風の子

三毛猫

風の子

プロローグ


俺は旅をする。どこまでも、どこまでも。自分の存在が分からず意味も分からない。でも、ずっと旅をしよう。永遠に終わることのない、美しく、果てなき旅を。

アフリカ大陸最西端、ひっそりとたたずむように存在する国、モーリタニア。無数のスラム街が国中に点々として、何百ものホタルが弱々しい光を見せるように放ち、人生を枯渇させながらも、命の重さを訴え続ける力強さを持っている。

これは、モーリタニアのスラム街に住む一人の少年が体験した物語である。


一章 少年と弟


二月の真冬、まだ朝日が顔を出していない時刻に、少年は家事と身の回りの仕事にせっせと励んでいた。マウロモーリタ二アの花は、まだつぼみが閉じて深い眠りについている。「 俺もこれくらいぐっすり眠りたいや。 」と、少年は独り言を吐いた。そして少年は、花を見つめている間に時間が過ぎたことに気が付いた。朝日はようやく顔を出し始め、花の鮮やかな模様が目立った。少年の額につく汗が光を反射して輝いている。その朝日を見て、少年は弟がそろそろ起きてくる時間だなと思い、いつものように弟の食事を用意して一言声をかけた。それから、カラカラに乾いた植物一本たりとも入ることを許さないような地面を、わざと力強く蹴って自分の職場に向かうのであった。

僕は夢を見た。僕とお兄ちゃんが豪華な家でお父さんお母さんが帰ってくるのを、今日の夕食は何だろうと他愛もない話をして、ワクワクしながら何度も時計を見て待っている夢だ。とても幸せで、ひつじのもこもこした毛皮の中にいつまでも抱きかかえられている気分だった。しかしある日、お父さんとお母さんの帰りをいつものように待っていたけれど、2人は帰ってこなかった。僕のまわりを包んでいた幸せなものは、黒く硬いものに覆われてしまった。僕にはそれが恐ろしく、悪魔よりもスラム街よりも恐ろしかった。けれども、お兄ちゃんは僕の周りにある黒いものを取り払ってくれた。僕にとってお兄ちゃんは光そのものであった。お兄ちゃんは温かい。頼れるものはお兄ちゃん、ただ一人だ。しかし、お兄ちゃんもある日を境にいなくなってしまった。黒いものは僕の周りを囲み、一欠片の光も通さんばかりに暗闇を作り上げた。恐怖、絶望、畏怖が心の底から込み上げたその瞬間、僕の重たい瞼はゆっくりとゆっくりと開き始めた。二段ベッドの上から見ると、テーブルにマウロモーリタニアの花瓶が置いてある。そして横に、お兄ちゃんが作ってくれたのであろう食事が用意されていることに気がついた。


二章 旅立ち


爽やかな心地よい風が、少年の全身を通った。その瞬間少年は、ハっと気がつき我に返った。「 俺は夢を見ているのか、おっといけない仕事の途中じゃないか、なぜ寝ちまったんだ早く起きないとどやされちまう 。」少年は、そう思いながらも夢から覚めることができない。それどころか身動きひとつすら取ることができない。俺はどうなっちまったんだ、ナマケモノにでもなっちまったんだろうか。などと冗談半分に考えていると、少年が見ている真下に病院がある。その病院に無数のアリが集団をなしているように大勢の人だかりができている。不思議なことに、その光景が何の違和感もなく受け入れられた。これは、今自分が置かれている状況を暗示しているものであったと、後に気づくのである。そして、その大勢の人だかりの中心には紛れもなく少年に似た子供がベッドに横たわっているのだ。その時、少年はある事実に気付かされてしまったのだ。その子供は、自分であるということに。信じたくはなかった。信じてしまえばそれが本当の事実になってしまうと思ったからだ。しかし、信じざるおえなかった。少年の頭には、一つの言葉が浮かんでいた『 過労死 』。少年は恐怖した。それと共に、恐怖を上回る安堵の気持が襲いかかってきて、少年の体は、風に流されてしまったのだ。そして、あまりの心地よさに少年は身を風にまかせた。しかし流される瞬間、少年はあるものを見てしまった。弟の姿である。少年の安堵した気持は、天井がひっくり返るように心配と悲しみの気持に押し潰された。しかし時は既に遅く、男の子の体は空気中の風に乗りながら遠くへ流されていってしまった。


三章 風の子


あれからどれくらいの時が経ったのだろうか、俺は今どこにいるのだろうか、などと少年は自分の頭の中で自問自答を繰り返していた。しかしある朦朧としていた意識が自然と戻り始めていることに実感を覚えた。少年は、瞼を開いた。手足の感覚も戻り始めている。空っぽで透明なビー玉のような透き通った自分の心に何かがカチッとハマったような気がした。その自分でもわからない何かは、地球の重力に全力で引っ張られるくらい重たく感じられた。しかし、それと同時に少年が少年である「存在感」というものを強く感じられたのである。そしてしばらく体が風に流されていると、少年の目の前に巨大な建物が見え始めた。「 あれは何だろう。でかすぎて目が眩んじまうな 」少年は、本でしかそのデイダラボッチに匹敵する建物を見たことがなかった。「 確か名前はなんと言うのだったか。」少年は何回も思い出そうとしましたが、不思議なことに読んだ本の内容やどこでそれを選んだのかも、頭から全てが飛び出していってしまったかのように思い出すことはできなかった。ただ、本を読んだことがある。その曖昧な記憶だけが少年の頭に張り付いていた。その建物に近づくと、見え始めた時よりも更に大きくなり、ゴシック建築特有の構造力の高さや細かい模様までも細部にわたって技巧が凝らされていることが分かった。少年は、そのゴシック建築の建物を突風のごとく走り抜けた。その瞬間、少年の頭の中には自分の知らない未知の記憶が滝のように、それも恐ろしいほどの数が流れ込んできたのである。どうやらそれは、このゴシック建築の建物に関する記憶であるということは流れ込んできた瞬間に自然と理解した。その記憶には、建築の外観や構造といった知識が存在しているのだが、それよりもさらに目を引くものが心の中はっきりとあった。「歴史」である。このゴシック建築の建物が、時間と共に建てられていく。夏が来て、冬が来て、再び夏が来て、冬が来る。木々や草花が若々しい緑を表わしたと思えば、真冬の吹雪が空を流れる流星のように降り注ぎ、木々や草花は自ら根を地に貼り付け、冬の厳しさを耐え忍ぶ。建物の完成に民衆が押し寄せ、ベートーヴェンのオーケストラのように、歓声の声が少年の耳に響く。あまりの歓声にめまいがするくらいでしたがその瞬間、辺り一帯が巨大な豪華に包まれ、紛争、そして戦争へと発展した。このゴシック建築の建物は、戦争に巻き込まれ、人間に篭城するものとして価値を与えられた。そして、戦争後には建物がバラバラになり、人間は一度利用価値を見失った。次に、このゴシック建築の建物は教会となった。戦争の篭城に使われていた建物とは別人のようであった。神聖な空気が漂い、聞こえるはずのない祈りの数々が頭に反響した。人間がこのゴシック建築の建物に「歴史」を与えて、今の姿があるのだ。「歴史」の美しさは、私の心を奮い立たせると共に惑わせた。

しかし突然、意識が遠のいていくのを感じた。手足の感覚が無くなり、自然とまぶたが閉じていく。「 少し眠いや 」少年はまた吸い込まれていくように遠くへ、遠くへと流されていったのである。

少年は、体の中を貫く少し肌寒い風に目を覚ました。「 どれくらい眠ったのだろうか、俺はなぜここにいる俺は誰だ、そうだ弟の元に戻らなければ。」しかし少年は、弟の名前も顔も思い出せない。それでも弟のところに帰らなければならないという強い意志が少年の心に必死で輝こうとしている。少年は、弟を徐々に忘れていってしまう。さらにそれが全くと言っていいほど違和感がなく、むしろ必然的なものであるように受け入れることができてしまう。弟のところに帰ろうとする者と、全てを忘れて風に流されようとする者が、少年の心の境界線で火花を上げて争っていた。少年が心の葛藤に気を向けている間に、少年の体はより高く上空を飛んでいた。それと共に少年の体を覆っていた分厚い雲が道を開け、少年は目を光が宿るダイヤの如く輝かせた。海を見たのだ。人生で最初の海である。その海の周りには大陸一つ見当たらず、どんなに目を凝らしても見ることができない。ポイント・二モ、なんていうマニアックな言葉が出てきたくらいであった。海には、生命力の根源を象っているかのように生き生きとした生物が泳いでいる。そして、海の底まで見えるほどの透き通った水は、体に流れ込んでくるほどきれいであった。それらの「生命」は無常であり、海が生きていると感じた少年は、「生命」の美しさを知ってしまったのだ。その瞬間、少年の体は感覚を全て失った。今まで持っていた記憶が、外へ流れ出す。徐々に体が薄れていき、目の視界にきりがかかった。「 弟のところへ…弟の…弟とは ?」少年の身体は風に流された。少年は、風の一部となった。少年は世界の一部として消えた。

同時に病院では悲しい声が広がっていた。


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