後編

 その年、一人のシンガーが亡くなった。薬物の過剰摂取という、いつか耳にしたこともある死因だが、普段なら気にも留めなかったであろうそのニュースに私が興味を持ったのは、彼女の享年が二十七歳であったからだ。27クラブ、有り余る才能を抱えたミュージシャンがまた一人逝ってしまった。私は彼女の生い立ちや音楽活動について私は何も知らないが、彼女の成し遂げた偉大な功績と、それにもかかわらず死に導かれてしまったその弱さに哀悼の意を表したい。

 どうか彼女が安らかに眠れますように。


 ♢


 高校を卒業してからの数年間を思い返してみると、それはなんとも味気ないものだった。大学に進学した私はその四年間をそれなりに楽しく過ごした。恋人もできて人を愛し愛されることの喜びも知った。ゼミ、アルバイトと忙しない日々を送り、あの日夏葉に話したとおりそこそこの企業に就職し大学生としての四年間は幕を閉じた。

 限りなく続くと思っていた私の十代はいつの間にか幕を閉じ、その足早に過ぎてゆく時間の中で私の目に映るものはどれも無感動で無意味なものに変わっていった。こうして誰もが大人に近づいていくのだろう。今隣にいる彼は何を見て育ってきたのだろう。高校生の頃には私にとっての夏葉のような友達がいたのだろうか。彼の目に私はどう映って見えるのだろう。

 そういえば夏葉ともしばらく連絡をとっていないな。今夜メールを送ってみようかな。夏葉も私と同じように社会人になって、いい人を見つけて幸せに過ごしているのだろうか。そうだったらいいな。いま夏葉の隣にはどんな人がいてどんな愛の言葉を囁いているんだろう。彼女、察しの悪いところがあるから気持ちはちゃんと伝えてあげないと。そこをちゃんとわかっている人だといいな。夏葉……。


 ある日書店で何気なく手に取った音楽雑誌に夏葉が写っていた。一ページ程度であったが、新進気鋭の若手音楽家という見出しで書かれたその特集にはいかに彼女が才能に満ち溢れ、どのようなシンデレラストーリーを描き夢を掴んだが書かれている。名前は芸名で、挿し込まれた写真には加工がなされ風貌はわかりにくくされていたが、それは間違いなく夏葉だった。その横顔はどこか泡沫のように儚い。

 おめでとう夏葉。心の中でそっと祝福を送る。


 彼がプロポーズをしてくれたのはやはり就職をして三年目の夏のことだった。結局、高校卒業後の私の人生はあの日私が夏葉に話した通りのものになった。高校生の私にすら想像のつくような人生。結局私はどこまでも平凡な人間で、夏葉と過ごしたあの奇跡のように美しい時間は私の幼さが見せた夏の魔法だったのだ。

 私はこのプロポーズを素直に受け入れた。


 夏葉と再会したのは、ある友人の結婚式でのことだった。

「ひさしぶりー」

「元気してたー?」

「茉莉、あんた全然かわってないわね」

 久々に会う友人たちとの儀礼的な会話もそこそこに、式と披露宴はつつがなく進む。幸福な男女を見遣り、私もそのうち同じ場所に立つのだと考えてみたが、とても想像がつかなかったし、どこか現実的じゃなく馬鹿げていると思えた。それでもふたりはやはり幸福そうだったし周りの人間も必死にその幸福を演出していた。

 気づけば私は二次会の席にいた。幸福な男女とそれを祝福する者、それをうらやむ者、考え無しにはしゃぐ愚か者。人々の様々な思いが入り混じる熱に当てられ、そこにアルコールが入ったせいもあり私は盛大に酔った。視界が歪み胃の底から吐き気がこみ上げてくる。トイレに行かなきゃ、頭では分かっているのに足は思うように動かず廊下の隅にへたりこんでしまった。意識まで朦朧としてくる。

 そうしていると不意に私の肩を抱える感触と懐かしい匂いがした。

「茉莉、あんた酔いすぎ。そんなに楽しかったの? まあ深いことは訊かないけど」

「夏葉、あなたどうして……」

 それは紛れもない夏葉だった。ショートに切り揃えた髪と切れ長な薄い目、夏の匂いはあの頃と変わらない、紛れもない夏葉が私を抱き抱えていた。

「新郎のほうがちょっとした知り合いで、二次会だけでもと思って来たんだけど、そしたらあんたが倒れてるんだもん。ビックリしちゃうよ」

 懐かしい夏葉の声だ、夏葉……。

「夏葉、私あなたにずっと言いたかったことが……うっ、吐きそう……」

「わーっ! もうちょっとでトイレだからあと少し我慢して!」


 夏葉の前で醜態を晒してしまったのは気恥ずかしかったが、思えば私は今まで夏葉のためにたくさんの水分を流したのだ。今も昔も。いまさらどうと言うこともない。

 私は二次会の会場で二回、自宅からの最寄駅のトイレで一回の計三回吐き、夏葉に担がれながらまだ灯りの落ちない繁華街を歩いた。

「夏葉とこうしてると高校時代を思い出すね」

「そうね。あの神社、まだちゃんと残っているかな……、ってあんた、もっとちゃんと歩きなさいよ」

 夏葉の右側を歩く。最後に会ってからもうどれくらい経つのだろう。計算してみるがアルコールに侵された私の頭ではそれすらもままならない。とにかく、あの頃と変わらない夏葉が隣にいる、それだけで私の心は高揚感に包まれた。

 ふと気になってスマートフォンを開くとメールの受信が一件。飲み過ぎたので今日は友達の家に泊まる、と書いてある。彼は彼で楽しんでいるようだ。

 私の住むマンションに着く。大学を卒業して就職した時に彼と一緒に借りた賃貸マンションの六階。就職で実家を出るとなった時にせっかくなら一緒に住もうと彼が提案したのだ。その唐突さには面食らったが、人生とはそういうものなのだろうと納得し、それに、この代わり映えのしない日常が大きく変わるかもしれないという期待もあって、私はそれを承諾した。

 彼と暮らしたのは正解だった。企業の一員として働く責任感、上司からの度重なる叱責、増え続ける残業、かつて味わったことのないストレスに晒されて心が擦り切れていったが、この三年間を乗り越えられたのは彼の存在によるところが大きかった。沈んだ気持ちで帰宅しても、部屋に明かりがついていて彼が待っている、それだけで幸せな気持ちになれた。

 部屋に入るなりベッドの上に転がり込む。彼と私の匂いが染み付いたベッド。どんなに辛いことがあってもこの匂いに包まれるだけで明日を頑張ろうと思えた。自分の居場所がちゃんと用意されていることに安心できた。

 でもどうしてだろう。今は、心がざわつく。この三年間で築いた居場所を、培った思いを根底から揺るがすようなざわめきが、清浄な泉にインクを一滴落としたように心に拡がってゆく。

「ちょっと茉莉、せめてドレスくらい脱ぎなさいよ。シワになるよ?」

 そう言って私を抱き抱えると、香水の香りとほんの少し汗の匂いがした。焼きたてのパンのような懐かしい夏の香り。彼とは違う、夏葉の、女性の匂い。

 ソファに私を座らせて水を持ってきてくれる。水道水をそのまま注いだものだったけどこの際気にしない。それを一気に飲み干す私を見て夏葉が言う。

「じゃあ私もう帰るから、ちゃんと着替えて、水もたくさん飲んでから寝なさいね」

「やだ……、ほら、冷蔵庫にお酒ちょっとあるから飲み直そうよ。久しぶりに会ったんだし」

「茉莉、あなた自分がどんな状態かわかって言ってるの?」

 言い返す言葉もない。それでも、とにかく私は夏葉を引き留めることに必死だった。どうしてだろう。

「だって、せっかく久々に会えたのにまだ全然話できてないじゃん。あっ、そうそう、夏葉の曲聴いたよ。この前出したソロデビュー曲」

「えっ……」

「私、音楽には疎いけどたまたま雑誌で見つけたの。ちゃんと夢を掴んだんだね、おめでとう、夏葉」

「そう……、ありがとう。大学生の頃にネットにアップした曲がたまたまヒットして、それからなんとか音楽で生活できるくらいにはなったんだけど、まさか、茉莉にまで届いてるとは思わなかった……」

 そう語る夏葉の口調は歯切れが悪く表情も浮かないように見えた。

「デビュー曲すごくよかったよ。高校生の頃と変わらない素敵な歌声で、それ以上に上手くなっていて、歌詞も切なくて……」

 それは喪われた恋の歌。ずっと続くと思っていた夢の続きをかき消すような理不尽さと、何もできなかった自分への後悔。その悲痛さに思わず高校生の頃の自分を重ねて涙するような。夏葉はどんなことを思ってこの曲を作ったのだろう。同じ夏の魔法の中にいたあの日の夏葉。

「夏葉、あの歌、歌って……」

 その時、夏葉の腕が私の身体を抱き寄せ、私の肩に顔を埋めて囁く。温かい感触が湿り気となり私の肩に広がる。

「ごめん、少しだけこうさせて。すぐ収まると思うから」

「夏葉……、泣いてるの?」

 夏葉の細く肉のついていない腰に手を回す。涙を引き金に、あの卒業式の日の光景がフラッシュバックする。五時の急行がかき消した夏葉の涙を思い出して、私は気づいてしまったのだ。ずっと昔に過ぎ去っていったはずの感情に。夏の魔法は魔法なんかじゃなかったということに。

「私、怖いの、この世界も、これからの未来も、私自身が大人になって変わっていくことさえも。見たくないものばかりがどんどん増えてきて、本当に見たいものが見つけられなくなってしまうみたいで、このまま茉莉と過ごした日々さえもただの思い出になってしまいそうで、それが怖くてたまらないの」

 夏葉の独白は弱々しくて小さくて情けなくて、あの日図書館で夢を語っていた時の夏葉とは違っていた。夏葉が変わったわけじゃない。見えてくる世界が広がるというのは苦痛を伴うことだ。お互いそのことに気づくだけ歳をとっただけの話。

 でも、私の夏葉への想いもやはり変わらない。あの頃からずっと好きでどうしようもなくて、でもそれに気づかないふりをずっとしていたのだ。

「大丈夫だよ、夏葉。今目を開けて見えるのは私の顔だけだから」

 目の前にある夏葉の顔を慈しむように眺める。その瞳の奥に、あの日駅の改札で見失った十八歳の夏葉がいる。あの日伝えられなかった感情が唐突に湧き上がり、私は夏葉のその柔らかい唇にキスをしていた。

 長いキスだった。時間の流れがその役目を忘れてこの一瞬を祝福してくれているようなそんなキスだ。夏葉はどんな顔をしているのだろう。驚いているだろうか、怒るだろうか。これから先の平穏な未来。全部どうでもいい。あの日をやり直せるなら、あの時断たれてしまった夢の続きを現実にできるなら、もう何もかもどうでもよかった。

「夏葉、私あなたのことが好き。友達としてじゃなくて、それ以上の好き」


 ♢


 夏葉と私の関係に名前をつけるとしたら一体何になるだろう。友達? 恋人? 意味をつけるとしたら何になるだろう? 私達の関係性は言葉で表せるほど単純なものじゃないはずだ。

 私のもとに送られてきた一本のメール。それに添付された一曲の音源ファイル。これを聴いて私は何を思うだろう。怖かった。これを聴くことで私達の関係性がありきたりな言葉で表されてしまうのではないか。それだけは嫌だった。よくある悲劇の一つとして片づけられたくなかった。それでも私はこれを聴かなければいけないのだろう。夏葉の残したこの曲を。

「ねえ、夏葉、週末は久しぶりに神社に行ってみようか。私達の思い出の場所」


 ♢

 

 夏葉と私がこのマンションの一室で暮らし始めてから、そろそろ一年が経つ。長雨が終わり、太陽がその微睡みの中で自分の存在意義をようやく思い出し始めたような、そんな八月の初め。

「ただいまぁ。あ、今日はパスタ?」

「うん、シメジとほうれん草のクリームパスタ」

「いいねえ。私キノコもほうれん草もクリームも茉莉も大好き!」

「うん。夏葉の好みはちゃんと把握してます」

 ちょうどパスタが茹で上がったところで夏葉が帰ってくる。その表情はどこか無理をしているように見える。夏葉にシャワーを浴びるように促し夕食の準備を進めると、ちょうど支度を終えた頃にいい匂いをさせた夏葉が戻ってくる。

「ふーさっぱり。わーいい匂い。食べよ食べよ」

「はいはい、いま準備するから、そうがっつかないの」


 結局、私は彼のプロポーズを断り、今こうして夏葉と暮らしている。彼との学生時代に始まる五年分の思い出は、夏葉と過ごした一年間の中で消化されてしまうほど呆気ないものだった。でも仕方ないのだ。今では、彼の人生における五年間を無駄にしてしまったことへの罪悪感が少し残るだけだ。あれほどまでに心の大部分を占めていた彼との生活は、夏葉への思いという感情の洪水の前には砂上の楼閣だった。

 私は今まで働いていた会社を辞め、その頃の経験とコネクションを活用して今はフリーのライターとして働いている。可能な限り家にいる時間を増やして夏葉のサポートをしたいと思った。一緒にいる時間をできる限り増やしたいと思った。まるで卒業式から今に至るまでの空白を取り戻すように。

 夏葉はあれから楽曲を出すたびに知名度を勝ち得てゆき、途絶えない仕事の依頼に忙殺されている。今はファーストアルバムの製作にかかっており、レコーディングスタジオに籠る生活が続いているのだが、こうして毎日ちゃんと帰って夕飯を一緒に食べてくれる。

 結婚のような明確な目的は無いけれど、私は夏葉と一緒にいられるだけで幸せだった。互いに思いを通じ合わせるだけでそれ以上何もいらなかった。毎日夏葉の帰りを待ち一緒に夕飯を食べる。週に一度図書館に行き一緒に音楽を聴く。月に一度電車に乗り一緒に海を見る。平凡さを心のどこかで恐れていた私が、今はそれを心から望んでいる。こんな生活が一生続くと信じて疑わなかったし、夏葉も同じ気持ちだろうと思っていた。

 でも、最近少しだけその気持ちに不穏な影の存在を感じ始めている。

「仕事はどう? 順調?」

「ううん、だいぶ難産。書きたいものはちゃんとあって、それを形に出来る優秀なスタッフ達もいる。でも肝心の私自身がダメ。文字にした瞬間、形にした瞬間にそれが本当に自分が書きたいものなのかどうかわからなくなる……」

 あの頃、夏葉にとって音楽は日常を抜け出すための翼だった。大空を羽ばたく夏葉に少しでも近づきたくて必死に手を伸ばしたけれど、どうしようもなかった私。凡人である私は結局地に足をつけて生きることしかできないとはっきりわかっていた。それじゃあ今の夏葉にとっての音楽って一体なに? 夏葉にとっての音楽が翼なら、夏葉は何から飛び立とうとしているのだろう。そんなこと思いたくないけど、もしかして私は夏葉の翼を捥いで地上に引きずり下ろしてしまったのではないか。そんな不穏な感情が少しずつ、でも確実に私の心を蝕んでいた。


 その夜、私たちはベッドの中で激しく抱き合った。私達の身体がバラバラに解けて互いに絡み合い、どこまでも深い快感と痛みを伴って夜の底に落ちていった。

「ごめん茉莉、こんな風にするつもりじゃなかったんだ」

「ううん、いいの。私には何もないから、あなたが私を満たしてくれて、それであなたも満たされるなら、それでいいの」

 私の腕に寄り添いながらすすり泣く夏葉の声を聴きながら深い眠りに落ちた。


 朝、目を覚ますと夏葉の姿は既になかった。キッチンには私のために朝食が用意されていて、夏葉の繊細な文字で書き置きがあった。

──楽曲のアイデアが思いついたので今日は早くスタジオに行きます。今日中に仕上げたいので夜は帰れないかもしれません。茉莉、愛してる──


 書き置きのとおり、その日、夏葉は帰ってこなかった。それが二日、三日と続くと得体の知れない不安が生まれる。楽曲の製作中、夏葉が帰らないことは度々あったが、いつもちゃんと連絡をくれた。今回はそれがない。不安で頭が綯い交ぜになってどうしようもなくなってきた頃、スマートフォンに着信があった。不吉な音を立てて鳴動するスマートフォン。それは夏葉からではなく、夏葉の母親からだった。

 夏葉の母親と私は折り合いが悪かった。普通の人生を送らせたかったであろう娘を女である私が奪い、そのレールを逸脱させた。恨まれてさえいただろう。その彼女がなぜ、このタイミングで電話をかけてくるのだ。その得体の知れない不吉さに心臓が激しく鼓動し冷や汗が滲み出る。スマートフォンを取り落としそうになりながら、手の震えを抑えて電話にでる。

「はい、雨宮ですが……」

 

 それからの数日は現実感が無く、未だにあれは夢だったのではないかと錯覚する。スタジオに入り二日目にレコーディングメンバーの一人が倒れている夏葉を発見したそうだ。こうなって初めて知ったのだが、夏葉は生まれつき心臓に欠陥を抱えており、それがたまたま夏葉ひとりの時に牙を剥いた、ということだ。彼女が私にそれを教えてくれたことはなかった。

 夏葉にとって音楽は翼だと言ったが今となっては笑えない冗談だ。大空を羽ばたく夏葉はそのまま私の手の届かないところまで行ってしまった。

 彼女はいつから自分の死期を察していたのだろう……。


 私はかつて祖母と祖父の二回、葬儀に出席したことがあるが、それらとはとても比較にならないくらい沈鬱として悲壮を感じさせるものだった。人が若くして死ぬというのは人類が綿々と受け継いできた生命の理を覆すことなのだと、その時初めて実感として理解した。

 私はその耐え難い悲しみからひたすら目を背けた。私の涙は夏葉のために流されるべきで、夏葉のいなくなった今、それはとても無意味なものに思えた。すべての外的な圧力をシャットアウトして、感情は殺した。

 それでも、取り乱した夏葉の母が憎悪に満ちた目で──その切れ長で少し意地の悪そうな目は夏葉のそれを思い出させた──私に言ったあの言葉を、私は一生忘れないだろう。夏葉があなたと出会ってさえいなければ、と。

 私には病気を持つ娘を持った母親の気持ちはわからなかった。でも、夏葉は精一杯生きた、私の存在には関係なく、彼女は自分の仕事に、気持ちに、昔も今も精一杯向き合って生きていた、そのことだけはわかっていた。親がそれを信じられなくてどうする。

 でも、私の言葉は陳腐だ。私自身はどれだけ夏葉に向き合えたのだろうか。夏葉の抱えていた苦しみにどこまで向き合って、考えてあげられたのだろう、そう思うと何も言い返せなかった。

 

 夏葉の遺品を整理している時、これからも続いていくであろう夏葉のいない人生を思い、その絶望に目眩をおぼえた。コップに並んだ歯ブラシ、白いブラウス、誕生日にプレゼントしたイヤリング、彼女が集めていたオルタナティブロックのCD、それら夏葉の残した生活の残滓が彼女の不在を雄弁に物語っていた。

「ねえ夏葉、どうして……」

 夏葉のいないこれからの人生、その不条理さを呪い、私は今まで仕舞い込んでいた涙を初めて流した。彼女の枕に顔をうずめて声を殺した。焼きたてのパンのような夏の匂いがして、それをもう二度と嗅ぐことができないのかと思うと心が張り裂けそうになり、夏葉の存在の残り香を抱きしめるように枕に顔を押し付けた。

 夏葉の母親の言葉が呪いのように私の心を蝕んでゆく。夏葉と同じ場所に行きたいと手を伸ばした私は、夏葉を地上に引きずり下ろしてしまったのではないか。ねえ夏葉、そんなことないって、いつもの意地悪そうな笑顔でそう言ってよ。

 それでも夏葉はもういなくて、残り香だけはそこにあって、その空虚を埋めたくて、あれだけ必死にこらえていた涙をマンションの一室に溢れさせた。


 どれだけの時間が経っただろう。窓の外は薄暗く日中の暑さも幾分和らいでいる。窓から差し込む夕日が空気中に舞う塵を円錐形に切り取ってこの部屋を茜色に染めた。下校中の小学生の声と郵便配達のバイクが鳴らすエンジン音だけが聞こえてくる中、不意にメールの受信音が響く。

 誰からだろう。思えば大学を卒業してからのこの数年間、メールでやりとりをしていたのは、業務関係を除くと彼と夏葉くらいだった。夏葉の死後、私の気持ちを案じた両親や、どこから聞きつけたのか高校の時の同級生達が連絡を寄越してきたが今ではそれもめっきりなくなった。

 彼らにとっては知り合いの生き死にですら、つまらない日常を面白くするためのエンターテインメントでしかなく、そんなものは一週間もあれば別のニュースに取って代わる。

 別に誰だっていい、今はそんな気分じゃない。


 夏葉の死は数多の音楽ファンを驚きと悲しみに包んだ。彼女の才能はこのあまりにも脆く崩れやすい現代社会を生きる彼らの心に必要なエッセンスの一つだった。

 でも、夏葉のファンがどれだけ悲しもうと、今世界で一番悲しんでいるのは他ならない私だ。世界中の誰よりも私が一番のファンだ。SNSの夏葉のアカウントは無神経な哀悼の言葉で埋め尽くされている。どのコメントも心から夏葉の死を惜しみ、悔やんでいるように見える。悔しかった。悲しかった。安全な場所で悲しみ、嘆き、SNSにお悔やみのポエムを打ち込んで自分に酔えるその神経が心底羨ましい。

 思わずスマートフォンを投げつける。壁のクロスがへこむ鈍い音とガラスの割れる甲高い音が混ざり、今まで聞いたことのないような醜い音を立てる。それを聞きつけたであろう隣人がチャイムを鳴らす。その耳障りなインターフォンを殴りつけると音は止み私の右手が血に染まった。その痛みがこの悲しみを、心の空虚を少しでも埋めてくれればと思ったけど、ただ惨めさが増すだけだった。

 その時、メールのまるで場違いな明るい受信音が響く。

 誰だろうさっきから。蜘蛛の巣状にヒビの入った表面をフリックする。

 私の目は画面に釘づけになり、指先が震えてスマートフォンを取り落としそうになる。手の痛みのせいじゃない。画面に映るその名前に、丸く切り取られたアイコンのあなたに、まるで全身が心臓になったように震え高鳴っていた。私が青春のすべてをかけて恋焦がれ、そのすべてをもってしても空気のように掴めなかった私の愛する人。


「ハロー茉莉、おひさしぶり。こうやってメールを送るのも久々ね」

 

 夏葉からだった。


 ♢


「ようやく追いついたね」

「うん。茉莉、今までありがとう。こんなに私を思ってくれて」

「それは私も同じだよ夏葉。あなたがいなきゃ私はきっとここまで来れなかった」

 私は八月の遊歩道を、もう十年以上繰り返し歩いた神社に続く道を歩いている。左手にはスマートフォン、右手にはブルートゥーススピーカー。街を歩くには少し奇妙な取り合わせだが、この雄大な空の青さに免じて許してほしい。


 製作途中だったアルバムは、彼女の歌録りを終えたものをかき集め、残されたレコーディングメンバーとエンジニアによって形になった。彼らがその才能の損失を嘆き、苦しみながらも必死に形にしたアルバムは、CDが売れない時代における異例のヒットとなり、今まで音楽通の間だけにとどまっていた夏葉の知名度は瞬く間に日本中に浸透していった。そこに夏葉の意思がどれだけ含まれているかはわからないけど、夏葉の歌が世に出て、数多くの人が喜び、嘆き、感情を昂らせる、その事実を十七歳の夏葉に伝えたかった。

 そこに含まれなかった一曲が、今私の手元にある。それは普遍的な愛の曲かもしれない。あるいは個人的な思いを綴ったものかもしれない。あの日、夏葉が最後に書いた曲。とにかくその曲は世間に消費されることなく、私のもとで再生される時を待っていた。


 街は変わらない。あの日歩いた遊歩道、ファッションビルの図書館、ふたり過ごした神社、それら全部が淡い思い出を写しとったようにまだそこにある。ただ、あなただけがいない。


 石段を上る。シロツメクサは陽光を反射して輝いている。振り返った街並みは十年分の時を経てあの頃よりも輝いて見えた。私の住む世界はこんなにも美しくて、やはりこんなにも自由だ。

 拝殿の階段に座ると、音叉を取り出してチューニングをする夏葉の姿がよみがえる。制汗剤の涼しい匂い。見上げれば雄大な深い青色。絶好の野外ライブ日和。

「じゃあ始めようか。これで最後の曲。アンコールももう終わりだ」

「うん、お願い夏葉、最後の曲、聴かせて」

 再生ボタンを押す。ギターのストロークが空気を包む。あの日、私を退屈の檻から連れ出してくれた夏葉の歌声が、意味を与えてくれる。この街で生きていく意味を、あなたが生きた証を守る意味を。この歌が終わればまた日常が戻ってくる。でも、今だけは浸っていたかった。

 それでも歌は終わる。私たちの時間もいつか終わる。それはきっと太古の昔から続く罪と罰なのかもしれない。それでも私の日常は続く。まだエンドロールを流すわけにはいかない。夏葉が生きた証を手繰るために私は彼女に伝えなければならない。

「さよなら、夏葉。あなたを死ぬまで愛してる」

 夏の朝の日差しに照らされた境内に、私のすすり泣く音だけが響いている。返信が来ることはもうなかった。


 ♢


 水曜日の朝は緊張する。

 それは今も変わらない。街も景色も空も変わらない。間違い探しのようにふたつ並べてみて、ようやくわかるような変化が一つあるとしたら、それは、今私の隣にいる人が夏葉じゃないということだけ。

 でもそれは間違いなんかじゃなく、夏の朝に見る魔法でもなく、茫漠とした私の人生におけるただ一つの正しさ。リバイバルを繰り返す映画のように、街は確かなものだけを残して少しずつ変化していく。

 目を閉じるとよみがえるのはあなたの横顔と制汗剤の涼しい匂い。

「ねえ茉莉、今日も歌ってよ、あの曲」


 鉄弦を弾くと、夏の空の下に風が凪いだ。

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フェアウェルミュージック やみか @yamica

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