第6章 冒険者の条件

■a008――カレイドスコープ(1)

 ここはよく晴れた朝の龍王国アースガード自治区。

 その隣にある農業試験場の六角形の城壁。

 最近この世界にやってきた地球の少年トオルは、そこがお気に入りの場所だ。

 彼はインベントリから一本の筒を取り出し、空に向かって覗き込み、くるくる回した。

 この地で子供達の教師を務める大魔導師モジュローが、帝国の市場で買い求めた土産の万華鏡は、少年にとってかけがえのない宝物になった。

 空に向かって覗き込んで筒を回転させると、美しい幾何学模様が変化する様は不可思議で、魔法も電気もないのにどうしてこんな仕組みが作り出せるのかと、疑問を口にすると、彼の未来の兄であるデンが構造を説明してくれた上、作り方まで教えてくれた。

 自分で作った万華鏡を大人たちに見せると皆が感心して、年少の子供達に作り方を教えてあげるよう勧められる。

 最近この自治区には子供のための寄宿学校が作られ、龍王国各地の施設から優秀な孤児たちが送り込まれ、共同生活をしていた。

 トオルは立場上、孤児たちの面倒を見る機会が多く、彼は兄貴分として慕わている。

 日頃、優秀な姉に頭を押さえつけられがちな少年は、年少者に頼られることで多くの経験を得て日々成長を重ねる。

 彼は万華鏡をインベントリに戻して、代わりに一冊のノートを取り出す。

 この自治区の領主の影響で、彼も日記をつけている。

 その内容は異世界と地球の違い、ダンジョンや魔法の驚異、それと友に対する感謝の念が多く綴られていた。

 この日記は彼の成長と共に冊数を重ねて、叡智の図書館にも収められている。

 昨夜書きそびれた日記を書き終え、インベントリに戻すと、誰かが階段を駆け上がる気配を感じた。

「トオルくん!そろそろ、収穫の手伝いに行かないとジュンさんに怒られるよ!」

 親友のセツの呼びかけに彼はハッとする。

「いっけねー!今行く!」

 二人は勢いよく城壁の階段を降りていった。


 この宇宙は万華鏡のようにイデアの光に照らされた様々な断片が目まぐるしく動き回って一つの像を作っている見せかけの世界だ。


 その断片の一つ一つに注目してみよう。


 ・・――◆◇◆――・・


 ここは自治区の中枢、叡智の使徒たちが住まう屋敷の地下。

 様々な結界が張り巡らされた、この空間ではいかなる間諜も探りをいれることは出来ないだろう。

「現状どうでしょう?クリアできそうですか?」

 この自治区のブレイン筆頭といっても過言ではないデンは目の前の大男に尋ねた。

 推理と地道な調査でダンジョンの謎を解き明かしたレアクラスの持ち主の天才少年はダンジョンに管理人として認められ、その能力はレベルアップと共に高められ、今では内部を自在に操作できるまでに成長していた。

「無理」

 見るからに百戦錬磨の猛者といった男・ドラゴノイドの剣豪クロードは即答した。

「もうちょっと何かないですかね?詳細を詰めたいので……」

「詳細もクソもあるかよ。八十階はまだいいとしても、その後の八十一階はなんだよ。格子柄の床の部屋で踏むブロックを一つ間違えただけで、転移罠がレベルドレインと状態異常付与しつつ連鎖して、最後に上から鉄のゴレムが降って来て圧死とか……ロータスが気を利かせて使い魔を先行させてなかったらマジで死んでたぞ」

「アイワナ系じゃ普通ですけどね。それに、その程度じゃ死なないでしょう?冒険者ギルド幹部なら」

「いやいやいやいやいや、大体なんだよ、その“あいわな”って!」

 この世界では常識離れの強さを持ちながら、冒険者の指導者メンターとして名高い名士の彼は思わずツッコミを入れる。

「というか、このダンジョン、百階層まであるんだよな?八十階でこれなら九十階はどうなってるんだよ……」

「そりゃあ、もう正にそこからが“本番”って感じで……」

「いい加減にしろよ、おい!」

 少年は剣豪の抗議の怒号に涼しい顔で片眉を上げた。

「絶対クリア出来ないように、という依頼だった筈ですが……?」

「あー、そうだったな……あまりに悪辣だったんでつい、な。ともかく現状このダンジョンは命がいくつあってもクリアは無理だ」

 少年は顎に手を当てて思案する。

「じゃあ、命がいくつくらいあればクリア出来ますか?」

「はぁー?」

 クロードは人外を見るような目で少年を見た。

 日頃、少年の婚約者が度々、その非常識な言動を“ゲーム脳”と評しているが、その言葉の意味がなんとなく理解できたようだ。

「私はこの世界のスキルや加護について詳しくありません。もしかしたら死んでもその場で復活出来る者や、時間を巻き戻して死ぬ直前に戻れる能力者がいるかもしれません」

「少なくとも俺は聞いたことがないぞ……」

「そういう能力者がいたとしても、まず他人に打ち明けないでしょう。私なら寿命で死ぬまで秘密にします」

「いや、ちょっと待て。そこまで考えなくていい」

 クロードは必死に頭痛を堪えながら思考を纏めた。

「ギルドの意向としては、最下層の“アレ”を隠せばいいだけなんだ」

「その事なんですが……一つアイデアがあります」

「なんだ?」

「最下層が他の階層より縦に長いんです。あそこの中間に床を増設すれば誤魔化せないか、と」

「ほう。最下層を上げ底で偽装すると?」

「そうです。調べた所、最下層の床まで通るルートが無いのはシステム上ダメですが、人間が通れる空間は無くてもいいみたいです。空気穴程度の隙間を開けて上に適当なオブジェを置いとけば問題はないです」

「そんなんでいいのかよ……まぁ、あんなの一般公開出来ないし仕方ないか……そもそも、あの結界は並の冒険者には解けないだろうし……ましてや死なずにクリアは無理だろう……」

 デンは首を横に振って諭すように言った。

「こういうセキュリティ対策は必ず突破される、という前提を常に持たないといけないんです。人間の持つ可能性を甘く見たら痛い目にあいますよ」

「それにしたって、あの鬼畜難易度は無いだろ……」

 世界でも最高ランクの冒険者の一人であるクロードの心に“ゲーム脳”が与えたトラウマは思いの外深そうだ。


 ・・――◆◇◆――・・


 私は視線を辺境から遠く離れた王都の裏通りに向ける。

 そこに赤毛の女性が一人歩いていた。

 王都の裏通りはそれ程治安は良くない。

 彼女は自分の跡を付けている複数の存在を感知して薄ら笑みを浮かべる。

 区画整理の対象に選ばれた古い建物に囲まれた空間は、大都市の喧騒が遥か遠くに感じる。

 彼女がそこに入り込んだと同時に背後と行き手を黒ずくめの男三人が立ち塞がる。

 古代遺跡のような壁に囲まれた空間の陽の光が遮られた暗がりではお互いの表情はうかがい知れない。

「王都中央第三通りのパティアだな?痛い目に合いたくなかったら黙ってついてこい」

 男はキラリと光る短刀を出して言い放った。

「あらあら、どちら様でしょうか?プロの方ですか?」

 彼女は小首を傾げて微笑んだ。

「黙ってついてくればいい。生死は問わないと言われているからな」

「助けを呼んでも無駄だぞ。この辺じゃ、どれほど大声出しても誰にも聞かれねぇからな!へっへっへ……」

 男たちは下衆な笑いを浮かべた。

「ふーん……あなた達、一流ではありませんね?」

「なんだと!」

 男達はいきり立った。

「攫うなら攫う。殺すなら殺す。そんな基本的な事は対象に接触する前にきちんと決めておくべきです。大方、私を甘く見ているのでしょうけど、それは一流の仕事とは程遠いですよ」

「ほざけ!」

 男は激昂して彼女に殴りかかった。

 彼女は最小限の動きで拳を回避し、右手を暴漢の腕を撫でるように軽く払った。

 一瞬の沈黙の後、地面に肉塊がボトリと落ち、悲鳴が路地裏に響き渡る。

「ぎゃああぁああぁぁぁぁ!イテェェェ!」

 殴りかかった男は血まみれの腕を抱えて転げ回った。

 男の腕は肉がこそげ落ちて白い骨が見えている。

「あらあらあら、あなた達プロじゃないんですか?この程度の苦痛で悲鳴を上げるなんて、訓練不足もいい所ですよ?」

 彼らは自分たちが対峙している者が予想と違うことに気がついたようだが、手遅れのように見える。

「魔法か?!バカな!!都市内では使えない筈だ!!」

 男は激しく動揺し、短刀を構え直した。

「それは認識が甘いですね。確かにシステムが提供するエンチャントは人を死に至らしめる危険なものは都市内では使用制限があります。しかし、マギアと加護がもたらすスキルはその限りではありませんよ。それに……」

 彼女は這いつくばっている男に向かって左右に素早く手を振った。

「ひぎゃああぁぁぁぁ!!!」

 男の体から血しぶきが上がり、波打った断面の鋭く硬い得物で大きくえぐり取られたような肉片が辺りに飛び散った。

「私はあなた達に死んで欲しくはないんですよ?だって死んでしまったらお話しが出来ないでしょ?」

 彼女はスカートを捲り上げて太ももに着けているホルダーから小銃を取り出し、背後の男に向けて撃った。


 ――パンッ!!


 小銃からクラッカーのような紙吹雪が飛び散り、男は打ち込まれた電極の電気ショックで声も出せずに倒れた。

 彼女は正面の剣を構えている男から目線を逸らさずに言った。

「さぁ、“お話し”しましょうか?あなたが知っていることを全てね」


 男達の悲鳴が途切れ、裏通りに再び静寂が戻った頃、足音が近づいてくる。

 足音が止まり、暗がりから低い声が響く。

「後片付けする身にもなって欲しいもんです」

「それがお仕事でしょう?オクルスさん」

 黒い巻き毛の男は周囲を見渡し溜息をついた。

「せっかくカタギに戻ったというのに……こちらに帰ってくる事はないでしょうに……それで、コイツらは何なんですか?」

「ただの雇われたゴロツキです。最近印刷業を始めた官僚崩れが焦って道を踏み外したって所です。控えめに言ってハズレですね」

「無茶はやめてくださいよ。アタリだったら一人じゃ対処できないでしょうに」

「あら、お優しいですわね。上司だった頃はもっと扱いがぞんざいでしたよ」

「かつての部下が今や重要護衛対象ですからね。出版業での大事な稼ぎ頭で……それとあなたには近く大きな仕事が任される予定なんで荒事は控えて欲しいもんです」

「あらまぁ!どんなお仕事ですの?」

「なんでも、教育に関する仕事と聞いてます。今自治区に将来有望な子供を大勢集めているんで」

「うふふ。子供は大好きですわ……それは楽しみね」

「大丈夫ですかね……ああ、それと返り血は自分で消してってくださいよ」

 オクルスから発生した分体が死体を片付ける傍ら、パティアは上機嫌で清浄の魔法で身を清めた。

 小一時間もすると惨劇の痕跡は消え去り、裏通りは元の静寂を完全に取り戻した。


 ・・――◆◇◆――・・


 ここはカタリ一族本家の館。

 王都の一級地に構える大邸宅は市民の羨望と妬みを一身に集める程の豪邸だったが、ここ最近の改革の嵐による暗雲はその上空に重くのしかかっていた。

 かつては使用人と来客で賑やかだったこの屋敷に、今は訪れるものはおらず、使用人の数は最盛期の半分にまで減っている。

 一族の長ケレベルは自室で頭を抱えていた。

「どうしてこんなことに……」

 彼は一ヶ月前にこの部屋で起こったことを思い返しているのだろう。


 ・・・――◇――・・・


「ガーラ様は何を考えているのか!!官僚を皆殺しにするつもりなのか!?」

 現当主の激昂を次期当主である長男エブネオスは冷めた目で見ていた。

「『龍族の深慮遠謀は人間には伺い知る事はできない』父上が日頃仰っている事ではないですか」

「だからと言ってこんな暴挙!まかり通るものか!!」

 最近発布された官僚制度改革は王都の検閲部を狙い撃ちにしたかのような厳しい内容だった。

「事実上、地方に転属するか龍族の操り人形になるかの二択ではないか!」

「死ねと言われるよりはマシでしょう。それに嫌なら官僚を辞めればいい事です」

 実際、多くの官僚は辞職を表明している。

「それは死ねと言われているに等しいではないか!我が一族の繁栄は王都の大官僚という後ろ盾あってのもの。それを失っては元も子もない!」

「だったら、選択肢は一つしかないでしょう」

 現当主は息子の顔をまじまじと見つめた。

「……お前は何を言っているんだ……」

「父上が日頃仰っている通りです『自分が官僚であることを誇りに思え』と。私は眷属化を受け入れるつもりです」

 彼は絶句して息子を見つめた。

 自慢の息子で優秀な跡取りとして育て上げたつもりだった。

 しかし、そこにいたのは、中身の無い、人の形をした“空虚”だった。

「私は自分が官僚であること以外は考えられません。それしか道は無いのなら受け入れるだけです」

 ケレベルは昔からカタリ一族のライバルであるニヒル一族を嘲笑しつづけていた。

 龍族の奴隷と陰口を叩いていたニヒル前族長が引退して辺境に引っ越しと聞いた時は、秘蔵の葡萄酒を開けて祝杯をあげるほど喜んだ男だ。

 それなのに、よりにもよって、自分が育てた長男が、ニヒル一族以上に官僚らしい人間になっていたことに愕然としている。

「お前は……お前は、私をどうするつもりなのか……」

 エブネオスは無表情のまま淡々と語った。

「それをお決めになるのはガーラ様です。私ではありません」

 彼の目は何処までも虚ろで何も見てはいなかった。


 長男は次の日、家族を連れて豪邸を出て官僚宿舎に引っ越した。


 ケレベルが眷属化を受け入れれば、これまで蓄積した全ての罪が龍族に明らかになり、その償いの為に強い制約を課せられることは確実だろう。


 彼はずっと今後の進退を決めかねて悩んでいる。


 ・・――◆◇◆――・・


 大陸の西の沿岸部、豊かな土壌と旧支配者の遺物である大きな港、領土を横断する深く大きな川と、恵まれた地形で長い繁栄を築いたベース帝国。


 その帝都の宮殿の一室でも家族の諍いは起きていた。


「いやーフィン王国の問題が落ち着いて良かったですねー、父上!」

 長男で帝位継承者第一位のリチャードは王族のお茶会の席で能天気に言い放った。

「そうだな……」

 彼の父親でありこの国の帝王であるスティーブは不安を感じつつ無難な受け答えをした。

「懸念していた落武者や難民もほとんど発生しませんでしたし!龍族との関係も結果強化できたし!アースガードとの通商条約も予定通り締結しそうだし!いい事尽くめですなぁ!」

「……」

 笑顔満面のリチャードとは対照的に弟のヘンリーは脛に傷を持つ身としてビクビクしている。

「でもね!ここは駄目押しが必要だと思うんです!」

「何が言いたい?」

 スティーブは、機知に富みすぎた息子を持て余しているようだ。

 ヘンリーは内心冷や汗をかきつつ平静を装いお茶を口にした。

「帝国からもアースガードに対して供犠を差し出すべきだと思うんですよ!フィン王国の代理王ジェームズ殿は跡取りの息子を二人とも差し出したと聞きましたよ!我々もこれに倣うべきじゃないかなぁ〜?」

 ヘンリーは口に含んでいた茶を全て吹き出した。

「っ!!げほっ!げほっ!!な……何を言い出すんですか!兄上!?」

「あっはっはっはっ!我が親愛なる弟君の大好きな政治の話だよ!格下の新生フィン王国は掛け替えのないモノを供犠に差し出したんだ。彼らの繁栄は最早約束されたものだろうねー?じゃあ、我らはどうする?人間世界の覇者である帝国はそれ以下の物を差し出せない、そうだろう?」

「まぁ!お兄様!素晴らしいお考えですわ!」

 妹のジェーンはすかさず賛意を表明した。話がどう転んでも自分に損はないと判断したのだろう。

 ヘンリーは青ざめた顔で口をパクパクしている。

 彼の頭の中の歯車が空回りする音がここまで聞こえてきそうだ。

「……はぁー……其方、何を考えている?」

 スティーブはため息交じりに息子に問う。

「だって、どう見てもあっちの方が勝ち組で面白そうだしぃー?……それはともかく本当にどうなさるんで?おかしなものを差し出したら周辺諸国に笑われますよ?」

 帝王は息子のニヤニヤ顔を見て苦虫を噛み潰したような表情で返答する。

「それについては既に考えている……其方たちは絶対に動くな。ちょっとでも怪しい動きを見せたら叛意有りとして処罰する」

 帝王は子供達を睨みつけた。

「お厳しい事で」

 話の発端を開いたリチャードはすました顔で優雅にお茶を嗜んだ。


 ・・――◆◇◆――・・


 私は視線を王都に戻す。

 ここはサメイション商会の王都支店。

 エルス共和国の由緒ある豪商の娘サメイション・ローラが采配するこの店は質の高いポーションや珍しい甘味が評判を呼び、大変繁盛していた。

 エルス族の血を引く娘イノはここで売り子として働いている。

 故郷の縁故による階級社会で辛酸を舐め、一時は奴隷として野蛮な人間領域に売り飛ばされそうになった彼女。

 私のシモベでもある龍王国の王弟の情けに救われ、彼の眷属として受け入れられて、紆余曲折の末、その身にかかっていた不条理な呪いからも解放される。

 見る者を魅了して狂わせて破滅に誘う凶悪な呪いも無くなった今、彼女は普通の愛らしい少女となり、店の看板娘として自分の居場所をようやく見つけたかと思われたが……。

「困りますぅー、パシオ様……」

「頼む!僕と結婚してくれ!君じゃないとダメなんだ!!」

 この男は大官僚ポンス家の長男でカタリ家の長女イーリスの元婚約者だった。

 ポンス家の崩壊と官僚制度改革で完全に没落した状態で人格の荒廃は目に見えて明らかだ。

 憔悴した顔とホームレスのような風体で王都でも評判の伊達男だった頃の面影はない。

「先日、お店の方には来ないでねって言った筈ですよ。奉公期間が終わった以上あなたとは無関係ですぅ。いい加減にしてほしいですぅ!」

「そんなひどいっ!こんなに愛しているのに!こんなに、苦しいのに!助けてくれ!君が……側にいてくれればそれでいいんだ!!頼む……他には何もいらない……富も権力も……!!君の愛だけが欲しいんだ!!」

「そんなの知りませんっ!!勝手ですぅ!!」

 イノは纏わりつくパシオを突き飛ばした。

「大体、私は、ゲンマ様の眷属なんですぅ!他の方と結ばれるなんてありえないです!!!」

 彼は信じられないという顔でイノの顔を見つめた。

「そんな……ありえないなんて……愛の力で……こう……」

「だ、か、ら!!私の愛はゲンマ様に捧げているんです!!それ以外の方と結ばれるなんて、未来永劫ありえませんってば!!」

「みらい……えいごう……」

 パシオの頬に一筋の涙が伝う。

 彼は無言で立ち上がり、店を立ち去る。

 あてもなく王都を彷徨う彼はブツブツと呟き続ける。

「この世界は……残酷……愛の無い世界……間違っている……」

 愛の何たるかを知らない人間が愛を定義しようとしても、身の毛もよだつ悍ましい代物しか生み出さないのだ。

 イノの災難はまだ続くようだ。


 ・・――◆◇◆――・・


 私はアースガード自治区に再び目を向ける。

 トオルは仲間たちと昼食を食べながら、午後の予定について話している。

 魔法の修行をするかダンジョンでレベリングするか言い合いしている所にジョイスがアップルパイの試食を差し入れをして、相談は中断される。

 ここに来た当時は無口で引っ込み思案だったヴェールも今では仲間と打ち解けて、パイの奪い合いに参加している。

 そのバラ色の頬の少女にはかつての痩せこけた幽鬼のような毒使いの面影はない。


 私の道化が治めるこの箱庭は平穏そのものだ。

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