が、魑魅魍魎が蠢く宮廷内で不遇の扱いをうけている様子は市井でも知られていて、特に公式行事でも物怖じしないアン姫の庶民の人気は高かった。

 そして、それに駄目押しするように俺が黄金の林檎を与えた事件は光の速さで帝都に広まり、今や彼女は“林檎姫”と呼ばれているらしい。

 帝王曰く、『我が娘アンは国民に愛されている姫ではあるが、エンダー様が黄金の林檎を捧げてまで求められた以上応えるしかない。祝福されたアースガードの地に贈る供犠として、我が国にこれ以上の宝はない』と述べ、決定したようだ。

 ……俺はオズリックとの会話を思い出していた。

 アイツ黄金林檎がどうとか言ってたが、アレは修辞レトリックなのか事実の指摘なのか判別付かなかったんだよな。

「黄金の林檎を捧げるって、もしかして深い意味があるのか?」

 モジュローは非常に言いにくそうだ。

「……黄金林檎は人間領域では多くの慣用句に使われてますが……『黄金の林檎を捧げます』は男性が女性に言う……愛の告白です」

 マジかよ……俺はロリコンじゃない……。

「まぁまぁ、あの一件は民衆には好意的に捉えられているから……それに小さい子にとっては、帝国の宮廷にいるよりはこっちの方が安全でしょ」

 ゲンマは慰めるように言ってくれたが、俺の受けた心理的ダメージは小さくなかった。



 彼女は寄宿学校の要人向けの寮の最上階に側仕えと共に住まうことになった。

 その生活資金は持参金として既に受け取っているようだ。

 とは言っても、学校に関しては他の生徒と同様に扱う旨に、側仕えは若干の難色を示したが、当の本人が前向きに受け入れているので何とか了承してくれた。

「一日も早くご領主のお役に立てるよう学びと鍛錬を始めたくありまする」

 お、おう……まだ小さい子供なんだから、ゆるく取り組んで欲しいのだが。

 モジュロー、頼まれてくれるか?

「勿論です。この私がヴェールと同様に責任を持って立派な淑女に教育してみせましょう」

 モジュローは胸を張っていつもの得意げなドヤ顔で言っている。

 いや、普通に子守してくれればいいんだけどな。

 お前、子供受けいいみたいだし。

 ヴェールは妹が出来たみたいで嬉しそうだ。

「よろしくお願いしますね!アン姫様!」

「こちらこそお願い申すあげまする、ヴェール姫」

 アンは返事をしつつも、彼女の揺れる尻尾が気になって仕方ないようで、頭が揺れている。



 夜、一人で寝台に横たわると、一日の疲れがどっと押し寄せる。

 ここの所、公式行事や領主としての仕事ばかりで、取れない疲れがシコリのように体に蓄積しているのを感じる。

 そろそろ、執筆活動に入りたい……とは思うものの、この自治区はこれからもイベントが続き、まとまった時間を取るのは難しそうだ。

 こういう時は嫌な考えがどうしても頭に思い浮かぶ……。


 ――『お前は……誰だ……?』


 ディレイの最後の言葉はまだ俺の胸に突き刺さっている。

 俺は神無月了でもエンダー・ル・フィンでもない。

 じゃあ、誰なんだ?

 いつから俺は“俺”になったんだ?


 ――『君は神無月了だろう。ミステリ作家の』


 お館様との邂逅を思い起こす。

 いつから俺はお館様の使徒だったんだろうか?

 この世界に来た時からか?それとももっと前からなのか?


 ――『……君がそう言うのか!…………君が!私に!』


 ……わからない……わからない……わからない……

 考えるほど、自分が深い闇に落ちていく感覚に絡め取られて、思考の迷路に閉じ込められる。


 ……こわい。


 俺は暗闇に一人取り残されていた。

 この宇宙は巨大な虚無ボイドだった。

 過去も未来も因果もエントロピーも、全てが見せかけの偽りの世界だ。

 どこかに保存された情報を洞窟の壁に投影しているだけの虚しい影絵芝居の世界。

 そんな世界観が頭にこびりついて離れない。


「……寂しい」


 俺が不意に言葉を呟くと何か暖かい物に包まれた。



 俺は岡山県の実家にいた。

 あれは母が再婚して数年後の事だった。

 その日、学校から帰ってくると家には誰もいなかった。

 帰り道で、普段は適当に聞き流していた近所のいじわるなおばさんの嘲笑に、その日に限って深く傷ついてしまった。

 俺は縁側で止まらない涙を拭う事すら出来ずに籐椅子の上で膝を抱えていた。

 誰もいない家の静寂すら槍のように子供の俺に突き刺さった。

「了ちゃん……?」

 買い物から帰ってきた母は驚いた様子で俺を見た。

「どこか痛いの?どうしたの?」

 俺は母の問いかけに上手く応えることができなかった。

「さ……さび……し……い……」

 なんとかそれだけ言うと母は何も言わずに抱きしめてくれた。

「かあさん……」

 母は古風な人だった。優しいがそれ以上に厳しく、束縛や強制はしないが、子供に要求する水準は決して低くなかった。

 当時を思い返しても、連れ子の立場で、どう家族と接していいか悩んでいた期間はとても長かった。

「もっと家族に甘えてもいいのよ、了ちゃん……お養父さんも心配してるんだから」

 俺は泣きじゃくるしかなかった。



 目を覚ますと、暖かい温もりに包まれているのに気がついた。

 身を起こすとサリシスが俺を抱えたまま眠っていたようだ。

 一体、何度、俺はこの娘に救われているのだろうか。

 彼女の頬に手を添える。

 たとえ俺が何者でも――神無月了の記憶を持つ怪物だとしても、彼女だけは守らなければならない、そう決意を新たにした。

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