■019――スピカ

 俺の名は神無月了。

 冴えない地方都市に住むイケてない中学二年生だ。

 学校では孤立しているまではいかないが特別親しい友達もなく、読書とサブカルチャーと勉強の合間に聞く深夜ラジオが生きがいの帰宅部の男子中学生だ。

 日々の日常はフィクションの“青春”なるものと比べると明らかに味気ないものだが、物心ついた頃から斜に構えた冷めた目付きが生意気だと狭量な大人に言われ続けた俺としては現実とはそういうものだという諦観があったので、ただただ将来の自立に必要な準備期間として割り切っていた。

 だが、そんなぬるい白湯に浸った日常は一人の女の子の登場で終わることになった。



「今日から、このクラスに転校してきました、星野スピカです。よろしくお願いします!」

 ある日、俺のクラスに美少女が転校してきた。

 水色のウェーブのかかった髪の笑顔が眩しい光属性の少女だった。

 フィクションだったらトースト咥えて「遅刻遅刻!」と言ってる彼女と衝突するイベントが発生するんだろうが、俺は満員バスを避けて早めの時間帯に自転車通学しているのでそんな事は起こり得ない。そもそもここは現実というクソゲーであって恋愛ゲームやラブコメ漫画ではないのだ。



「では、次の問三……星野!」

「はい!全然わかりません!」

 クラス内は爆笑に包まれる。

「元気がいいのは結構だが、これは一年の問題だぞ。ちゃんと復習しておけ」

「はい!」

 どうやら勉強はあまり得意ではないようだ。

 ただその分運動神経はよく、人数ギリギリの運動部から助っ人の要請をたまに受けているらしい。

 属性も学力も異なり、接点どころか住む世界が違う、と俺は認識していた。



「ねぇねぇ、なづっちゃーん。おねがーい!勉強教えてよー」

 なのに何故か彼女にとって転校してから初めての期末テストの二週間前に、碌に会話も交わしたことのない俺に休み時間、馴れ馴れしく至近距離で懇願してきた。

「なんでだよ……仲のいい友達がいるんだろ……?」

 俺は彼女の仲間内の罰ゲームではないかと警戒して断る方向で話を持って行こうとした。

「みんな予定入ってて忙しいんだよー。なづっちゃん帰宅部でしょ?ここで赤点とったら内申点マジでやばいの!おねがーい」

「……そんなの自業自得だろ……こっちだって忙しいんだぞ……」

 彼女の焦りを見るにこちらを引っ掛けようとする意図は薄く感じたが、俺に引き受けるメリットは無いように感じた。ここでチャンスと思うほどバカでは無い。

 すると、彼女は一転、狡猾な表情で顔を近づけ、耳元で予想だにしないことを囁いた。

「……教えてくれなかったら、なづっちゃんのラジオネームみんなにバラすよ?」

 この一言に俺は鷹に心臓を鷲掴みにされたくらい驚いた。

「いやー、あの優等生のなづっちゃんの脳内であんなえげつない下ネタが渦巻いているとは……人は見かけによりませんなぁ、くっくっくっ」

「や、やめろぉ――――!!」



「駅前のダムダムバーガーでなづっちゃんハガキ書いてたでしょ。あたし後ろからこっそり覗いたんだ」

「……くっそぉ」

 ハガキ職人としてのこだわりはあるが、そろそろメールに移行した方がいいのかもしれない。

 元々、試験前に特別勉強する方ではなかったが、それでも弟以外の人間に勉強を教えるのは初めてだったのでテストが終わったらヘトヘトだった。

 俺の教え方が良かったのかはわからないが、彼女は中の下の成績が取れてすごく喜んでいた。

 その後、お礼と称していろんな場所に誘われ、遊びに行った。

 映画を観に行ったり、モールのフードコートで他愛ない会話をしたり、カラオケに行ったり……あれ?

「これはもしや世間でいう“デート”というものではないか?」

「……今更ー?なづっちゃんフラグ管理ガバガバだよ」

「フラグとかいうなよ……」

 彼女はえへへ、と笑った。



 うちの学校は必ず部活に一つは入る決まりがあったのだが、彼女は意外なことに運動系ではなく天文部に入部した。

「えー?なんでって言われても、好きだからだよー。前の学校でもそうだったし」

 俺は剣道部に在籍はしているが、この学校の運動部の中でも活動がゆるいことで有名で、完全に幽霊部員状態でも存在を許されるほどだった。

「なづっちゃんも入らない?部活って言ってもしなきゃいけないことも特に無いしさ」

「……俺は勉強で忙しいんだよ」

 将来の大学進学に備えるため、高校の第一志望を高難関の進学校にしているので余裕があるわけでは無いのだ。

「別に勉強するなっていう訳じゃ無いよ。ただちょーっと人数が足りないんだよね。それになづっちゃんも息抜きは必要でしょ?」

「星野は少し息抜きを控えた方がいいぞ。高校どうすんだよ……」

「えっへっへっへ。なんとかなるっしょ」

 彼女の太陽みたいな満面の笑みを見ていると細かいことを心配する気持ちが消えていくのを感じる。

 可愛い女の子って本当に得してるよな、と思った。



「うわー、すっごく綺麗!」

 彼女は白い息を吐きながら大きな目を輝かせて今にも降り注ぎそうな星空を見つめた。

 幽霊部員でもいいなら、という条件を快く了承してくれた顧問に感謝しつつ、天文部に入部したが、なんだかんだいって定期的にイベントに参加を促されることになった。もっとも、最初に彼女が言ったように大した重労働はないユルい活動で、確かに勉強の息抜きにはちょうど良かった。今夜も顧問の立会いのもと校舎の屋上で流星群の観測に参加している。

「この辺りってすごく星空が綺麗だね!」

「田舎だからな」

「えー、前のところも田舎だったけど、近くにパチンコ屋さんが出来てから全然見えなくなったよー。だからこんなに綺麗な星を見るの、すごく久しぶり」

 そういうものか。最近は田舎=星が綺麗って訳でもないんだな。

「流星群まだかなー、楽しみだなー」

 俺はワクワクしながら空を見上げる彼女の横顔を見て本当に綺麗だな、と思った。



 テレビの朝のニュースで今年の漢字は『偽』に決まった事を知った。


 もうそんな時期になるのかと俺は感慨に更けた。

 時が経つのは早いものだ。

 楽しいことがある時は尚更に……。



「えっ……?嘘だろ……」

 彼女の部屋に初めて招かれた俺は予想外の事を打ち明けられる。

「嘘じゃ無いよ。年明けの……三年生になる前に引っ越すことが決まったって……」

「……なんで」

「仕方ないよ。お父さん転勤族だから。小さい時から、いっつもこう」

 普段の彼女からは考えられないくらい暗い表情で言った。

 引っ越し先は飛行機を使わないと行けない距離だった。

「友達ができて、環境に慣れて、ここが地元なんだなって実感ができても引っ越しで全部リセット。やってられないよ」

 思えば彼女が運動部に入らなかったのもそれが原因なのだろう。

 いくらやる気があっても、親がいつ転勤するのかわからないなら、部活にも勉強にも身が入るわけがないのだ。


 気まずい雰囲気の中、MP3プレーヤーから流れる音声合成の歌声だけが時間と空間を繋ぎ止めていた。

 やがてそれも途切れて静寂が辺りを支配する。


「……なづっちゃん……」

 彼女が目に涙を溜めて俺の胸に飛び込んでくる。

「いやだよ……こんなに好きなのに……離れたくないよう」

 しがみついてくる女の子の体の柔らかい感触に戸惑う。

「……俺だって嫌だよ」

 彼女は真剣な顔で俺の顔をじっと見つめて、顔を近づけて目を閉じた。

 俺はおずおずと彼女の後頭部に手を添わせて、恐る恐る唇を合わせた。

 世界中の時が止まった。

「スピカ……」

 俺は初めて彼女の名を呼び、そして、女の子と初めての時を過ごした。



「で、考えたんだけどさ……」

 帰り道に、俺は歩きながらずっと考えていた。

「ん?」

「俺は高校卒業したら京都の大学に行こうと考えてるんだ」

「……うん」

「だからさ、星野も高校卒業したら京都に来いよ」

「……なづっちゃん……あたしの頭じゃ無理だよ……」

「いや、同じ大学じゃなくってもいいだろ。短大でも専門学校でもさ、京都で一緒に暮らそうよ」

「え……」

「まぁ、星野が四年間我慢できたら、の話だけど……」

 俺は彼女のことが忘れられないし彼女以上に可愛い娘とこれから先、縁があるとはとても思えなかった。でも彼女程の美少女を周りの男たちが放っておくとはとても思えない。この非対称な顔面偏差値が遠距離恋愛では不安材料でしかなかった。

 彼女はため息をついていわゆるジト目で俺を見た。

「なづっちゃんさぁー頭の悪い子はみんな股が緩いとか思ってないー?」

 俺はこの身も蓋もない明け透けな一言に思いっきりむせた。

「大体なづっちゃんの方がちょろいから心配だよ。あたしは」

「俺の第一志望は男子校だぞ。浮いた話なんてねーよ!」

「どーだか。どーせ合コンとかでデレデレするんでしょ?」

「……俺がそんなリア充じゃないの知ってるだろ!」

「えっへへへ、それもそうだね。なづっちゃん非モテのオタクだもんね」

 いつもの笑顔がやっと戻ってきて俺は嬉しかった。


 先のことなんて誰にもわからない。


 俺が第一志望の高校にちゃんと合格するのか。

 彼女が四年間俺との恋を忘れずにいてくれるのか。

 あるいは俺が他に身近な娘を好きになるのかどうか。


 でもわからないから人生は面白いのかもしれない。

 ともかく、今は彼女が引っ越すまでの間、青春のひと時を楽しみたかった。


 それがたとえ残り一秒でも……。







 目が覚めて俺は呆然としていた。


 なんだ、この夢は……。


 誓って言うが、俺の中学生時代にスピカなんてキラキラネームの転校生なんていなかった。

 大体なんで水色の髪なんだよ、どう考えても校則違反だろ……アニメキャラじゃあるまいし。

 なにより恐ろしいのは夢があまりにも生々しかった事だ。

 俺の童貞卒業はもっと後だったが、実際の初体験があまりにも素っ気ないものだったので、ただでさえ薄い思い出が、今見た夢で上書きされそうなことに恐怖を感じる。


 冷や汗だか寝汗だかを洗い流そうと身を起こすと、誰かの感触に気がつき傍を見るとモジュローが寝ていた。

 俺が頬を指でつつくと、「ふへへ……もう食べられませんよ」と、気の抜けた寝言を締まらない表情で言う。

 なんだよ、こいつは。



 翌朝、ゲンブは用事があると言って街を案内できないことを詫びつつ何処かに出かけて行った。


「キャッシュに余裕があるのに、あんなに値切ることはないでしょうに」

「何言ってるんだ。これは商人相手への挨拶みたいなもんだ。キャッシュは惜しくないけどカモだと思われるのはムカつくからな」

 俺たちはゴトーの市場を散策していて掘り出し物を物色したり、テルさんと屋台で売られている軽食を試すたびにモジュローは複雑な表情を見せた。

「……あなたという人は、本当に自由に振る舞うのですね」

 俺はその発言を聞いて、また小言かよと身構えそうになったが、彼の様子からそうではない事に気がついた。

「どうした?元気ないな。この串焼きの魚、結構美味いぞ」

「……さっきから少し食べ過ぎですよ……「じゃあ、私が頂き……」あ、これは食べますから!」

 モジュローはテルさんに取られかけた串焼きを慌てて受け取って食べた。

 神獣も幻獣も食いしん坊だな。

「若様の体調管理も私の仕事ですからね!これは余分な栄養を控えていただくための調整なんですから!誤解しないでください!」

 串焼きを頬張りながら無理筋な謎理論を展開する様を見て自然に顔が緩む。

「モジュロー様?その理屈なら私が食べてもいいと言う事になりますよ?」

「ほ、本来なら私が先に毒味をする必要があります!もう、あなたたちは不用心に食べ過ぎです!」

「はいはい、じゃあ、次はあっちの焼き菓子にしようか。なんか今川焼きっぽいけど中に何が入ってるんだろうな?」

「ちょっと待ってください!まだ食べるんですか?!」

 ブツブツ言いながらもモジュローは中にジャムとクリームが入った焼き菓子を二つ食べた上に持ち帰り用の詰め合わせも買っていた。

 やはり甘いものが好きなようだ。


 ゴトーの街は全体的に、これまでのエルスの都市や村落に比べて穏やかでありながらも活気がある住みやすそうな都市だった。

 言われなければここが人間領域に近い辺境とは思わないだろう。

「いい街だな」

 俺は何とは無しに呟いた。

「ここを拠点としているフェサード師はエルス国内でも人望の厚い方ですから。彼を慕ってここに住んでいる者も少なくありません」

 なるほど支配者の人柄が都市の気質に反映されるのか……。

「あなたも少しは見習って下さい」

 ……俺はまだ神輿になる覚悟は固まってないんだがなぁ……。



 昼過ぎに宿に戻ったらゲンブはまだ出かけていて、俺はその後はずっと部屋で新作のアイデアを書き留めていた。

 久しぶりに自由な時間を得て夜になるまで夢中で書き物をして、気がついたら部屋のテーブルには簡単な夕食が置かれ、みんなは自室で眠っていた。


 俺は夕食を食べた後、書いたばかりのノートを読み返して、一人で寝た。



「これからエルダーエルスのフェサードに会う予定があるんだけど、通知で連絡を入れたら君たちにも挨拶したいから連れて来てってさ」


 翌日、俺たちはゲンブに連れられてお偉い人に会う事になった。

 たしか森川は人格面ではマシだけど覇気がないって言ってたな。

「正装じゃなくていいのか?」

 馬車からゴトーの町並みを見ながらゲンブに聞いた。

 エルス族ってなんだかんだ言って形式に拘る気難しい性質の印象があるし。大丈夫かな?手土産とか必要ないのかな。

「公式訪問じゃないし、それに……まぁ、会えばわかるけど必要ないでしょ」



 都市中央から離れた坂の上にあるフェサード師の邸宅はエルスでは珍しい形式の建築で、恐ろしいほど古い館だ。

 建物は最低限の修復で留められていて経年の劣化は隠しきれてなかった。

 庭の手入れはなされているが、雑草の刈り取りが定期的に行われている程度で、華美なところはなく、エルス共和国を統べる永代議員の住まう場所には見えなかった。

 家令に案内され館の古びた玄関をくぐると、中は薄暗く内装は質素だったが辺りに上品なお香や花の匂いが漂っていた。

 応接間に案内され、肌触りのいいソファに腰掛け待っていると、壮年の身分の高そうなエルス族の男が侍従を伴って現れた。

 ゲンブが正装は必要がないと言った理由はすぐに分かった。

 彼の目は固く閉ざされ、その挙動を見ても盲人であるのは明らかだった。

 俺たちは形式に沿って目上に対する礼をしようと立ち上がると彼はそれを制した。

「私の都合で呼びつけてしまったのです。まずはこちらがその非礼を詫びなければならない……」

「相変わらず固いねー。そんな細かいこと気にしないよ。さっさと本題に入ろう」

 ゲンブの砕けた口調に本人も周囲も何も言わないところを見ると、どうやら二人は旧知の仲らしい。

 ソファの背もたれに腕を回してすっかりくつろいだ様子でエルスの重鎮に指図しているこの図を見ればどちらがこの場を支配しているかは明白だった。


「君の目、まだボクのインベントリにあるんだけどさ、いい加減治したら?エルス族の技術なら部位欠損くらい治せるでしょ?」

「いえ、アレは私のエルスの原罪に対する精一杯の贖罪です。それに視覚を失う事によって私はより豊かな世界を手に入れました……もっともあなたの感覚で捉えている世界には遠く及ばないでしょうが……」

 二人の会話に俺たちは若干引き気味だ。

「基本憲章締結の儀で姉さんが彼の両目を受け取ってね。まぁ、普通思いついてもやらないよね。姉さんもちょっと驚いてたけど……で、ボクたちを呼んだ理由、そろそろ教えてくれるかな?」

「……もうじき、延期されていた上院議会が首都アブストラクトで開催されます。その場で私は上院議長の不信任案を提出するつもりです」

 彼のこの爆弾発言でテルさんとモジュローはかなり驚いたが、ゲンブは平然としていた。

「この決意をシステムの御使であるテル・ムーサ様、議長アブストラクト様の創造物であるモジュロー殿、そして未来の人間領域の王であるエンダー・ル・フィン殿にも聞いてもらいたかった」

「はっきり言って出来レースだけどね。君にしては相当根回ししたようだし」

「これしきの事で躓いていたら、このエルス動乱を納めることはできません。ましてや貴方の信頼を得られるとは思えません」

 相次ぐ不祥事に耐えかねて永代議長に退陣を迫るってことか。永代とは一体。

「ふふん。君には期待しているよ。覚悟は決まったようだね」

「機は熟しました。長い間お待たせいたしました」


 帰り際、フェサードは俺が使っている香水は何かを聞いてきた。

「この香りは初めてなのでな……良かったら教えて欲しい。少し興味がある」

 俺はインベントリからシャンプーを数本とりだし侍従に献上した。

「催促したようで申し訳ない。エルスの国内問題が落ち着いたらまた遊びに来て欲しい。私の書庫が読み手を求めて寂しがっているのでね」

「はい。是非に」

 それまで俺が生きていたらな……。

「じゃあ、後は頼んだよ。この国の未来は君に掛かってるんだから」

 ゲンブはそう言うとフェサードと握手してその肩を軽く叩いた。



 俺の名は……




 俺の名は神無月了、市内の公立高校に通う高校二年生。

 中学生の時に両親を交通事故で亡くしてから、腹違いの妹と弟の面倒を必死で見ている。

 毎日バイトと勉強で死ぬほど忙しいが、可愛い可愛い家族のためなら全然苦ではない。

「にーちゃん、今日の晩御飯はなにー?」

 妹のスピカはくるくる回りながら白いオーバーオールのスカートをはためかせていた。

 勉強は得意ではないが元気なとびっきりの美少女で自慢の妹だ。

「おう、今日は煮込みハンバーグだぞ」

「えへへ、文殊くんの大好物だね」

 弟の文殊は少し気が弱いのが気がかりだが、スピカに負けないくらい可愛い自慢の弟だ。

 ちなみに二人とも俺には全く似てない。

 スピカ曰く、顔面偏差値と偏差値を胎内で等価交換した結果だそうだ。

「ねぇねぇ、にーちゃんってさー彼女とかいるのー?」

「はぁ?いるわけないだろ。勉強とバイトと食いしん坊に飯作るのに精一杯でそんな暇ねーよ」

「じゃあさ、じゃあさ、あたしがにーちゃんのお嫁さんになるよー」

「ばーか。兄妹で結婚できるか。つーかお前中学生だろ……そういう事言うのは普通、幼稚園児までだろ……」

「えー!いーじゃん別にー。だってにーちゃんのこと大好きなんだもーん」

 光り輝く能天気な笑顔を見ていると我が妹ながら大丈夫かと心配になる。

「あたしはずっと一緒にいるよ……文殊くんと一緒に……ずっと……」





「着いたよ」

 ゲンブに起こされて気がつくと、乗っていた馬車が泊まっているホテルの前で停車したようだ。

 帰る途中で眠ってしまったらしい。

 ふと横を見ると肩にもたれかかって寝ているモジュローのよだれが俺の服に垂れていた。

「ふへへ、このお菓子は全部私のですよ……」

 また食い物の夢を見てるのかお前は。

 なんだ、こいつは。



 夕食までまだ時間があるようだ。

 日記を書きつつも夢の事が頭から離れなかった。

 夢というには生々しく思い出を願望で上書きされていく背徳感と、いつかあの天使のような娘に会う事があるのだろうかという淡い期待がないまぜになった。

「なぁ、モジュロー」

「なんですか?」

 俺は何とは無しに部屋でぼんやりしていたモジュローに聞いた。

「スピカって女の子、知り合いにいないか?」

 何か空気が変わったのを感じた俺はモジュローを見る。

 その表情は後ろめたい隠し事を問いただされた子供の顔だった。

「言わないといけませんか……」

「……あ、いや、別にいい」

 ただならない雰囲気に気圧されて俺は目をそらした。



 夕食の時間、モジュローは押し黙ったままほとんど何も口にしなかった。

 普段の小さな体に見合わない健啖家ぶりを考えると不安になる程に。

 いつもは大皿の料理を奪い合う仲であるテルさんも怪訝な顔で心配している。

「どうされましたか、モジュロー様?お加減でも悪いのでしょうか?」

「アブストラクト議長が心配なのかい?一応君にとっては親みたいなモノだろうけど……」

 モジュローは無言でハーブティを口に含んだ。

「あの方なら、大丈夫です……私の何倍も賢明な方ですから……ご自分が今為すべき事は理解しているはずです」

「だといいけどね。彼は権力に執着するタイプでは無さそうだからプロークシーみたいにバカな事はしないと思うけど……まぁ、エルス族でも理屈と感情は別か」

「それはそうですよ。エルス族はあなたたち龍族と違って血肉を持った生命体ですから、簡単に割り切ることなんてできません」

 このモジュローの一言にゲンブの顔が一瞬こわばった。

「言ってくれるね」

「あなたはかつてこの国を外からやってきて破壊して、今度は内側からも破壊しようとするのですか?」

「上院議員が真面目にやってくれていればこんなことにはならなかったよ」

「エルダーエルスはみな真面目ですよ。いえ、自分の役割に対して真面目すぎたからこその結果なのです」

「君は議長に捨てられて人間に売られた身だろう。なのにまだエルダーエルスの肩を持つのかい?」

 モジュローは怒りに満ちた目でゲンブを見据えた。

「捨てられたモノは、愛してはいけないというのですか?」

 彼はテーブルに両手をついて立ち上がると自室に駆け込んでいった。

「ゲンブ!言い過ぎだぞ!」

 俺は急いでその後を追った。

「ボクだって好きでやってるんじゃない……」

 ゲンブの小さなつぶやきを拾うものは誰もいなかった。



 俺がモジュローの自室に入ると彼は膝を抱えて夜空を見上げていた。

「モジュロー……」

「アブストラクト様の事は心配してません。いつかはこんな日が来るものと覚悟してましたから……ただそれが龍族の策略なのが癪に触るだけです」

 俺が横に座り、頭をそっと撫でると彼は目を細めた。

「……私はフェサード様の覚悟が羨ましかったのです。盲の身でこの国の罪に向き合い続け、膿を出し切る決意が……私にはそんな勇気はない……自分自身の罪を直視するのが怖いのです」

「誰でもそうだろう。罪のない人間なんていないんだから」

「……私はあなたに打ち明けなければなりません。私自身が罪深い存在であることを」


「アブストラクト様はメシア論に取り憑かれ自分自身の手でメシア因子を顕現しようとしました。そうして正道ではたどり着けないと悟り、あらゆる外道邪道に手を染めてゲンマの怒りを買い、メシア創造の試みは挫折したのです」

 それは知っている。控えめに言っても正気の沙汰じゃないな。

「メシアを直接誕生させる事は叶いませんでしたが、それでも今度はいずれ現れるメシアを教え導く者を創造しようとしたのです」

 口には出せないけどおめーの父ちゃんマジでマッドサイエンティストだな。

「アブストラクト様はエルス族の知恵と神獣の強さを併せ持った存在を生み出そうとしました。しかし、エルス族と神獣の融合は困難を極めました。どうしても神獣に比べてエルス族の魂は脆弱で壊れやすく、そのまま融合させても神獣の魂に飲み込まれてしまうのです」

 俺はこの話がどこに着地するのか見えなかった。

「あのお方はエルスと神獣の魂に負けない強い心を持った存在を探し求め……条件に合致したのは虚空の宇宙を彷徨っている星の民でした」

 ……嫌な予感がする。

「星の民の娘――スピカは捕らえられて……アブストラクト様の複製体である私と神獣フェンリルを融合させる媒体として……存在ごと……その魂をすり潰されたのです」


 モジュローの告白を聞いた俺の視界は怒りで赤く染まり、魂が黒い情動に握りつぶされるのを感じながら、その意識は奈落に落ちていった。

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