第3話

「あら、赤いアネモネね」

 二度目の大戦も終わった頃、私が持ち帰ってきた花に、兄に似た翠の瞳をきらめかせてソフィアが言った。

「あなたは花言葉なんて知らないでしょう」

 嬉しそうに妻が言う。

「知っている。君の兄上が教えてくれた。『はかない恋』『恋の苦しみ』、だろう?」

 私たちの間に沈黙が流れた。彼女も私も、還らぬひととなった彼のことを思い出したのだ。

 私が結婚の話をしてしばらくして、彼はかねてから誘いがあったらしいブレッチリーの政府暗号学校に勤め出して、私たちはばらばらになった。ドイツ人の父親を持つ彼は、その語学力を買われたのだろう。

 彼は私たちの結婚式にも新婦の兄なのに仕事が休めないとかで来なかったが、それでも不満を言うひとはいなかった。それからまもなく再び戦争が始まろうかというときで、彼の仕事の重要性は皆わかっていたからだ。

 そのあと彼は出張だかなにかで行ったロンドンで空襲に巻き込まれて、それきり帰ってこなかった。

「……アネモネの花言葉はそうだけど、色ごとに違う花言葉もあるのよ。私も兄上の受け売りだけど。

 赤いアネモネはね、…『君を愛す』」

 君を愛す……。

 これを私の胸元に挿したときの、コンラッドの眩しそうな顔を思い出した。それから一度きりの口づけ。思わせぶりな囁き。別れ際の震える手。まさか。

 たとえそうだとして、だからなにか、私たちの関係が変わったわけでもないだろう。いずれにしても私は結婚したのだし、私の親友は、戦争で喪われる運命だったのだから。わかっていたからといって私にできたことはなにもない。彼にもそれは充分にわかっていて、だから私になにも伝えなかったのだろう。

 なにかできたとしたらせいぜいあのとき、一度きりの情事に身を任せたかどうかくらいだ。私は別にどちらでもよかったけれど、私がどちらでもよかったことこそが彼を傷つけていたのではないかと、そのとき初めて思い至った。だからといって私にできることはやはり、思い返してもなにもなかったが。

 妻は懐かしそうにその赤い花を随分と長い間眺めていた。


 それから何十年か経って、こちらの世界より天の国に召された知り合いの方が多くなった。妻も息子も、あちらで私を待っていることだろう。そんな人生も悪くはなかった。

 それでも十一月になって街に戦没者を悼むポピーが溢れると、赤いアネモネを私の胸に挿した、兄のようだったひとを思い出す。私になにかできたわけではないのに、指先に刺さった木の棘のような、いつまでも取れない、目に見えない胸の痛みとともに。



_____________


読んでいただいてありがとうございます。

このお話に出てくる、アルバートのお父さんがkindleで出している「アフリカ夜想曲」の主人公になります。十歳くらいのアルバートとコンラッドもちょっとだけ出てきて、これはその外伝作品になります。

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赤い花の季節 楢川えりか @narakawaerica

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