家ない人間

あいと

ゴミ箱に頭突っ込んで死にそうになった若者の話。

 猫が遊びに来て人間が去る時間、午後9時。


 私は今、古めかしい年寄りたちと路上生活をしている。ここにいる若者は私以外にいない。



  生まれたての頃、父親が病死した。それから一年、母親は早々にうつ病になり、子供を育てる気力がないといって、一人娘の私を孤児院に入れた。


 孤児院の生活は辛かった。でも私は生きたかった。親から見放されてもなお、生きていたら、いつか何かしらの喜びと幸せが訪れるはずだと夢を見ていたのである。

 だから、外の世界に飛び出した。逃げ出した。あの閉じ込められた狭い空間では、温かいご飯や言葉を常にくれる人がいたが、私にとっては息苦しかった。綺麗な広い空気を直近で感じたくて出てきた今、この路地裏にいる。


 そして今本当なら、友人と遊び、恋人とはしゃぎ、進路に向けて精一杯勉強し、青春を謳歌する年ごろである。

ここは普段は静かだが、たまに猫の喧嘩する声や生きるおやじたちの怒声で騒がしいこともある。けれど私にとってここは、寒くて冷たい空気を感じる孤児院よりよっぽど良い空間だ。

 私はずっとここにいるだろう。古めかしい年寄りになるまで、白髪だらけで臭い匂いのする死んだ目の老婆になるまで、力尽きて死ぬまで。そう思っていた。



——————


 ああ、今日のご飯も食べかけのパンである。


 洒落た都会のゴミ箱とでもいうのだろうか。これは私の生活における、食の宝庫である。銀色のステンレスで作られたそれの蓋の隙間に、私の生活必需品であるクギの先端を入れて、かすかに浮き上がった蓋を押して開く。

 おそらくこのゴミ箱の蓋を開けるには、鍵が必要だ。だが私はこの町のゴミ収集をしている管理人でも何でもないため、鍵など持っているはずがない。

 だからいつも、こうして無理やり蓋をこじ開けている。


 このゴミ箱には、大抵一週間に5日という周期で、メロンパンの食べ残しが袋に入ったまま捨ててある。

 まともに食事をするための金銭が手元にいつもない私にとっては、これがなんともおいしいごちそうなのだ。他の路上生活をしている仲間になんて言った試しがない。言ったら、明日からは私のごちそうではなくなってしまうだろう。

 私よりも生活の知恵を持っている浪人がうじゃうじゃといるのだ、この食の宝庫を簡単に教えるはずがない。

 



 初めはもちろん、それを食べるつもりなど微塵もなかった。ゴミを、それも食べ残しのゴミを食べて、何か病気にかかって死にでもしたら、夜行性の生活で何とか生きるためにしてきた今までの努力も、なくなってしまうと思っていた。


 でも、疲れたんだ。あるとき、もう死んでもいいと思った。生きる希望を、いつの間にかなくしていたのである。



—————————


『私はいま何歳だ?』


ふとそう思った。すぐにわからなかったから、何時間も考えた。思い出せる限り数えてみた。でもわからなかった。私の誕生日も、気づいたら、両親の名前も忘れてしまっていた。私は何のために生きているのかも、わからなくなっていた。


いつのまにか私は、生きる希望を見失っていた。


だから、もう生きることをやめたいと思ったんだ。


 

 その日、猫が来た。整っている黒毛で飼い猫のようだったが、首輪はついてなかった。

猫は近くのゴミ箱の浅瀬を器用に漁り、食べかけのパンを見つけたら、それを口に咥えどこかに帰った。私の目には、その足取りが弾んでいて幸せそうに映る。

 

 私もその猫と同じようにしようと思って、顔をゴミ箱の口に突っ込んでみた。

そしたらそこに、あった、メロンパン。おいしくなさそうな黄緑色をした、食べかけのメロンパン。もう、明日気づいたら死んでいたとなるくらいなら、最後に菌だらけのごちそうでも食べて逝こうと思って、それを口に咥えた。このごちそうは、食べるまで絶対に口から離さないと心に決めた。ああ、猫みたいで笑えてくる。




 あれ、出れない。





 なんて馬鹿なんだろう、なんて阿保面してるんだ。

 メロンパンを食べることも、明日気づいたら死んでるということにもならず、ゴミ箱に頭を突っ込んで身動きが取れないこの惨めな姿で死ぬのか、私は。

 最後くらいはちゃんと朝日を浴びて寝てみたかったと思っていたが、それすらも叶わず終いなのか。


 私のような夜間生活をするホームレスは、昼間に街を歩いたら殺されると同等、警察に捕まるか通報される。朝日が出る前に木陰に忍び込まなければいけないと、誰もが教わり学んでいく。皆、生きるために隠れ続けてきたのだ。

私も、この生活を始めてからのこと、日の出を見たことなんて一度もなかった。だからせめて、最後にでも見ておきたかった。

それが、どんなに美しい光なのか思い出したいと、昔からそう思っていた。


けど無理そうである。一層のことこの阿呆面が、明日の朝刊新聞に載ってたりしたらいいな。私の存在を無名の誰かに知ってもらえたら、不幸中の幸いだ。




死ぬための心の準備を、ゴミ箱の異臭に鼻を慣らしながらしていたとき、ちょうど後ろから声がした。


「何してるの、おねえさん。」


小さな子どもの声だった。これは生きるための、最後のチャンスだろうか。

助けてもらうか、無視するか。この二つの選択肢を目の前に出されたら、助けてもらいたいに決まっている。


“助けて”


そう言おうとした。だけど、声が出ない。

私の体は、思っていた以上に弱っているのだろうか。そんなことはないはずなのに。

するとその少年は、あの重いゴミ箱を、私の頭上に一人で持ち上げた。当然頭は入ったままである。痛い。

彼なりに助けてくれているのだろうが、ありがたいことに少しも頭は抜けそうにない。重い箱が、ずっしり首に来る。今度こそ私は死ぬ。首が折れそう。



「おねえさん、ちょっと待ってて。僕が助ける。

 僕、ゴミ箱の開け方を知っているから。

 きのう、ゴミ収集車の人に教えてもらったの。すぐ終わるよ。」



“ありがとう”



そう言いたかったけど、先と同様声が出るようになるはずもない。

ましてやゴミ箱は頭の上にあって、さっきより痛い。

少年は鼻をすすりながら、隣でガチャガチャ音を立てて作業をしてくれている。

私が寝ていたほうがやりやすいと言われたから横になったら、重さはずんとなくなって、命拾いをしたと思った。


「あと少しで終わるよ。あのね、僕、おねえさんに顔を見せたくない。

 だから、最後の一押しはおばちゃんが自分でやってね。

 もう、行くね。左の手で上に蓋を持ち上げたら顔を出せると思う。

 僕の足音が聞こえなくなったら、そうして。お願い。」


うなずく力も声を出す力ももうない。だけど少年は、こういった。


「じゃあね、おねえさん。」





足音が消えていく。



最後の力を左手に込めて、ゴミ箱の蓋を持ち上げてみる。

たぶんこれをし終えたら、私は力尽きて明日には死んでいるかなと思った。




 ゴミ箱からやっとの思いで顔を出す。出せた。

 朝刊新聞に載るチャンスは、これでもうなくなった。


 そこに見えた世界は、光に満ちていた。


 高層ビルの隙間から、微かに、でも確かに、地平線を照らしている太陽の光は、あの世への道を示しているようで、最後の希望のようにも感じられた。


眩しい。そして、美しい。






気づいたら私は、咥えていたメロンパンをアスファルトの上に落とし、足を崩して泣いていた。


「ありがとう」


声は出せないはずだったのに、ふいに出た、

私は馬鹿だ。今気づいたのだが、ゴミ箱から抜け出せなかったときメロンパンを口にずっと咥えていたから、それは声が出ないも仕方がなかったのである。




まずそうな黄緑色をしていたはずの食べかけメロンパンは、アスファルトの上で無様に日の光に照らされ、綺麗なオレンジ色に染まっている。





おいしい。





――――—————


私はその日から毎晩、メロンパンを食べ続けている。

ゴミ箱の蓋は、その後3日ほど自分で試してみつけた、隙間にクギを入れるやりかたで開けている。



あの日以来一度も、朝日を見ていない。

そして、あの日以来いつも、全く同じ形の食べかけのメロンパンが、ゴミ箱に入ってくれている。


顔も知らないあの少年は、私の命の恩人である。

もうそろそろ、また会ってもいい時期ではないだろうかと思うのだが、あれからおよそ一年半、一向に現れる気配を感じない。





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