■a007――ある役人
龍王国が建立して間もない頃、ある有能な役人がいた。
人々はその優れた才能を褒め称えた。
彼には名前があった筈だが、その名前は知られていない。
彼は一つの信条を持っていた。
「役人に名前など必要ない。我々は国家運営システムの一部品に過ぎない。たとえ宰相であっても、国家に奉仕するものは
人々はいつしか、彼のことを
■
「は?婚約を破棄する?」
僕は突然通告された婚約破棄に戸惑うことしかできなかった。
ニヒル一族現当主の三男として、それなりの教育は受けてきたが、こんな事態に対処する術の教えを受けた憶えはない。
「そう、もう決まったの。既に両家の合意は取れてるわ」
優雅に茶を飲む元婚約者、イーリスは僕を見下す視線で宣告する。
「……急すぎないか?」
「でも予感はあったでしょ。合わなかったのよ私たち」
思い返せば婚約して以降、主導権を握れたことは一度もなかった。
今後の人生について、不安を通り越して憂鬱ですらあったが、こういう形でしっぺ返しされるのは只々不愉快だ。
「最初から無理があったのよ、ニヒルとカタリが手を取り合って生きていくなんて。生き方がまるで正反対ですもの」
僕は上級官僚になったばかりで、社会人になってまだ日が浅い。
それなりに将来を期待されている身ではあるが、王都の富をかき集めた贅沢に浸りきった我儘な令嬢の興味を持続させることは土台無理な話だった。
彼女はその後、同じカタリ一族である、裕福なポンス家の子息と婚約する。
上流階級のカタリ派閥のまとめ役として権益を欲しいままにしている彼らは一体どれだけのキャッシュを積んだのだろうか。
ニヒルとカタリの長たちの昔の思惑で幼い頃に決められた縁は、今の思惑によって塗りつぶされたようだ。
□
「聞いたぜ。フラれたんだってな。ぷぷっ!」
「あんな高慢な女辞めといて正解だろ。縁が切れてよかったじゃないか、あーはっはっは」
「ま、おまえじゃー、お嬢様のお相手は無理だろーなー」
僕はしばらくの間、生暖かい同情と憐憫、それに嘲笑の目に晒される事になった。
周囲の下世話な好奇心が収まるまで、僕のプライドは傷つき続けた。
■
龍王国が建立して間もない頃、有能な役人がもう一人いた。
それがカタリ。
カタリ一族の始祖だ。
彼にも信条があった。社会には階層が必要だと。
上位の階層に優れた
彼の選民思想そのものは良心から生まれたものであった。
ニヒルとカタリの二人は時に協力し、時に対立し、切磋琢磨して誕生間もない龍王国を盛り上げた。
相容れない事が多くても、その理想自体には、互いに敬意を持って接していた。
だが、長い年月が流れ、二人の理想は忘れられ、役人としての両家の役割は終わりを迎えようとしていた。
■
冬の季節が訪れ、僕は不思議な人物の噂を聞く。
友人龍ゲンマ様の新しいお気に入りで、人間領域の王子で、魔剣を携えた美男子であるという。
彼は王都の大通りに面したテナントで、よくわからない事業を起こしている。
そしてそれは王族の肝いりだと事情通たちに囁かれている。
僕はある日、偶然、遠目から噂の麗人を目にする。
行きつけのパン屋は彼のテナントの向かいにあって、僕は屋外に設置してあるテーブル席で軽食を食べていた。
流れるような艶やかな長い黒髪に鮮やかな青い瞳。
確かに評判になるのも頷ける美丈夫であったが、僕はその傍にいた女性の方に興味を惹かれる。
少女といってもいい年頃の彼女は決して美人ではなかった。
そんな彼女が龍族や麗人と懇意にしている事に妬みを露わにする女性も少なくなかったが、彼女が英雄の娘で、才能ある治療師だという情報が広まると、その妬みは陰に潜むようになった。
端から見ていると普通の仲睦まじい恋人のような二人だ。
麗人はまるで父親のように無邪気に微笑む少女の話に耳を傾けている。
ここで、ふいに通知が来て観察は中断された。
数秒の間ステータス画面に集中した後に、彼らに目を戻して僕はハッとした。
彼女がさっきより輝いて見えたのだ。
その時、気が付いた、彼女は一秒毎に美しく成長していると。
あの麗人はそれを見守ることを無上の楽しみとしているのだ。
僕はなんだが、彼をひどく羨ましく感じた。
■
検閲部の仕事は退屈極まりない。
指定の語句が含まれた通知や文書をシステムが検知すると、端末に送られてくるので、書いた人物のパラメータと中身を確認した上で条件を満たしていたら削除する。
たまに訳のわからない文字列が検知に引っかかるが、こちらでは判断出来ないので専門の部署に転送する、それだけだ。
検閲の仕事の有用性について考えたことは何度もあるが、結局、何でこの仕事をしているのか分からなくなるだけなので、普段は考えないようにしていた。
――『官僚は日々考えない訓練を受けている』
祖父が時折皮肉交じりに言う言葉だ。
でも加えてこのようにも言う。
――『だが、それでは抜きん出ることはできない。考えることを完全に止めてはいけないぞ』
……祖父は僅かな情報からでも驚くほど正確に物事を読み取ることができる。
官僚の仕事をこなしながらどうやってそんな思考力を維持しているのか。
僕には見当もつかなかった。
■
別のある日、勇気を出してテナントに足を踏み入れてみたこともある。
もっとも、飲み物を頼んでボーッとしているだけだったが。
休憩所ではなにやら白熱した議論が行われていた。
「検閲があるから、我々の生活に規律が保たれているのではないか?」
「いや、それでも、官僚が個人の公開していない文書や他人に当てた個人的な通知にまで干渉するのはおかしい事だ。これが社会にどんな影響を与えるというのだ?」
「検閲のせいで、恋文一つ送るにも紙代や転送代に余計なコストと手間を掛けなければならないのは明らかに間違っているだろう」
「そうだ、一度全ての検閲を止めてみれば良い。賭けても良いが何もおこらないぞ!」
「全くだ。官僚が俺たちが払った税金を巻き上げる口実としか思えない。市民をバカにするな!」
……自分がここにいる事が場違いに思えた。
結局、売店で当たり障りのないアイテムを買って外に出た。
帰り際、治療師の彼女とすれ違った時、イーリスが欲しがっていたが、高価すぎて手に入れられなかった香水の匂いがしたような気がした。
■
人生の転機は唐突に降ってくる。
僕は祖父に呼び出されて、大屋敷の書斎で彼の正面に座っている。
家督を父に譲ってからも、ニヒル派の官僚として精力的に活動している祖父は、僕が一番尊敬している人物だ。
「元気にしていたか?坊よ」
祖父はニヒル一族である事に誇りを持っている。
彼が家庭の中であっても家族を名前で呼ぶことはなかった。
「はい、おかげさまで元気です……今日はどういったご用件ですか?」
「私は官僚を引退して、隠居することにした」
僕は驚いた。
祖父は生まれてから死ぬまでずっと官僚として生きると、僕を含めて皆が思っていたからだ。
家族に対して常に「自分が役人であることを忘れるな」と念押ししてきた人物だ。
「どうしたんですか?一体?どうして?」
僕が慌てて疑問を並べ立てると、祖父はため息をついた。
「わからぬのか?官僚に対して吹いている逆風を。この風がどこから吹いているか、少し考えれば分かるものを……」
「……すみません……僕には分かりません」
「ガーラ様は大変お怒りになっている。カタリのバカどもにも、それを諌められぬニヒルの弱腰にも、我々官僚はこの国に見捨てられつつあるのだ」
その言葉を聞いても、僕にはピンとこなかった。
この国は実質、官僚によって運営されている。
龍族がどれほど強大な力を持っていても、人の世界は人にしか理解できない筈だ。
「この国の問題は検閲部が力を持ちすぎていることに端を発している。ガーラ様は我々の手で自浄することを望まれたが、結局官僚たちは増長しただけだった。もはや、解体は逃れられないだろう」
「……そんな」
自分の勤め先が近い将来無くなると聞き、僕の目の前は真っ暗になった。
「私はこれから隠居した後、辺境のプリムム村に行こうと思う」
祖父の口から更に予想しない言葉が飛び出てきた。
「ええ?なんでまた辺境なんかに!」
あそこはこれから戦地になるという話だ。
そんな危険な場所に何故?
「情報に目を光らせていれば、龍族がそこに強い意識を向けていることは明らかだ。あそこには何かある」
祖父の目は鷹のように鋭く光った。
「極秘情報でも掴んだんですか?」
「いや。最近、龍族の情報機密のレベルが急に上がった。だが、逆に言うとそれだけ重要な事態が進行しているともいえる」
祖父を目を閉じて上を向き、何かに思いを馳せていた。
「我々は官僚として身を粉にして働く一方で、立場を利用して多すぎる富をかき集めた……この罪は償わなければならない……その為にも私は官僚を辞める」
彼は目を開き、僕を見つめた。
「坊、私についてこないか?」
「え……?」
その提案はあまりにも突拍子もなく突きつけられて、僕の頭の中は真っ白になった。
「本当の
「仕事なら毎日してますが……?」
「違う。与えられた作業を消化するのはただの労働だ。仕事の本質は博打だ。不確かな情報に基づき人生を賭けた意思決定を下すこそ本当の仕事といえる。私がこれからするのは完全な賭けであり、本物の仕事だ」
僕は祖父の言葉とその存在感に圧倒された。
「男として本物の仕事に人生を賭けるか、去勢された官僚として狭い枠を奪い合うか、選ぶがいい。坊よ」
■
僕はその提案を受ける事にした。
王都での生活は、元々居心地のいいモノではなかったが、ここ最近は悪くなる一方だった。
特に官僚にとっては、カタリ派程ではないにしても、常に大衆の厳しい目線に晒されていた。
その上、検閲部内の空気はギスギスしていて、内外からよく分からない嫌がらせを受けることが多くなっていた。
王都を離れることに未練はなかった。
□
祖父に結婚の約束をしている相手がいるなら、早めに話し合いを済ませた方がいいと言われ、僕は以前から気になっていた娘に求婚する事にした。
もっとも、イーリスにフラれてから、冴えない役人の僕に言い寄る良家の縁なんてある筈ない。
相手は下級官僚の下働きをしている事務員で王都の下町生まれの慎ましい娘だった。
ボサボサの青髪を二つに分けて無造作に束ね、分厚いレンズの眼鏡をかけた、おとなしい娘だった。
官僚のパーティーで人数合わせで連れてこられ、隅で食事をしている時に隣り合わせになり、何となく話しかけたのをキッカケに度々会うようになった。
常に何かに怯えているような気の弱い娘だったが、一緒にいると気が休まる感じがした。
彼女を呼び出した僕は、官僚を辞める事、辺境のプリムム村に行き、祖父と住む事を話した上で、思い切って彼女に求婚した。
彼女は驚き、長い間沈黙とともに考えた上で応えた。
「お受けしたいとは思います……でも、私の話を聞いてもらえますか?」
そうして、彼女は自分のおずおずと身の上を語り出した。
――私の父は下級官僚でした。
どこにでもいる普通の名もない役人、です。
でも父が死んで、母の手に遺族年金が渡った頃から、ウチはおかしくなりました。
まもなく上の姉も役人になり、数年間働き、下級官僚になった後に徐々に体調を崩して若くして亡くなりました。
姉は丈夫な、風邪もひいたこともない健康な人でしたのに……。
下の姉は結婚してすぐに家を出て、それからずっと音信不通でした。
私は母に役人になるように言われ、役所に勤めるようになり、それから執拗に官僚の試験を受けるように催促されるようになります。
そんなある日、下の姉から秘密の手紙を受け取り、そこに驚くことが書かれてました。
――姉は母に毒殺されたと。
そして、決して官僚試験を受けてはならない、できれば早く役人を辞めて家を出た方がいいと書かれてました。
それが真実かどうかはわかりません。
でも思い当たる節はあります。
母はおかしな結社に入れ込んで、そこに大金をつぎ込んでいるようなのです。
なんとかして家を出たいのですが、私のような取り柄のない凡庸な女が、役人以外の仕事で自立出来るとは思えません。
なので、この申し込みは私としては大変ありがたいものです……。
「この話を聞いてもまだ、私のような女を嫁に迎えてくださるのなら……」
「何を言っているんだ!そんな家、早く離れた方がいいに決まっている!」
最近、王都で流行している犯罪小説のような話で、信憑性に疑問を持つべきなのだろうが、彼女がその犠牲者となる可能性が頭によぎった途端、黙っていられなかった。
「条件があるのです」
「条件?」
「あなたが官僚を辞めることも、お爺様とプリムム村という辺境の地に行くことも構いません。でも、もしも、あなたがその地に嫌気がさして、王都に戻ることなっても……私は絶対に王都には戻りません」
彼女は普段の弱気な態度からは考えられない毅然とした態度で言った。
「私はその村に骨を埋めようと思います……それでも良いというのなら謹んでお受けいたします」
「良いに決まってるじゃないか、絶対に君を幸せにしてみせる」
僕がそういうと彼女は暗闇の小さな灯火のようにぎこちなく微笑んだ。
その様がたまらなく愛おしかった。
■
彼女を祖父に紹介すると「お前にしてはいい娘を嫁に選んだな」と珍しく褒められた。
両親はイーリスとの件で僕に負い目を感じていたのか、良いとも悪いとも言わず、ただ了承だけした。
もっとも、両親が望むような良家の子女が、祖父の無謀とも言える挑戦に付き合ってくれる訳もなく、諸々を妥協してくれたのだろう。
上級官僚の上の兄は両親共々無視を決め込んでいたが、官僚を辞めてから実家と疎遠になっている下の兄は、自分のことのように喜んで祝福してくれた。
最近新しく始めた事業が上手くいっているようで、高価な贈り物を沢山受け取った。
「カラス麦の粥を分け合ってくれる嫁なんて、そうそういるものじゃない。粗末にするんじゃないぞ!」
兄の力強い激励に二人して赤面したが、祝福してくれる身内が一人でもいて本当に助かった。
■
出発の日、見送りもなく僕らは王都を旅立った。
僕もかつての同僚たちには詳しい話はしていない。
おそらくみんなは王都で兄の仕事を手伝うと考えているだろう。
祖父と僕と妻、それに祖父に仕える数人の召使いだけの、隠居とはいえ大官僚の元家長とは思えないほど少人数だった。
転移門でスパピアに行き、そこから列車でセプテントリオに行き着く。
そこで戦争が終わるのを待ち、決着がつき次第、プリムム村に旅立つ予定だ。
「でも、危険ではないですか?……もし戦争に負けたら……」
僕は不安をそのまま口にした。
「龍族が負けるはずがない」
祖父は力強く迷い無く言い切った。
「そもそも、負けたとしたら、もう人間にとって安全な地はどこにもない。王都にいようが辺境にいようが同じことだ」
それを聞いた僕は、人間がどれほど弱い存在であるか、今までまったく考えてなかったことに気がついた。
官僚として深く考えないことを随分と訓練してきたが、これからは考えなくてはならないことが膨大に出てくるだろう。
「ただ、待っているだけでは済まないぞ。しなければならない準備や集めなければならない情報が沢山ある。お前にも働いてもらうぞ、エドガルス」
今、僕は初めて祖父であるニヒル・セネカに名前を呼ばれた。
――もう役人ではないのだ。
自分が名前を持つ一人の人間であることを、初めて強く実感した。
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