Von Berlin Nach Paris

宮﨑

Von Berlin

裏通りから停車場前の広場に出ると、強烈な夏の陽光に視界を奪われた。手を翳すと、光に慣れてきた両眼に熱気に包まれた集団が見えてくる。真新しく、躰に馴染んでいない軍服に身を包み、眼には希望と高揚を宿した若者たち。僕と同じ服を着た未来の戦友が、彼らだった。そうだ、ぼくはこれからフランスに行くのだ。戦争に行くのだ。未だ実感はない。あるのはある種の浮遊感というべきか。高揚と不安に彩られた幼い感情だった。


故郷を離れ、倒すべき敵を倒し、英雄として凱旋する。そんな類の英雄譚に憧れるのは僕らの性だった。友人の中には「オデュッセイア」や「ガリア戦記」を愛読するような教養ある奴もいるけれど、ぼくを含めた大半が大衆小説や、活劇映画の題材になるような陳腐な冒険に憧れていた。

それは非日常が僕らに必要だったからだ。

学校シューレで壊れたレコードのようなカントの話を聞かされる日常に、僕らは飽きていた。

毎日、代わり映えのしない親の仕事を夜が更けるまで手伝う日常に、僕らは飽きていた。

年齢を重ねるにつれて夢を失い、自らの社会階層を思い知らされる日常に、僕ら飽きていた。

だから僕らは、この熱狂の渦を歓迎した。隣国の皇位継承者夫妻に向かって放たれた幾発かの銃弾が、その発端だった。今でも鮮明に覚えている。新聞の売り子がありたけの号外を抱えて大通りを駆け回り、老若男女あらゆる眼が新聞に釘付けになっていた。興奮と熱狂が周囲を覆い、いつも寡黙な父が顔を紅潮させ、友人と何やら話し込んでいた。母はいつものように井戸端会議の議員となっていたが、議題は世間話とはかけ離れて物騒なものになっていた。

「戦争だ!」

みんなが口々に口走った。その刺激的で甘美な響きに皆が打ち震えた。

僕たちは戦争が何か知らない。前の戦争は40年も前で、まだこの国が統一されていなかった頃の話だ。だから、僕たちにはこの熱狂の渦を素直に受け止めることが出来た。「なぜ兵士に志願したのか」なんて野暮な質問だ。僕らにはその道しか無かったのだ。それが自然な行動だった。徴兵検査を受けない者は居なかった。町の祭りに参加するのに理由がいるだろうか?戦争は僕たちにとって最高の冒険であり、英雄譚であり、非日常だった。猫も杓子も兵士になりたがったし、その受け皿は存分に空いていた。


そんな非日常に浮かれた若者代表が僕だった。代わり映えしない学校生活に飽き、印刷工である父を手伝うインク塗れの毎日が、戦争で劇的に変わった。何でも良かったのだ。閉鎖的な日常を変えてくれる何かであれば。たまたまフランツ・フェルディナントと妻ゾフィーの結婚記念日が、コソボの戦いでセルビアがトルコ人に惨敗した記念日だったから、それが戦争になっただけの話だ。開戦してから今まで見てもいなかった新聞を読み始め、戦争のニュースを必死に漁った。毎日町役場に通い詰め、徴兵検査を告知するチラシを喰い入るように見つめていた。勿論、僕が特別だった訳では無い。それが僕ら世代の普通の姿だった。


そうして、僕はフランスに向かう列車が乗り付けた停車場にいる。帝都ベルリンの端にあるこの停車場がかつてない活況を見せている。簡潔すぎる訓練を終えたばかりの僕ら赤ちゃん兵士たちが、髭面の貴族ユンカー士官に引き連れられてフランスに出陣するのだ。

僕はと言えば、おろし立てで象皮のように硬い軍服の中に包まれて、一番大きい小麦粉袋より重い背嚢を背に、3号車の窓際席に放り込まれていた。周りの兵士たちは殆どが同世代の新兵で、興奮と緊張に溢れた若い顔を多すぎる荷物の間から覗かせていた。皆学校を卒業したばかりの青白い顔には期待と同時に不安が見え隠れしており、思い思いの方法で気を紛らわせようとしていた。目の前の痩せ型は母親が作ったであろう馬鈴薯のケーキをほうばっているし、隣の小太りは皇帝カイゼル陛下からの下賜品である煙草入れを一心不乱に磨いている。他のコンパーメントに眼を向ければ、更なる混沌が広がっていた。話が整列歩兵の一斉射のように弾んでいる集団もあれば、話しかける機会を互いに失って日曜礼拝のような静寂に包まれている集団もあった。たまに見かける古参兵は、雲雀のように囀る新兵たちをなじって遊ぶか、完全な無視を決め込んで、煙草を蒸していた。

そんな蒸し暑い車内で、手持ち無沙汰にしていた僕に、斜向かいの男がザクセン訛りで話しかけて来た。

「おい、この列車が新聞で何て呼ばれてるか知ってるか」

彼の瞳は解説したい、という欲望に満ちて蘭々と輝いている。僕は持ち合わせている最大限の会話能力を発動した。つまり、相手に合わせるという能力。

知らないよ、と答えると案の定、彼は捲し立てた。

「ベルリン特急パリ行き、だよ。皇帝カイゼル陛下の勅書にあっただろ。速やかにパリを陥せ、ってな。それにかけた洒落さ」

僕は返事に困って曖昧に微笑み、すごい、と適当な返事をした。その勅書が載った新聞は既に読んでいたし、この列車ふざけた渾名も知っていたからだ。だが、相手にそれを伝える勇気もなかった。僕の反応が期待通りでは無かったらしい。男は失望したような顔をして別のコンパーメントに移動した。その後ろ姿を見ながら、僕の関心は勇ましいこの列車の渾名ではなく、違う方向へと移っていた。

いつ帰れるのだろうか。いつ戦争は終わるのだろうか。そういう関心だ。勿論、戦争という非日常への熱狂が僕の心から消えた訳ではなかったし、あまりに早くこの冒険が終わってしまうのも困る。だが、あまりに長く—3,4年も非日常が続くのは話が別だ。人間というのは不思議なもので、どんなに無知で夢見がちであっても必ずどこか現実的な面がある。僕らは熱狂と興奮の渦中に居たけれど、心の片隅には冷静な部分もあって、ちょっとだけ現実を見ていた。仕事を継がなければならない。親の面倒を見なければならない、と。戦争は僕らにとってあくまで非日常の祭りであって、日常になっては困るのだ。故郷を出発した主人公が故郷に帰還してこその冒険小説なのだから。

皇帝カイゼル陛下はこの前の訓示演説で、「諸君らは木枯らしの吹く前には家に帰るだろう」と仰っていた。僕ら若者は複雑な反抗者でもあったが、単純な服従者にもなり得る。普段は社会に反抗的な僕らも、いざとなると国家に、この祖国ドイツに絶対の信頼を置いていた。考えてみればロシアの皇帝ツァーリも、フランスの大統領プレジダンも、イギリスの首相プライムミニスターも、すぐ勝てる、すぐ戦争は終わると言っているだろうから、何も皇帝カイゼルだけが正しいという根拠は無いのだ。でも僕らは信じるしかなかった。だから、この戦争も冬には終わるだろう、と単純に考えた。冬には非日常は終わり、僕はパリからベルリンに帰る。そして代わり映えのしない日常が少しでも、何か良い方向に、変化が起きていると期待して。

唐突にベルが鳴り響いた。発車準備が完了したようだ。ホームには兵士たちの肉親や、この機会に目立とうする地元の名士たち、それに野次馬が集まって混沌としている。若い兵士たちは窓から身を乗り出し、母親と別れの抱擁を交わしたり、差し入れを受け取ったりしている。そこに僕の両親の姿はない。特段仲が悪い訳ではないのだが、気恥ずかしくて来なくていい、と言ってしまったのだ。両親も仕事が大量に舞い込んで忙しく、ぼくの出立にあまり関心を払っていなかった。自分で言ったこととは言え、自分を見送るものがいないというのは寂しいものだ。そんな暗澹な気分に沈んでいた時だった。窓枠に肘を乗せ、ぼんやりとホームの群衆を眺めていた僕の視界に、1人の少女が飛び込んで来た。

近所に住む名前も知らない少女だ。彼女は学校の帰り道にある花屋の娘で、笑顔が可憐なこの少女に、月並みな表現で言えば僕は恋をしていた。しかし、一年で4人の彼女を作ったペーターならいざ知らず、女の子に話しかけた経験さえ数えるほどしかない僕は、毎日彼女が店頭で働くのを盗み見ながら名前を聞くことさえ出来ずにいた。

そんな臆病な男に幸運が訪れた。戦争に行く、という特殊な状況に浮かれていたのもあったのだが、いよいよ列車が動き出す、という段階になって、僕は人生最大の勇気を振り絞ることが出来た。

「君!」

親戚かはたまたボーイフレンドか。誰かを見送った後であろう彼女は、困惑気味に自分を読んだ誰かを探して振り向いた。僕は力の限り手を振った。勢い余って軍帽ピッケルハウベが頭からずり落ちるのも構わなかった。

彼女は僕を見つけると自分を指差して怪訝そうにした。見ず知らずの男がいきなり話しかけて来たのだから当然だろう。僕は全力で首を縦に振った。愛の告白か、逢引の誘いか。何を彼女に語るべきか。僕の頭は真っ白になっていた。心臓はかつてない速さで早鐘を打っている。その間に甲高い警笛が鳴り、ベルリン発パリ行は無情にも動き出した。兵士たちが歓声を上げ、群衆がそれに応える。列車が軋み、その巨体が徐々に速度を上げてゆく、その刹那。もう間に合わない、そう思った僕は心からの言葉を叫んでいた。


「クリスマスに、また!」




<ベルリン発パリ行 了>

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