第18話

3、



 あたしは眼を覚ました。嫌な重苦しい、悪夢から目覚めた。口のなかにはあの甘い錠剤の溶けた味がした。頭のなかが朦朧とする。あたしはまだあの人間が焦げる黒いけむたい煙が鼻の奥にまだ残っているような気がして、数回短く咳をした。瞬きをして、視線を巡らせると、隣に深刻な表情をしたユニルフがベッドの横の椅子に座って、あたしの手を強く握って、あたしを見ていた。あたしはユニルフの顔を見て、柔らかく身体から力が抜けていくのを感じた。あたしは還ってきたんだ。還ってこれたんだ。

「変な夢見てた。すごく変な夢。あたしがあたしみたいなだれかになる夢。どこかでだれかの夢に紛れこんで、その夢をだれかの代わりに見ていたみたいだった。あたしみたいだけど、あたしじゃない。あれは―――だれの夢?」

 あたしがまだぼうっとしたまま呟くと、ユニルフは気の毒そうな顔をした。「だれかの夢に紛れこむとか………恐ろしいことが起こるんですね。そういう症状でしょうか。変な夢を見たんですね。でもあなたの夢はあなたが見た夢ですよ」

「あたしが見た夢………」

 あの場所は普通じゃない。見覚えがあるようでないような、灼熱の場所。もう思い出せない。あの場所にはもう帰りたくない。

 眩暈がして、起き上がれそうにないから、あたしはまた眼を瞑った。頭のなかが右回転で廻っている。吐きそうだ。ユニルフがあたしにペットボトルの水を飲ませてくれた。水じゃなくて、もっと栄養のあるものにすればいいのに、と思ったけど、言えなかった。水をのみこみながら、あの場所にはおそらく水なんてないんだろう、と思って背筋を冷たくした。あの場所にいるあたしのようなだれかはきっと水が飲みたくてたまらないに違いない。かわいそうだ。あたしは水をたくさん飲んだ。

 数日前に獣人狩りに遭ってここにユニルフに運びこまれるまでのことをあたしはユニルフから聞かされ、寝ている間にあたしの覚えていることも思い出せるようになっていた。ユニルフと二人で地下道ではなく地上の道を一緒に歩いていて、あたしは後ろから銃で数発撃たれたのだった。それは獣人用の麻酔銃で、油断していたあたしはそのまま道に倒れて眠りこんでしまったようだ。ユニルフがあたしを守り、獣人狩りの男たちを追い払ってくれたようだ。彼は救急車を呼んだが、やっと到着した救命隊員はガムを噛みながらのんびり歩いてきて、あたしを粗雑に担架に転がせて乗せて、のんびり緊急病院に運んだそうだ。ユニルフには怪我はなかったそうだ。麻酔が切れても起きないので、無愛想な医者は、あくびをしながら「この患者はもしかしたら〈ブエルの娘の呪い〉に罹患している可能性がある。麻酔銃での薬物的な睡眠がこの病を誘発した可能性がある」と言っていたらしい。

あたしはユニルフに頼みたいことがあるんだけど、猛烈な眠気にいまにも巻きこまれそうで、うまく喋ることができない。唇を動かすというより開けたり閉じたりすることしかできないし、声も出ない。横にはいつの間にか点滴の細い柱が立っていた。あたしの左腕には針が刺さっていて、そこから栄養が直接血管を通って、身体に送られている。これでいちいち食事をとらなくても、栄養不足で死ぬことはないだろう。点滴のピンク色っぽい液体の、硬そうなビニール袋の水底が、あたしの見る角度を変えると、ときどき光を反射して輝いている。あたしは「トイレに行きたい」とようやく言えた。ユニルフは看護師の代わりにあたしの背中を支えて、起こしてくれて、あたしはスリッパを探して、ベッドから足を出した。地面が回転して見える。簡易トイレを使うのは、恥ずかしいから、自分の足で歩いて、病室の外の廊下を通った先にあるトイレに行きたいんだ。あたしは病院の入院患者用のではない、だれかの洗濯しすぎてくたっとした白っぽい寝巻きを着ていた。サイズが大きいから、もしかしたら男性用かもしれない。歩きながら裾を踏んづけて、すっ転んでしまうというような醜態だけは晒すまいと、よろけながら点滴のカートを引きずりながら歩く。後ろからユニルフが心配そうについてくる。あたしが危なっかしく転びそうになったら支えてくれるつもりなのだろう。ユニルフ。世界でたった一人しかいない、ユニルフという存在。あたしと全力で対等で尊敬できる存在。この寝巻きは、おそらくユニルフのものだろう。洗濯洗剤と病院の消毒アルコール臭のなかから彼のいい匂いがしてくるんだ。何度も嗅いで、そのたびに安らぐ、彼の匂いがしみこんだ寝巻き。彼と服を共有できるのがうれしい。袖の匂いを嗅ぐと、泣きそうになる。なんて甘くて男らしくて爽やかでいい匂いなんだろう。彼の性格の良さがにおいに表れてるよ。ユニルフの寝顔を思い出す。ユニルフが今日も無事で眠っているのを見るだけであたしは幸せになれるんだ。かつてあたしは世界の端っこでたった一人だと思っていた。だれからも愛されないんだと思っていた。一人ぼっちの女だと思っていたけど、ユニルフを愛して愛されて、みんなから嫉妬されるくらい幸せになりすぎて、あたしは人から怨まれて殺されてしまうんじゃないかと思って不安だよ、心配だよって、いつか彼に言ったことがある。ユニルフはあたしに言ってくれた。「だれもぼくたちのような世界の端っこにいるたった二人きりの恋人同士の幸不幸なんて、だれも気づいていませんよ。気にしてもいないですよ。安心してください」そう言って笑った。あたしは憶病なんだ、そう言うと。「思う存分幸せになりなさい」と彼は笑う。あたしは鼻の奥が痛くなって眼が潤みだす。「そんなこと一回も言われたことないよ」

「キファ、しっかりしてください。床で眠っちゃだめですよ」

 彼の声がする。あたしはどうやら床に蹲っていたようだ。彼に腕をひっぱられて、眠くてうむにゅむしている自分に気づく。だぁってねむいんだもんー。

 んんっ。あたしの身体が一瞬、宙に浮いた。地面からふわっと身体が持ち上がった。あたしはそのふわっと感に驚いて、眼を見開いた。点滴カートも隣で宙に浮いてた。……おおおんっ。直後にどこかでなにかが爆発したような音が響いて激しい地面の揺れが来た。つるんとした白い床が斜めに傾いで、カートが倒れて手から管が引きちぎられて流れて、左腕から一筋血を流しながらあたしも床を滑った。病院のどこかが爆破されたのか。あたしはそう判断した。一階かどこかが。床に倒れながら、ユニルフを探した。床が傾いている。傾いて沈んでいく。「キファ!」ユニルフが叫びながら手をのばす。あたしはその手を。どぉおん!  再び大きな音がして、二階は一階へ半分くらい沈んだ。一階にいたスタッフや医者や患者はちゃんと逃げ切れただろうか。傾いだまま、まんなかから、二階がぼっきり折れて陥没している。なにが起こったか瞬時にはわからないけど、ユニルフがあたしを呼ぶ声がするから、まだ彼は生きているんだろう。あたしも彼に無事だよって返事がしたいのに、眠くて声が出ないんだ。あたしは左腕から血が出て彼の白っぽい水色のかすれた色の寝間着が汚れていくのを、服を汚したくないのに、と思いながら眠りながら眺めていた。早く水洗いしたい。左腕の血管から針が乱暴にすっぱ抜けたから痛かった。ぶつって音がした。普段ならすぐに治るんだろうけど、弱ってるからかしらないけど、なかなか傷の治りが遅いんだ。あたしは斜めになっている二階の隙間に立ったままやや縦に挟まったまま、眠りかけていた。彼はどうも反対側にいるんだろう。まんなかから折れてちょうどあたしたちの間に亀裂があって、そこからあたしは大きく斜めになっている床の狭いところに収められて眠りそうになっているんだ。彼はまほうつかいだから、多少の傷なら呪文一つで癒すくらい簡単にできるんだ。でも傷ついていてほしくない。彼の足の骨にひびでも入っていて、彼が痛そうにしていたらかわいそうで、哀れでならなくて、痛い? 痛い? と何十回も聞いて、おろおろして、彼の痛そうな足を見るたびに悲しい気持ちになってしまいそうだ。どうか彼に怪我がありませんように。隙間に挟まれて眠っていられるあたしは無事だよ。早くこっちに助けにきて。とか思っていたときにさっきより遠くから爆発音が聞こえて、今度は病院が爆破されたんじゃないな、と思った。病院の隣か近くの建物が続けて爆破されている。炎の匂いが下から風に乗ってあたしの鼻まで届いた。爆発と同時にどこかで火事が起こって燃えてるんだろうか。ここじゃないといいけど。だれかが大規模にこのあたりを襲撃している。見知らぬ〈ランタン男〉め。ろくでもないことしやがって。地獄に堕ちろ。頭のなかで炎が揺れている赤い橙色が見える。夢のなかに堕ちていっているようだ。あちこちの建物が爆破されたのか崩れていて、火災が起こっていて、広い焼け野原になってところどころ火が燃えていた。これはここの近い未来の姿だろうか。予知夢なんだろうか。この病院もいずれ一階から崩壊して火事に巻きこまれた果てに焼失してなにもなくなってしなうんだろう。あたしには見える。家も店もビルも建物は全部なくなって、人もだれもいないのがわかるんだ。「どうです、ここにはもうぼくたち二人だけしかいないようですよ」焼け野原恐怖症のはずのユニルフがいつの間にかあたしの隣に立っていて、両手を広げる。「なーんにもないんですからね。逆に清々しいくらいだ。はっはっは」ユニルフは笑う。機嫌が良くて嬉しそうだ。なにが嬉しいんだかあたしにはさっぱりわからない。嬉しいことなんかじゃないのに。あたしはユニルフとあたし以外の世界なんて滅んでしまえばいいなんて、願ったりしてない。一度だって願ってない。それなのに、あたしたちだけ世界でたった二人きりになってしまった。焼け野原に二人きり。あたしたちは二人だけ無事で確かにしあわせだけど。でもその代わりに世界が滅んでしまった。焼け野原が苦手なのに平気でいるユニルフはなんだかいつもと様子が違って、別人のようで怖い。近寄ると、金色っぽく光りはじめた黒い眼が、大きく見開かれていて、焼け野原を獣のような生き生きとした眼でせわしくあちこちを見渡していた。あんなに変なユニルフは見たことがない。街がまだ燃えている。それを嬉しそうに笑いながら彼は見ている。「きっとどこかのだれかがぼくとあなたのために世界を焼き滅ぼしてくれたんですよ。きっとそうですよ。どうです、嬉しいでしょう?」ユニルフは凶悪に笑いながら言った。

「嬉しくないよ、あたし、ちっとも嬉しくないよ、こんなの。だいたいユニルフ、焼け野原嫌いだったじゃんか。苦手なんでしょ? ユニルフの大事にしていた弟のノートももうどこに行ったかわかんないし、ユニルフの好きでよく飲んでたペットボトルの水、もうどこにあるかわかんなくなっちゃったし、あたしはベッドで無事に眠るユニルフの寝顔を見るだけで幸せな気持ちになれるけど、あの好きだったあたしたちの白いベッドもなくなっちゃったし、こんな世界じゃ安心して眠ることさえできないよ。もうお店も焼けちゃってるから、これから何を食べて生きて行けばいいのかわかんないし。困るよ、焼け野原にされたら。ユニルフの大事なものだって全部なくなっちゃったし、ユニルフが楽しく生きていけないじゃないか。ユニルフがかわいそうだよ。あの笑顔も嬉しそうな表情も、あたしが見れなくなっちゃうじゃん。そんなの嫌だよ。あたしはユニルフには楽しく幸せそうに生きてもらいたいのに」

ぼくたちは世界で二人きりじゃありません。まだどこかに人はいるはずです。ぼくは探します。人のいるところに行くんですよ。まだ諦めるわけにはいかないんだ。

ユニルフの声がする。なぜかユニルフの身体の暖かさが身体から伝わってくる。彼の背中は暖かいんだ。あたしは彼の背中にくっついてうとうとしている。彼の心が震えているのがなんとなく冷や汗の匂いと畏れの気配で伝わってきた。彼は怖いのだ、本当は焼け野原恐怖症だから。あたしをそこらへんに放り捨てて、叫びながら走って逃げだしたくなったっておかしくないのに。まだどこかで爆発音が続いている。「あたしをここに置いて逃げてもいい。そうしてくれたって、構わないんだよ」あたしは彼の耳元で小さな声で言う。「一生懸命あたしのこと愛してくれたし、頑張ってくれたよ。だから、もういいよ。ユニルフだけでも急いで安全な場所に逃げて。あたしは走れないから、あたしを置いて、早く逃げて。ユニルフだけでも、生き延びて、お願い」

「そんなこと、できません」彼の声が震えている。

あなたを置いていけば、彼は安全な場所にきっと逃げられるわ。わたしがそれを約束してあげる。あなたの代わりに、わたしが彼の安全を約束するわ。どう? わたしの言う通りにすれば、彼は死なない。あなたはわたしの言う通りにすればいい。

どこかで女の声がする。あたしは半分死にかけているから、たぶんあっちの世界からの使者みたいなのが、あたしと交渉話を持ちかけてきたんだ。あたしと取り引きをしたいと言っているんだ。あたしは眠くてうまく働かない頭のまま考えてみた。ユニルフの手が震えている。怖いんだ。かわいそうに。かれはあたしを背負って重たそうにぜいぜいと息を切らしながら安全な場所を探しながら歩いている。血の匂いがした。彼の片足から血が出ている。彼は足を負傷しているんだ。だから走って逃げられない。あたしを投げ捨てて、早く逃げてほしいのに。ユニルフ! 彼には女の声は聞こえていないようだ。

「あたしは死んでもいい。だけど、彼は絶対に殺さないで。彼だけは助けてあげて。どうすればいい?」あたしは小声で女に聞いた。ユニルフの足が崩れた材木に引っかかってよろけて転びそうになる。熱い燃える火の手は徐々に追いかけてくる。あたしたちは汗をかいて息をすると喉を焦がしそうになっている。もうここらには人はいない。みんなあたしたちを置いてとっくに逃げてしまった。

 女は言った。方法は簡単よ。あなたが彼の代わりに死ねばいいのよ。それとも、彼を殺してあなたは生き延びる? そういう方法だって、ないことはないわ。どうする? 

「あたしはユニルフを殺したりしない。あたしには、そんなこと、できないよ」そうだ、あたしには彼を殺すことはできない。彼を殺すくらいなら、あたしは死ぬことを選ぶ。あたしは彼を、愛しているから。あたしは死んでも、彼には幸せに生きていてもらいたいから。

人を好きになって愛して、その人のために死にたいなんて、あたしはいつからそんなに弱い人間になってしまったんだろう。あたしのなかのどこかのあたしは涙を流して、その事実に茫然としながら対面している。あたしは死にたい、彼のために死にたいんだ、死なせてほしい。あたしは泣きわめきたくなった。彼のことをあたしはだれよりも愛してるの! そんな人間らしい弱さをあたしが認めざるをえないときがくるなんて、あたしは考えたこともなかった。それでも、いま女の力を借りて、彼の命を奪ってあたし一人だけが元気になって彼の死骸を踏みつけて、上機嫌で安全な場所まで走って逃げることができるだろうか。できるわけがない。あたしはそんなことを考えただけで発狂しそうになる。あたしは彼を痛めつけることすらできない。彼を犠牲にしてまで生き延びるなんて、想像すらすることができない。あたしの心は彼を失うということを想像したときの痛みで気絶しそうなほど苦しんでいる。あたしは弱い、たった一人の、ただの女にすぎない。強くもないし、生に執着する恐るべき野獣のように野蛮でもない。その不自由さが、どれだけあたしにとって幸せなことか。あたしは心が安らいで満たされるのを感じた。その不自由さは、あたしが彼を愛しているという事実から生まれた。獣のように本能のままに人を殺して笑い、人を殺してもなんの痛みも罪悪感を感じず、喪うものなど自分の命くらいしかなかったあんな自分はあたしのなかからもう姿を消した。愛する人を傷つけることすら恐れ、愛する人を失うことを考えただけで、あたしの心は痛みを感じるようになった。愛する人が大切な存在だから、死んでほしくないと思うようになった。あたしは眼を瞑った。獣のように自由な心を持つ自由な自分を失て不自由になったはずなのに、不満を感じるどころか、どうしてあたしはこんなに安心するのだろう。あたしの心が甘く柔らかになる。あたしは彼に守られている彼の女なんだ。あたしは彼の女だから、彼の望まないことをあたしはすることができない。あたしは彼の望まないことを行う自由を失った。あたしは彼の心を失いたくないから。だから不自由なんだ。だから、それゆえにこんなにも幸せなんだ。あたしの自由を、彼の愛が優しくあたしを拘束する。あれもしてはいけません、これもしてはいけません。いいですね? 彼の言う通りにされるがままに従うことで、あたしは彼に愛していると伝えることができる。彼も同じようにあたしから自由を奪われただろう。あたしの望まないことを、彼もすることができない。彼もあたしを失いたくないから。あたしたちは愛の手錠で互いを繋がれている身だ。そうして互いの愛で互いを守られている身だ。あたしの心は彼との愛から生まれた。あたしの命は彼とあたしの愛のためにある。あたしが死ねば彼は悲しむだろう。二人で一緒に死ぬのもいいけど、彼はこんな焼け野原で死にたいとは願わないだろう。ああ、それよりもあたしは彼との愛の証明のために死にたい。あたしは彼の愛のために死にたい。そうすることで、あたしは彼にあたしの愛を証明してみせたい。彼の前に跪き、あなたのためなら、あたしはいくら不自由でもかまいません、傷つくことも畏れません、死んでも構いません、と誓いたい。あたしは彼を失いたくない。あたしは彼のためなら喜んで死ぬ。彼のためにあたしは死のう。

「あたしは死んでもいいから、ユニルフを殺さないで。あたしが彼の代わりに死んでもいいから」あたしは涙声で言った。だめですよ。いいえ、絶対にいけません。彼の声がする。だって、あたしはユニルフに生きていてもらいたいの。楽しく幸せに暮らしてもらわないと困るの。ユニルフ。彼のいない人生に意味なんてない。自分が死ぬんじゃなくて、彼が死ぬのは嫌なの。だめです。

 ユニルフ。

 あたしはユニルフとずっと一緒で、喋って仕事して夕飯食べて同じベッドで眠って、すごくすごく幸せだったな。死んだ後もユニルフにまた会えるよね? 会いたいよ。また会えるって信じたまま死にたいな。ああ、あたしは弱いなあ。弱い人間だ。あたしは。どうして愛してしまったんだろう。いつの間にかあたしは彼を愛してしまっていたんだ。あたしはまだ彼とさよならしたくないよ。やっぱりまだ一緒にいたいよ。できるならずうっと彼のそばにいたかった。

 やっぱり生きていたかったな。あたしたちはちゃんと抱きしめあって、暖かい彼の腕に背中をぎゅっと包んでもらって、愛してるって言いたいな。愛してるよって彼の声を、自分の耳で聞きたいな。愛してるって、もう一度聞きたいな。

「愛しています。何度だって言ってあげられますよ。ぼくは。あなたのためなら。だから、生きてください」

 あたしは眼を覚ました。

 ユニルフにしっかりと抱きしめられていることがわかった。消防車が何台も来て、消防隊員が声をかけあっている。まわりにホースで水をかけて火を鎮火している。まわりから大量の水の気配がする。もう火は消えたようだ。生存者を確認、とだれかが短く叫んだ。まわりを救急隊員が担架を持って走って行き来している。医者と患者と看護婦やスタッフもたくさんの人が無事なようだ。どうか無事であってほしい。むやみやたらと人に死んでほしくない。彼ならきっとそう言うだろうから。それがあたしにはなんとなくわかるから、あたしもそれを真似をして言う。あたしは変わったな、とひとりで笑う。病院は燃えてなくなってしまったようだ。あたりはホースの散水されたおかげで水浸しだ。くすぶっていた火に水をかけられ、じゅっと音を立てて消えていく。水たまりに、太陽の光が反射して、きらきら光って見える。だれかの涙みたいに。あたしたちは生きている。彼があたしを守ってくれたんだ。彼の身体は暖かくて、確かに心臓も脈打ってる。あたしもちゃんと息をしてる。あたしはぼんやりする頭がだんだんはっきりしていくのがわかった。眠気が遠のいて女の気配も消失していく。〈ブエルの娘の呪い〉は、解かれた。「ユニルフ、愛してるよ」

「死んではいけません。生きるんです。なにがあったって、あなたはぼくと必ず一緒に生きるんですよ。死んではいけません。ずうっと一緒に生きるんです。絶対に」彼の手は震えていたけど、あたしの手を力強く握った。彼の声は涙声だったけど、はっきりとした声だった。

「本当に、病院燃えちゃったんだね。焼け野原をあたしを背負って逃げるなんて、怖かっただろうに」

「そんなこと、関係ありません」彼はあたしを抱きしめて、泣いた。「あなたが生きてる。それだけでぼくは充分です」

ああ、あたし愛されてる。愛されてるんだ。そう認識すると、心が震えて、彼の背中にしっかり腕をのばして掌でもっと近くに抱き寄せると、彼は涙を流しながら腕であたしをぎゅっと強く抱きしめてくれた。彼が生きているのが嬉しい。あたしも生きてる。それ以上嬉しいことって、ない。

「海にも一緒に行こうね」

「はい」

「旅行にも一緒に行こうね」

「はい」

「おいしいものも、いっぱい食べようね」

「はい。そうですね。約束ですよ」

あたしは眼を閉じて、嗚咽を漏らしながら暖かい涙を流す。生きてて良かった。あたしは生きる。なにがあっても、ユニルフと一緒に必ず、生きる。絶対に。

         

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楽園オアシス、血まみれゲヘナ 寅田大愛 @lovelove48torata

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