第17話

2、



だれもいない屋上で、あたしは生温かい血まみれのアスファルトの上に立っている。落下防止の金網の間に指を引っ掛けて、金網フェンス越しに空を見上げながら、あたしはもっと奇麗な世界が見たい、とつぶやいた。このフェンスの先には、燃える炎に焼かれている世界がある。フェンスの隙間から、あんな地獄のような世界を覗いてみようとは思わない。あたしは顔をそむけた。

世界の姿は本当は醜悪だ。空はあんなに奇麗なのに、世界の姿の汚さに、あたしは絶望しているんだ。理想と現実、と言われてもあたしはこんな醜い世界のことを、単純に好きだとか奇麗だとか素晴らしいとか、どうしても思えないし、望んで生まれてきたわけではないし、なんのために生まれてきたのかもわからない。あたしの生きた証はいらない。あたしは生きていたことを、この世に残したいと思わない。はじめから存在していなかったことになっても全然構わない。生きていくために、なにかを信じたくて、あたしは絶対的なものを探していた。美や力の価値も概念も、絶対的なものにはならなかった。美しくありたいと思ってもあたしの存在は完璧には美しくない。強い弱いの次元で生きればつまらない。女の友情はどっちがマシかの見下しあいの比べあい。男は結局身体目当て。親は長年の古臭い考え方を改めることはできない。学校を出て就職して結婚して出産して子育てして親の介護して孫見て死ぬ。悩んで働いて。金稼いで遊んで。勉強して。人生は暇つぶし。金をつくるか子どもにこだわるか趣味に走るか。だいたいこんなものだろうとか思ったりするのが伝わるから嫉妬されて足蹴にしたり。老人になって死ぬ日まで生きる。熱中するもの夢中になるものも見つけられずに、醒めた眼でただそこにいるだけなんて、あたしはまるでお化けみたいだ。一人ぼっちのお化け。覚醒して半分人間から脱出しているようなお化け。そこにいてもいないような頼りない存在の。あたしは眼を瞑った。

不条理? 世界は悪意に満ちている。正しいものが救われるなんていうのは、あれはきっと嘘なんだ。救われるといいな、救われるべきなんだっていう願望なんだ。罪のない人はどんどん死んで、死刑になるべき人間は意地汚く生き伸びていたりするんだから。忍耐は美徳だっていうけど、そういうのは、あたしは綺麗なものとして受けとりたくないと思う。なんだか卑しいにおいがするから。あたしの頭のなかでは理屈や観念が巡っているけど、現実にはなんの役に立たない。あたしは心臓が止まる思いをしながら、必死に頭で考えているけど、あたしの心を救ってくれる言葉はなかなか見つからなかった。傷ついた心は生ぬるい血を流しているのに、本から拾ってきた空疎な理屈は冷たく漂うばかりだ。こういうときには言葉ではあたしの心は救われないようにできている。自分の心を言葉でぴったりうまく言い表すことができれば、頭はすっきりするかもしれないのに。だからあたしは言葉を探す。言葉を尽くす。そんなにたくさんではない言葉の群れのなかからぴったりを選ぶ。なければ連れてくるか、組み合わせてつなげる。頭が痺れてきて、あの野蛮な表情や楽しそうな笑い声がまだ頭のなかに残っていて、それがいつまでもあたしを傷つける。いやらしい糞猿たちのその低俗な言葉遣いを聞いただけで、あたしはむかむかしてくるんだ。女性に対して失礼な性的な言い方や、隠そうとしないから漏洩する男尊女卑の考え方が、いちいちあたしを腹立たせる。世のなかは本当は男女平等であるべきだと思っているあたしは、女性の人格を無視するような性的な言い方や、女性の外見だけで価値を決めるような猿どもの勝手な考え方がとても気に入らない。あいつらなんか死ねばいいと思う。

あたしはなんのために生きているのか。惰性で生きてきた、というしかない。ただ生き延びるために生きてきただけであって、なにがしたいことがあったとか、守るべきものがあったとかではなくて、そういうことではなくて、生きなければならない、と思ったから生きながらえてきただけである。

あたしは他の人のことなんか気にしない。好きなだけ言わせとけ、と言っておく。他の人、あいつらがあたしの生活を守ってくれるわけでもないのに、うるさいんだよ。とあたしは男のように低く吼える。本当は気の済むまで酷い言葉で罵倒しつくしたい衝動が湧き上がるのだが、それはほどほどに控える。

あたしの嫌う人物像のなかに、あたしが受け入れたくない、あたしの姿を見た。

あたしはいてもいなくても同じ。その事実に、触ったら凍傷になりそうなつららで胸を貫かれたように痛めつけられた。心の表面の皮膚を乱暴に剥がされて、その下の血管に流れているぎとぎとした生命エネルギーとか、柔らかくてなま暖かい人間性とか、自尊心とか、世間に対する見栄とかを、無残にも刃物でぐちゃぐちゃにされた気がした。たくさんの感情、もの悲しいとか、助けてとか、恋しいとか、飢えてるとか、そんな悲鳴を、ぷちぷちと潰して、それで空っぽになった血だらけの神聖なあたしの心の奥底に土足で踏み込んできて、バカと殴り書きされた紙切れ一枚を貼られて、さあ死ね、心おきなく死ね、と自殺を強いられているみたいだ。

偽物の友情のうそ臭さもすべて非難してやろう。あたしは一人でも生きられる。

 あたしはだれかのいうようにどこかがおかしいのだろう。それでもあたしはいい。他の人と違えば違っているほど、あたしは自分が特別な存在のような気がするから。他人から歯噛みされながら憎まれ羨ましがられるほど、他の人にはないものをあたしは持っている証明になるんだから。狂気があたしを生かすなら、あたしは正気でなくったっていい。狂気がくだらない日常を超越するのなら、あたしはそれを願う。砂漠の木々が水を希うように、あたしのなかに雨あられと異常が生まれればいい。そんなことを願う時点で、あたしはまともなのか狂っているのか。それでもあたしは人より優越したい。あたしを見下したり劣っていると馬鹿にしたり矯正しようとしたりする人たちがいるから、あたしは特別になりたい。特別になれるなら、普通になれなくてもいいから。だれもが享受できる普通を、あたしは手に入れることができないとしても。捨てられていた時点で気づくべきだったんだ。普通に生きられるなんて、願っちゃいけなかったんだ。あたしは立ちくらみがおさまるまで待ってから、立ち上がった。どこかに逃げ道が必ずあるはずなんだ。必死で探せば見落としていたなにかが見つかるかもしれないんだ。なんであいつらなんかに悪口を言われなければならないんだ。なんであたしはあたしの好きなように生きられないんだ。なんで望んだものが手に入らないんだ。なんでどんどん苦しい方向へ追い詰められなきゃならないんだ。あたしが、あたしだから? あたしが、あたしじゃなければ、よかったの? あたしがあたしだから悪いの? いろいろ足掻いてみたけど、どれも根本的な解決にはならなくて、一時しのぎにしかならない。もう疲れた。ユニルフの言っていただれかのように、いっそ死んでしまいたい。でも生きたい。ここから逃げ出したい。でもどこへも逃げられない。現実を受け入れなければならないのに、現実からどうにかして逃れたい。どうする。どうすればいい。混乱する頭のどこかではいろんなものを犠牲にしても生き延びるべきだと醒めている。心ではそのあまりに冷酷無情な決断に傷ついて血の涙を流すし、溜めこんだ怒りを自分で消化しようとして胃は千切れそうなほど痛むし、感情は青痣をつくってはひたすら痛みに鈍感になりたいと願い、精神は行き場を失って病む。この重圧に耐え切れないのならば、あたしは死を選ぶしかない。いっそ死を選んでしまえば楽になれると思えば、いつでも死ねるのだからもうすこし待てと頭が指示を出す。感情が鈍磨されるから、あたしはますます人間らしい感情を失って、精神は逸脱していって、他人からは余計に理解されなくなる。どんどん普通から逸脱していく。あたしは獣人で、完全なる人間ではない。生き延びるためなら、なんだってできる。人間の普通とは明らかに感覚が違う。生きるためにすっかり冷たくなってしまったあたしの心に手を当てても、あたしは掌から温もりを感じなかった。あたしは他人らが言うように確かに心が異常に冷たいんだ、と思って、悲しくなる。あたしの、人間らしくない冷たい心の人間は、たしかに人間らしくはない証拠なんだろう。あたしは冷たい心の持ち主である自分がとても嫌だ。人間らしい暖かな心を持ち合わせていない欠陥人間と世間やまわりの人があたしのことを非難しているような気がする。獣人の心と人間としての頭が乖離する。

あたしはひたすら忍耐戦、現実を維持したまま時間が改善してくれるのを待つ作戦を実行するしかなかった。逃げるのは簡単だと人はしたり顔で言うだろう。あたしは逃げられないんだ。逃げればさらに苦しい道を歩くことになるか、あたしの最後に残った大きなプライドが木っ端微塵に吹き飛ぶのも辞さない覚悟をして負け犬に堕ちるか、死ぬしかない。逃げることははじめから選んではいけない。なにがなんでもここに残って生きなければならないんだ。酷い眼に遭っても我慢しなければならないのがとても辛い。あたしのことをいじめ倒しても奴らはそれを悪いことだと思っていないようだ。あたしに原因があるから仕方がないとか笑って言うんだ。あたしはあいつらを赦さない。一生憎むだろう。だれかに頼ることも、あたしがそれを赦さない。意地でもあたしはひとりで自分で立ち向かわなければならないんだ。

 生きていくのが、苦しいのだ。身動きがとれないんだ。学校でくだらないものを本当にくだらないと、あたしがそう思うことをどうして間違いのように奴らは責めるのか。馬鹿げたことをしたくないと思って、あたしがはなからそんなことをするそぶりもみせないからといってどうしてそんなあたしをやつらは罵倒するのか。とるにたらないものと思ってわたしが気にもしないからって、それらに価値を置かないから腹が立つと言ってやつらはなぜいつまでもぐだぐだ文句ばっかり言ってくるのか。あたしがしたいことをなぜ生意気だといって、嫌うのか。あたしのことなんか、放っておけばいいのに、どうしていつまでも頭がおかしいと言ってつつきまわすのか。どうして自分たちと違うからというだけでいつまでもあたしを攻撃するのか。自分たちだって人より劣ったところがたくさんあるくせに。くらげのように柔軟に見えて形の決まっているあたしを矯正器具をとりつけて無理に「正常」の形にねじ曲げてなおそうとしたり、自由にのびたあたしの逸脱を「間違った方向に生えている悪い枝」だといって剪定(せんてい)鋏(はさみ)で斬ったりしないでほしい。あたしは普通でいるのは、辛いのだ。あたしも他の人と同じような普通の人になりたい、と願った時点で、あたしはすでに普通ではないことは、わかってるんだから。

あたしはナイフをつかむ。ナイフの刃で自分を傷つけると、一時的にいらいらが消える。我慢が出来ないほどまわりがうるさくなってきたり、悪口を思い出して殺意がこみ上げてきて耐えられなくなってきたら、ナイフの先で手の甲を刺したり、掌を傷つけたり、ナイフの刃で手首を軽く切ったりした。自傷行為と言うらしい。前から知っていたけど、特に気にせずにしている。赤い血が滴るように流れて、あたしは、すこし気が楽になる。あたしはアスファルトの上に座り込む。だれかの臭い血の匂いが漂ってきた。黒く変色して固まりつつある血の匂いがそばからにおう。炎に焼かれたやたら熱い風がフェンスの向こうから吹いてきてあたしの顔にぶつかって上へ吹きぬけて行った。顔の皮膚が一瞬で乾燥する。

ナイフの柄を革のケースを外すと、外し方が悪かったようで、ひとさし指が切れて血が出た。痺れた指が切れて、痛いんだ、ということをぼんやり認識した。すぐになにかを殴りたくなって地面を殴った。泣き喚きそうになったので歯噛みした。なんであたしは自分を傷つけることしかできないんだろう。弱い自分がいちばん憎くて惨めだ。本当はあたしはあたしを傷つけたいんじゃないのに。アスファルトは灰色に拳の形にひび割れてへこんだ。あたしのまわりにいくつも凹みが増えた。怒りが沸騰しそうで行き場もなく黒く身体のなかを巡っていた。それを鎮めるためには、あたしには人を殺すか自分を傷つけるかしか選択肢がない。アスファルトぼこぼこに凹むほど殴りすぎたら、指の骨が折れそうになる。放っておいたらすぐに治るんだけど。指の骨が折れたらあたしは、なにかを殴るのを一時的にでも、やめなければならない。そうするとあたしは怒りを表現することを禁止されたと感じて窮屈に思う。あたしは怒っていることを外に表現することを抑制しなければならなくなると、辛い。怒りのエネルギーが発散されないまま身体に溜まると、あたしの破壊衝動に変換されていく。

あたしはなにかを殴る前は別のことをして怒りを解消しようとしていた。たとえばゴミ捨て場に捨てられていたゴミを、粗大ゴミかなにかを壊して分解してゴミ箱に投げ捨てる、とか。剥がれたプラスチックの洗濯機の側面の一枚をばきっとへし折る。なんに使うんだかわからない鉛色のポールを折り曲げてゴミ捨て場の壁に投げつける。腐ったファストフードのハンバーガーも踏みつぶす。腐敗臭がする。ばらばらになった浮浪者の死体の破片の腕の骨を踏んで、音を立てて折る。泣きながら浮浪者の骨を踏んで踏んで、粉々に砕く。どこのだれだか知らないけど、もう死んでるのに、殺されても侮辱されるなんて。靴底から漂う粉っぽい白い骨の匂いが腐敗臭と混じり合う。あたしは酷い女だ。でもゴミ箱にたまったそれらなど、だれがどう粗末に扱おうが、だれも文句など言わない。それらはゴミなのだから。

あたしはあたしのことがますます嫌いになる。あいつらは獣人なんか死ねとか言うけど、あたしは死んでやらない。死ぬふりはするけど、死ぬふりをしている間は生き延びることができるけど、また何度も死ぬふりをしなければならないんだ。死はだんだん近くなる。四六時中楽な自殺方法を考えてばかりいる。どうして普通に生きていくことができないんだ。あたしをいじめるあいつらなんかにあたしが劣っていると思いたくない。獣人は。獣人だから。獣人のくせに。あたしにはなんでも解決できるような魔法もなくて、手首に増えては消えるかさぶたのように、現実にぶち当たっては傷をつくって、見えないガラスに囲まれた、出口だと思ったら入り口にたどり着いてしまう永劫回帰の問題のなかを延々と彷徨いつづけている。問題のなかになんて居たくもないのに、問題の外へ逃げようとすれば必ず透明な壁に額をぶつけて、じゃああたしはいっそ壁になりたいと願っても存在を完全に消さなければ壁になることはできないし、自由に空を飛んでいくこと以外に壁をすり抜けることもできないことに気づき、動けば動くほど息はできなくなっていく。時間が解決するといっても問題のなかに迷子でいるのは苦痛なんだ。問題はあたしのことが嫌いなんだし、あたしは問題から出られるまで問題のなかで待っているのはたまらなく嫌で嫌で仕方がないんだ。

 あたしはナイフのことをお守りよりも頼っているようで、しょっちゅうナイフのことを考えていなければ、精神が安定しなくなってきた。森を出てから自分のお金で買ったナイフ。柄にはわたしの握った跡が残っていて、わたしはそのナイフを手に持った重さも持っていないときもはっきりと思い出せるようになってきた。恐ろしい刃物。ナイフを持ってかざしてみて、刃に光がどんな風に反射するかを眺めてみた。遠くのフェンスの下の赤い炎の色の映って見えるんじゃないかと思ったけど、それは見えなかった。よく切れる。人の柔らかな皮膚に刃を当てたら、奇麗な赤い血が出てくる。わたしは自分の左手首を見た。切り傷はもう治って傷跡すら残っていない。あたしの怨みや怒りのこもったこのナイフは、あたしを傷つけるためではなく、本当は他人を殺すためだけにある。はじめてナイフがほしいと思ったときから今の今まで、あたしは人を殺したいと思っていたんだ。頭のなかで何回もナイフで人を刺したり切ったりするところを想像して練習していたんだ。あたしは人を殺せる女だ。だれを殺してやろうか。なんでか知らないけどそこのアスファルトの上にぼんやり突っ立っている暇そうな、かつてあたしを罵倒した猿みたいな顔の女でいいや。あたしのことをどうせ頭がおかしいからあんなかんじなんだと言って見下したように馬鹿にして笑ったんだ。そいつはあたしと眼があって急いで走って逃げだしそうとしたけど、あたしはそいつの腕を掴んだ。離してよ、とキイキイ叫んで腕を振って暴れるので、いちいち動くたびにの女の体臭が漂ってきて臭い。臭いと言いながら肩を掴んでぬるく柔らかい背中をナイフで切りつける。黒い髪もいくらかざっくり切れて、房が落ちる。服の厚い生地も切れて、赤い血が溢れる。背中に斜めの一本の切り傷ができる。三つとも切れ方の感触と音が違うのであたしはそれらの音を記憶した。さらにバタバタして逃げようとするのでナイフで数か所切りつけた。すぐにナイフを肩甲骨の間に深く刺した。そいつが大きな悲鳴を上げた。失禁して泣いて背中にナイフが刺さったまま這いつくばって《離して離して離して離して離してごめん赦して》と命乞いしても、あたしは容赦しない。《おまえでいいから、とりあえず死ね》あたしは泣いているそいつのふくらはぎの上に座って、言う。あたしはただ背中からナイフを抜いたら血がそこから噴水のように沸き出るのか、それとも重力に従って垂れ流れるのか、映画のような血のりとは違う、現実の血はどんなふうにして出るものなのかが見たいだけなんだ。でも深々と刺さったナイフは両手で抜こうとしてもなかなか抜けなくて、抜こうとしたら痛むらしくそいつはまた暴れた。抜くのを諦めて、あたしはもう一本のナイフをポケットからとり出して、そいつの頭を掴んだままうなじに刺した。そのあとは嫌いな女の死体を足で蹴ってそこらへんに転がしておいた。あとはあいつ、あいつも殺しておこう。わたしを面白がるように見下して笑った男。あいつの嫌な顔だけが視界に入って目の前に浮かんでくる。あいつの顔。あたしはあいつの右の眼球に、あたしはナイフの刃を突きたてる。もう二度とそいつの醜悪な眼をあたしが見なくて済むように。いじめるやつよりいじめられるやつが悪いとかふざけたことほざいて世にも間抜けな面で笑ってたから、あたしがおまえをいじめ殺してやるんだ。刃を抜いて、左の眼球にもナイフを刺す。両眼にナイフが刺さってる姿を見たら、きっとあたしは笑い出したいくらい気分がよくなるだろう。腕を切断したり大規模なことをすることを考えると、興奮してくる。電動のこぎりとか。果物ナイフではせいぜい指くらいしか切り落とせないのが残念なところなんだけれど。腕や足を切り離された身体のことを考えると、あたしはどきどきするような変な気持ちになる。手やひじや足首やなにやらをあたしが身体から切断して欠落した歪な身体にして、できる限りばらばらにしたいのだ。パーツをばらして肉片もばらして潰して、はじめからこの世に存在していなかったかのように破壊して消滅させたいのだ。果物ナイフでは筋肉や血管は切れても骨は切れないだろう。全身をばらばらに切るには、どんな道具が必要なんだろう。といっても嫌いなやつを一体一体懇切丁寧に分解したいのではなくて、あたしは捨てたいごみのように粗雑に扱ってすぐに大量にばらばらに壊したいのだ。あたしに爆弾をつくる能力があれば、爆弾で気に入らないやつらを片っ端から爆破してまわることができるんだろうけど、その処分方法ではいまいちあたしはすっきりしないのだった。怨みをこめた果物ナイフで、手を疲れさせながら殺して、そいつが死んだ瞬間にあたしの抱えたものも一人分ほどふっと晴れるのだ。そういうものなんだ。そう考えながら、あたしは足元に倒れているだれかの黒い後頭部を見下ろした。心臓がどくどくしている。あたしは痺れている自分の腕が持っている折りたたみ式のパイプ椅子の上のほうを握り直した。思い出した。あたしはこいつをくすんだ銀色のパイプ椅子で叩きのめしてやったんだった。もう7、8人もパイプ椅子で殴り殺して逃げてきたんだ。どこかで拾った錆びてうす汚れたパイプ椅子。ばこばこ叩いてまわるから、指で強く押したようにところどころ歪にへっこんでいたりするし、どっかのちいっちゃい部品みたいなとこが壊れてて揺らすとちゃらんちゃらん鳴る。修理とかできないから放っとく。パイプ椅子には自分が考えた名前があったけど、ダサかったからやめた。あたしは音もなくパイプ椅子を掲げて、そいつの頭に振り下ろす。首が妙な方向へ向いて折れる鈍い音がするだろう。前に身体が曲がったそいつを押し返すようにみぞおちを突く。そいつが倒れる前に踏みこんで左肩から叩きつけるようにパイプ椅子で殴る。石畳の上にうつ伏せに倒れたそいつは学生服を着て顔から血を流してどう見ても死んでた。そばに安いビニール傘が落ちてたから、そいつの頭に穴を開けて、傘を差しこんで立てて放置したら面白いと思ったけど、穴を開ける道具はあたしは持っていなかったんだ。傘の先でそいつの頭を数回打って、ほんとは頭に傘が刺さってる死体にしたかったよ、おいそこの間抜け。と死んだそいつに伝えることができなくて残念だったので、傘の骨を適当にばきばきに折ってそこらへんに投げ捨てておいた。ひっくり返って後輪だけがまだまわっているみっともない自転車も一応パイプ椅子で殴っておいてひしゃげた鉄屑みたいにしておいた。あと偶然バナナを持ち歩いていたらその剥いた皮だけを自転車の近くに捨てて置いて《バナナの皮で滑って転んで死にました》みたいな悪趣味な冗談になるのにな、とあたしは笑った。むしろそいつの頭を下にして地面に差しこんで逆さに立たせて黒い学制服を中途半端に途中まで剥いて、汚い毛だらけのがに股気味の開いた両足を露出させて放置するのはどうだろう。七面鳥かなんかの鳥みたいな茶色っぽい足がいつまでも風に晒されてふらふらしているのが間抜けだ。《見て、お××××がついてる!》とか近くを通った子どもとかに発見されて言われるんだ。あたしのことを侮辱したから、そういう殺され方をするんだよ。地獄で後悔するがいい。あたしは暗く笑いながらパイプ椅子をアスファルトに投げつけた。あたしはパイプ椅子なんかにはもう用はない。血がこびりついて錆びて汚い。地面に騒々しい音をたてて落ちてまた血で汚れた。あたしはもうこれで8人くらい撲殺した。気がつけば、まわりには無数の人間の死体が芋のように転がっていた。全部あたしが殺したんだ。やけにこの屋上は熱い。あたしの喉は舌がひっつきそうなくらい乾いて、浅く息を切らした。掌が火傷したように熱い。パイプ椅子は鉄製だ。舌打ちもできない。フェンスの向こうの炎がやたら大きく見える。もしかしたら太陽が空から墜落したのかもしれない。だから世界があんなにも炎にまみれているんだ。それで血のように赤く爛れた焼け野原になった世界に、だれかがガソリンと火を空から注いで、人間を薪のようにくべて、どんどん燃やしているのだ。人間の死体が焦げて空に立ち上って行く黒い煙がここからでも見える。風が吹いて流れてきた臭い煙が眼にしみて涙が出る。まるでゴミのようだ。世界がゴミのように人間をゴミのように燃やしている。そういえばフェンスの下にはゴミ捨て場があったんだ。当分、死体には困らないだろう。世界は赤く炎のように揺らめいて燃える。燃え続ける。

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