フェアウェルミュージック

やみか

前編

 水曜日の朝は緊張する。


 夏の寝苦しさに目を覚ます。広いベッドのわざわざ隅の方でうずくまっているのはひとりで寝ることにまだ慣れていないから。ぼんやりとした頭でそんなことを考えながら枕元を探る。ようやく探し当てたスマートフォンをフリックすると、丸く切り取られたあなたがそこにいて、でも本当はそこにいなくて、どうしようもない寂しさに胸が詰まる。

「おはよう夏葉。あなたの使っていた枕の匂いをかいでいると、まるで一緒に寝ているような気分でいられます」

 すぐに返信が来る。大丈夫、まだ変わらない毎日が続いている。

「おはよう茉莉。そしてやめろ変態。……大丈夫? 臭くない?」

「臭くないよ。ずっとかいでいたいくらい」

「やめなよ。その匂いフェチ直さないと新しい人に出会った時ドン引きされるよ?」

 大丈夫、私には夏葉以外にいい人なんていないから、そう心の中でつぶやくけどこれは文字にしない。

「その後お変わりはないですか? あなたが私の元から去ってから、そこはかとなく寂しい毎日を過ごしています」

「そこはかとなくじゃなくて。ちゃんと寂しがってよ……」


 夏葉との早朝のひとときだけの逢瀬。それが始まったのは夏葉と私が出会った高校三年の夏のことだ。


 ♢


 あの頃の私は優しい両親のいる暖かい家庭で育てられた傷つきやすい少女だった。クラスには気の置けない友達がいて勉強は嫌いだけど成績は中の上といったところで、じきに訪れる大学入試にむけて忙しなく何不自由ない高校生としての時間を謳歌していた。

 ごくごく普通な青春の一ページ。その代わり映えのしない日々の退屈さと先の見えない未来への不安、それは受験だったり恋愛だったりもっと漠然としたものだったりするのだけど、それらに対する焦りからかクラスメイトの男子たちはいつも「だりぃだりぃ」と言い、女子たちはいつも「死にたい死にたい」と言っていた。彼らのそういったニヒリズムやペシミズムはどこから発生してどこに還っていくのだろう。

 そんな彼らの感情に日々当てられているうちに私まで無性に怠く死にたくなってきた。本当に辛いわけじゃない。ただ少し息がしづらいだけ。ふと教室を見渡せばクラスメイトは猿山の猿で、教壇で受験受験と騒ぐ教師は飼育員としての役割を演じているにすぎないように見えてくる。負の感情は伝播する。

 だから私はその息苦しさから逃れるため、この淀みに流れを与えたい一心で、とある計画を立てた。ちょっとした悪戯心……。

 

 いつもの時間に家を出て電車に乗り窓の外を眺めるといつもの街並みがゆっくりと後方に流れていく。私の人生もこんな風に代わり映えもせずに流れていくのだろうか、きっとそうなのだろう。

 生まれて今日まで十七年間いろいろな出来事はあったけれど、私の価値観や本質を揺るがすような出来事は一度も起こらなかった。十七年かけて起こらなかったことがこれから先起こるとはとても考えにくい。ほら、お行儀良く並んでつり革を掴んでいる女の子たちも、欠伸をかいて寝ているサラリーマンも、こんな場所で器用に目を描いているあの女性も、みんな私と同じようなぼんやりとした顔をしているじゃないか。この豊かな日本では誰もがぼんやりと生きて、丁寧に誂えられた枠に上手い具合に嵌っているのだ。成熟しきった国家とはそういうものなのだろう。そんなことを考えているとアナウンスが流れてくる。当電車は間もなくいつもの駅に到着いたします。

 スーツや制服の波に揉まれながら電車を降り、私と同じ格好した女の子達の流れを外れ、いつもと反対の出口から出るといつもとは違う風景が広がっていた。

 普段出席をとるのは朝のホームルームだけだから、何時に登校しようが遅刻は遅刻でしかなく致命的なものではないだろう。昼休みにでもしれっと登校すればいい。

 とは言え制服を着たまま街をふらついていれば補導されてしまうし、かと言って喫茶店やカラオケで時間を潰すにしてもやはり人の目があり危険だ。こういうことを考えてしまう私はやはりどこまでも平凡なのだ。

 だから学校近くの寂れた神社をサボりスポットに選んだ。ここにほとんど人が来ないことは知っていたし、そして何より私は神社が好きだった。鬱蒼と茂る鎮守の杜はどこまでも深い翡翠色、その緑が生み出す清浄な空気は私の心の淀みを洗い流してくれるだろう。このサボりプランを立てる以前からよく来ていた場所で、計画当初からここしかないと薄々思っていた。


 歩き慣れた道をいつもと違う時間に歩く、ただそれだけのことなのに自分の存在がこの世界と切り離されて別のレイヤーに移ったような、取り残されたような孤独感を覚えた。教室の居心地の悪さが少し恋しくなる。それでもやっぱり私は街を歩き神社へと向かった。今やらなければ私の中の何か大事なものが喪われる気がしたから。


 鳥居をくぐりその空気を吸い込むと気持ちがいくらか楽になった。八月ももう終わりとは言え、日差しは未だその強さを緩めずシロツメクサは陽光を反射して輝いている。目に映る風景はちゃんと私の住む世界だった。石段を上るうちにさっきの張りつめるような緊張感は鳴りを潜め高揚感が顔を出してくる。草木も大空もいつもより青々しく、振り返った街並みはいつもよりも輝いて見えた。私の住む世界はこんなにも美しく、こんなにも自由なのだ。なんだ、簡単なことだった。

 つかの間の自由を手に入れた喜びに浸っていると不意にどこからか声が聞こえた。この辺りは近所に住む人たちの散歩スポットなのだろうか。水を差されたような気持ちになりながらも他に行くあてもない私はその声の主に見つからないよう慎重に石段を上る。まあ、見つかって学校に連絡されようが家に連絡されようが、いずれにしても怒られることには変わりはないしそれ以上もない。それよりもせっかく得たこの貴重な時間をふいにするのは心苦しい。

 境内に近づくにつれてその声は明瞭になっていく。耳を澄ますと、その甘く透き通るよう切ない旋律にギターのアルペジオが絡み合って音楽を奏でているのがわかった。そうか、これは歌声だ。誰かが境内で歌っている。素敵な歌声。心の柔らかい部分をそっと撫でるような慈しみに満ちていて、それでいて芯の強さがある。これを歌う人の気持ちの強さの表れだろう。

 石段を上りきると視界が開け夏の朝の日差しに照らされた境内に目が眩む。そのつかの間の青い影の中でギターを持った少女が歌っていた。私と彼女の視線が交差し歌が止む。風が吹き抜け夏草を揺らす音が嫌に大きく響いて、それに呼応するように心臓が大きく高鳴った。

「えっと……、秋月さん?」


 クラスでの秋月夏葉は良くも悪くも人目を引く存在だった。切れ長ですこし意地の悪そうな目をした伏し目がちな少女。私の乏しい語彙力ではそう表現するしかないのだが、彼女はどこか孤高な雰囲気を持っており、言ってしまえば近づき難い少女だった。彼女の存在感はそれを持たぬ者を嫉妬させ疎ましく思わせる類のものだった。そんな彼女が学校にも行かずに神社の境内でギターを鳴らし歌っている。私は意地悪なことを訊いてみる。

「秋月さんだよね。どうしたのこんな時間に。学校は?」

「それはあなたも同じでしょ? 雨宮さん」

 あっ、名前覚えててくれたんだ、一度も話したことないのに、なんてやはり素っ頓狂なことを考えている私に彼女が問いかける。

「えっと……、さっきの……、やっぱり聞こえてた?」

「さっきのって歌のこと?」

「うん、やっぱり聞こえてたんだ……」

 夏の陽光を浴びて彼女の顔が上気したように見えたが、生来の無表情は崩さない。教室での印象と打って変わって雰囲気がどことなく柔らかい。

「そんなに恥ずかしがることないのに。素敵だったよ? 秋月さんの歌声」

「いいよお世辞は、自分の声が変なことは自分でわかってるから」

 なんだろうこの感覚。いつもつっけんどんしている人が見せるちょっとした弱さに心の奥の方からプリミティブな庇護欲と悪戯心が湧いてくる。

「ねえ秋月さん、さっきの歌、もう一回聴かせてよ。さっきはちゃんと聴けなかったし」

「ええっ? ムリムリ! 人に聴かれたくなくてわざわざこんな場所で歌ってるのに」

「そんな、あんな綺麗な歌声なのに」

「綺麗……」

 あれ? この子褒められるのに弱いのかな? というより褒められるのに慣れてないのか。

「うん。すごく綺麗で透き通って、ギターとのコンビネーションも絶妙でグルーヴ感もあって、すごく素敵だった」

 私の拙い語彙力を総動員して賛辞を贈る。

「……ほんとに?」

「うん。素敵だったよ。だからもう一度歌ってくれないかな」

 その日差しに染まった顔を正面から覗き込む。なんて扱いやすいのだ。

 彼女は小さく溜息をつくとポケットから音叉を取り出してギターのチューニングを始める。

「一曲歌い終わるまでは何も言わず黙ってて。合いの手を入れたり囃し立てたり。それやった瞬間歌うのやめるから」

 たしかにカラオケで熱唱して自分の世界に入っている時に勝手にハモられたり変に煽りを入れられたりすると少し嫌な気持ちになる。きっとそういうことなのだろう。

 チューニングを終えて音叉を横に置くとギターヘッドに夏の雲が映る。見上げると深い青色が一面に広がっておりその雄大さに圧倒される。野外ライブには絶好の夏模様だ。

 隣に座るよう促され、私は彼女のその右側、拝殿の木製の階段の上に腰掛ける。正面からまじまじと見られるのは恥ずかしいようだ。制汗剤の涼しい匂いに不思議と心が落ち着く。

「じゃあ……」

 右手が鉄弦に触れて小さくすっと息を吸う音が聞こえる。その細くて白い指先に添えられた小さな爪が鉄弦を弾くと、風が凪いだ。

 草木の擦れる音、蝉の鳴き声と遥か遠くから聞こえていた車のロードノイズがこの一瞬静寂の檻に閉じ込められ、彼女の指先から奏でられるアルペジオと息遣い、それに追従した私の心臓が高鳴り、静寂を包み込む。


──早朝の雨まどろんで微かに残る、枕にあの人の匂い、嫌な夢の跡──


 彼女の喉、唇、声帯、身体を構成するすべての器官、それらがひとつの楽器となって大気を震わせ、彼女の紡ぎ出す言葉が私の心を震わせる。その振動が幾重にも重なり私と彼女を優しく包み込む。今、世界にはきっと私と彼女だけがあって歌だけがその血潮を巡らせているのだと思った。

 その歌詞に思わず自分を重ね切ない気持ちになる。まだ恋すら知らない私が、大切な人を喪いその悲しみに胸を痛めている。こんな気持ちを私はこれから先味わうことがあるのだろうか、茫漠とした私の人生に一体何が訪れるのかはわからないけれど、今はただ彼女の歌に浸っていたかった。


「どうだった? って、泣いてる?」

 音楽を聴いてこんな気持ちになったのは初めてだった。スピーカーから流れる画一的で商業主義的なものでも、音楽の授業で歌わされるわざとらしくて子供向けのものでもない、生きた音楽をその時初めて聴いた気がした。

「ゴメン、ちょっと……、感動しちゃって」

「ええっ、そんなに? そんなにか……、ふーん……」

 どことなく嬉しそうな彼女を見て少し気分が落ち着く。

「今の曲、なんでバンド?」

「えっと、最近Myspaceで見つけたユニットで、名前は……」

 私にはMyspaceが何かわからなかったしその名前にも聞き覚えはなかったが、儚げな印象を与えるその名前は私の心に滑らかに入り込んで定着する。もっと彼女の歌が聴きたかった。

「ねえ、もう一曲歌ってよ」

「ええっ、でも、もうそんなレパートリーもないし、もう今ので喉イガイガだし……」

 おそらく彼女の中の恥ずかしさゲージが振り切れたのだろう。教室での孤高なイメージも、歌っていた時の凛とした佇まいも想像出来ないくらいに雰囲気が弛緩している。

「それじゃあ毎週この時間、この場所で一曲だけ聴かせてくれないかな? 私、水曜日の午前中は授業をサボることにしてるの」

「あっ、不良……、いいよ。私も時々授業サボってここでギターを弾くことにしてるの。来週までにもう一曲練習してくる」

 秋月さんが実はサボり魔だったなんて想像もしなかった。言われてみると時々体調不良だなんだと休んだり遅れて来たりということがあった気がするけど。この人も見かけによらず不良なのだ。

「ホント? ありがとう秋月さん!」

「夏葉でいいよ。本当は自分の歌なんて誰にも聴いて欲しくなかったんだけど、今日のことで少し自信が持てた。ありがとう」

 その時に初めて夏葉の瞳を見た。薄い目が開かれ夏の空を切り取ったラピスラズリが覗かれると視線が交差して時間が止まる。この瞳に吸い込まれてその煌めきの中を揺蕩えばどれだけ心地良いだろう。

「うんうん。私も嬉しい。私のことも茉莉でいいよ。夏葉」

「うん。ありがとう、茉莉」


 ♢


「あの時の茉莉の顔ったら鼻水垂らして顔真っ赤にしてさ、今思い出しても笑える」

「そんなになってないでしょ。やめてよ恥ずかしい」

「でもあの出来事がなかったら私の人生はもっとどうしようもなくて、つまらないまま終わってたはず。だからあの時学校をサボってくれた茉莉には感謝してる。本当に。あなたに出会えてよかった」

 夏葉との出会いをなかったことに出来たらどれだけ救われるだろう。夏葉も私もこんな痛みを背負わずに済んだはずだ。それでも、仮にタイムマシンがあってあの日に行けたとして、私は止めることが出来るだろうか。何も知らない私に神社にだけは行くなと言えるだろうか。そんなことわかりきっていた。

「うん、夏葉、私もあなたと出会えてよかった」


 ♢


 それからの私たちは週に一度だけ、同じ時間、同じ場所で顔を合わせた。夏葉と過ごす時間は明け方に見る奇妙な夢のように現実感がなかった。

 歌を歌うときの夏葉は世界そのものだ。教室での私はノートをとる夏葉の、その綺麗に分かれたつむじを眺めながらそんなことを考えている。あの艶やかな髪の毛の一本一本に夏葉の意思が宿り美麗なメロディを奏で、そっと覗くうなじから漂う芳香が空気を震わせて私に夢を見せる。

 夏葉、あなたの歌を今すぐ聴きたいけれど、教室でのあなたはやっぱり孤高で、私の声なんて届かないところで今日も板書の文字を追いかけている。きっと彼女は演じているのだろう。日常の枠に嵌められた孤高な少女を。だから私は彼女の意思を尊重して声をかけないでいる。

 夏葉、次の水曜日が待ち遠しいよ。


「ねえ茉莉、あなた普段音楽は聴く?」

 最初の出会いから二ヶ月ほど経ち、少し肌寒くなってきた頃、いつも通り歌を歌い終えた夏葉が唐突にそんなことを訊く。

「えっ? うーん、夏葉が教えてくれたアーティストはだいたいiPodに入れてるけど、あとは流行りの曲くらいかなぁ」

 そういって取り出したiPod nanoのアーティスト欄を見せる。

「あっ、私、このアーティスト好き。このバンドも。なんだ、結構聴いてんじゃん」

 他愛の無いことだけど夏葉に私自身を肯定してもらえたみたいで嬉しかった。

「私は音楽が好き。ポップもジャズも、ロックもヒップホップも全部好き。この世のありとあらゆる音楽を死ぬまで聴き続けたい」

 私にはジャズと言われても漠然とお洒落なピアノのイメージしか浮かばないし、ヒップポップと言われてもピンとこなかったが、夏葉の思いの強さは充分伝わってきたので、黙って続きを促す。


「ねえ茉莉、もう一つ秘密のスポット、教えてあげよっか」


 そう言われて連れてこられたのは学校から二駅先の市街地にあるファッションビル。夕方になれば放課後の高校生たちで賑わい、休日になれば家族づれで賑わう至って普通のよくある商業施設。こんな場所にどんな秘密があるのだろう。

「茉莉はここの図書館、使ったことある?」

「えっ、図書館?」

 デパートと図書館、その二つのワードが頭の中でうまく結びつかず思考が堂々巡りする。

「うん。このビルの八階に図書館があってね、よくそこでCDを借りて音楽を聴いたり本を読んだりしてて。私の家って親が結構厳しくてバイトもさせてくれないし、かといってCDもあまり買ってくれないから図書館はよく使うんだよね」

 なるほど。私たち一般的な女子高生がアパレルショップで服を見たりファミレスで談笑に花を咲かせている時、夏葉は別のフロアでひとり音楽を聴き、本を読み思索に耽っているのだ。たしかに放課後に談笑しながらクレープを食べる夏葉を想像するのは少し難しい。

「へぇー、使ったことないなあ」

 エレベーターに乗り八階のボタンを押す。到着したのは今まで降りたことのないフロアだった。朝の十時という時間帯もありフロアはしんとしており、閑散とした商業施設特有の無味乾燥とした匂いがする。同じビル内でも普段とは別世界のようだ。

「今十時だけど、制服でこんな場所にきても大丈夫?」

「たまにこの時間にも来るけど咎められたことはないよ。貸し出しがなければ受付に通す必要もないし」

 そう言いながら慣れた風にすたすたと歩いていくが、人の少ないフロアには私と夏葉の声がよく響き気持ちが落ち着かない。それでも夏葉の意志の強さを前にすると安心して、自分のしていることは正しいのだという根拠のない自信が湧いてくる。

 そうしているうちに目的の場所に到着する。ガラスの向こうにはたくさんの本が並んでいて、たしかにここが図書館であることがわかる。 

 自動ドアをくぐると館内はしっとりとしたピアノの音色とパルプの甘い匂いに満ちていて、気持ちが少し落ち着く。太陽光を浴びて褪せた古い本の甘い香りはチョコレートの香り成分と同じだとどこかで聞いたことがあるが、確かにそんな感じだ。

「茉莉、図書館を使ったことは?」

「うーん、学校の図書室くらい……、かな」

「そっか。図書館には本だけじゃなくて雑誌や資料、音楽メディアとか、いろいろ置いてあって意外と楽しいの」

 活字が特別嫌いな訳じゃないけど、本を読むことに大した思い入れのない私は、わざわざ図書館を使ったことがない。CDを借りられることなんて、夏葉が教えてくれなければ一生知ることはなかっただろう。

 録音資料コーナーの棚には、お店ほどではないにしてもたくさんのCDが並んでいて夏葉はその中の一枚を手に取る。

「さっきも話した通り私は音楽が好き。できることなら将来は音楽に携わる仕事をしたいと思うくらい。でもね、茉莉。あの日、私の歌を聴いて泣いていたあなたを見るまではとてもそんなこと考えられなかった。親はそんな無謀な夢をみることは許さないし、やりたくもない勉強を頑張れば先生も親も誰もが喜んでくれた。自分の好きなものに対する想いに自信が持てなかったんだよね」

 夏葉の独白が、スピーカーから流れるピアノの優しい旋律に乗って音楽的に響く。私は夏葉に対して何かしてあげられたのだろうか。それは夏葉自身の持つ強さであって、私のしたことなんて取るに足らないきっかけでしかないと笑いかけたくなったが、夏葉の真剣な表情を見るとそんな気にはなれない。

「自分の気持ちに気づかせてくれた茉莉に本当に感謝しているの。だから、そんなあなただから私の好きをもっとたくさん共有したい」

 私たちは視聴覚ブースに入った。そこはふたりがぎりぎり座れるようなシートとDVDデッキ、モニターが置いてあるだけの、半個室の落ち着けそうなスペースだ。ふたりでそこに腰を下ろすと肩と肩が触れ合う。

「ねえ、これどうやって聴くの? スピーカーもヘッドホンもないけど」

「ヘッドホンは受付で貸してくれるんだけど、ふたりじゃ使えないから今日はこれ」

 そう言ってイヤホンを片耳手渡される。つまり一つのイヤホンをふたりで共有するという、安っぽいフィクションでよく見るシチュエーションなのだが、これが私と夏葉で行われるとなるとまた新たな意味が生まれる。

 夏葉が慣れた手つきでDVDデッキを操作し、その度に肩が、太腿が擦れ合い夏葉の体温が伝わる。悪い気はしなかった。むしろそれを心地よいとさえ思えた。

「昔のイギリスのシンガーでもう四十年も前の音源なんだけど、お父さんがカーステレオでよく流していたのね。お父さんの流す色々な音楽を聴き続けているうちに自然と音楽が好きになっていったの」

 そう言いながら再生ボタンを押す。重厚感のあるドラムのビートにギターのリフと金属的で力強い歌唱がユニゾンする。ベースとピアノのバッキングがうねり曲調はスピード感を増してゆく。四十年分の時間経過に揉まれ音そのものは古くなっているが、そこには時のふるいにかけられない洗練されたグルーヴと新鮮な高揚感がある。

 車を運転する父親の隣でこれを聞く今よりも小さい夏葉を想像してみたが、やはりうきうきとはしゃいでいる姿は想像できなくて、きっと表情は変えないまま湧き上がる感情に身体を揺らすのだろう。私の隣で肩を揺らしている十七歳の夏葉と同じように。

「ねえ、27クラブって言葉、知ってる?」

「えっ? なに? それ」

「本当に偉大なミュージシャンは二十七歳で亡くなるっていうジンクス。ロックミュージシャンなんて荒っぽくて快楽主義的で刹那的なイメージがあるけど、みんな表には出せない弱さを抱えていたのね。その音楽は力強くて、繊細で、儚い」

 夏葉の右手が私の左手に重なり私はそっと握り返す。夏葉の生み出す熱がビートに乗って伝わってくる。27クラブ……、私たちの十年後の未来はどうなっているんだろう。私たちの関係も。隣にいる夏葉を見るとその横顔は少し上気していてそれを見てると無性に切なくなる。音楽は私たちを日常の閉塞感から引っ張り出してどこまでも遠い場所に連れていってくれて、私たちの心の距離はそれに応じて縮まってゆく。それでも、どれだけ近づいてもきっと交わることはなく、漸近線のように限りなくゼロに収束していくだけなのだ。

 私はまだ恋を知らない子どもだけど、この気持ちを恋というのであれば人という生き物は欠陥品だ。こんなに苦しいのなら、私は一生知りたくなかった……。

「夏葉、私には二十七歳の私たちどころか、明日のことさえどうなるのか想像できない。でも、あなたの音楽に日本中の人が喜び、嘆き、感情を昂らせる、そんな未来が絶対来る。だからそれまでは、私が一番の、夏葉のファンでいさせて」

「うん、ありがとう、茉莉」

 そう言って夏葉の手を握る力を少し強めた。今はただ彼女の熱を感じていたかった。

 

「今日は付き合ってくれてありがとう。よかったらまた一緒に来てくれる?」

 学校に向かう道すがら問いかけられる。夏葉と出会って数週間、本当に楽しい時間を過ごした。今日の出来事も本当に素敵な体験だった。それなのに私は素直にうんと言えなかった。この苦しみをそのまま肯定することができなかった。

「ねえ夏葉、私たちこれからもっといい友達になれると思うの。だから、こんな風に週に一度だけじゃなくて教室でもそれ以外でももっと話したりできないかな」

 私の裏腹な気持ちを見透かしたように夏葉の表情が一瞬曇る。表情の変化に乏しい彼女だけど感情は豊かで、それは目元のちょっとした変化に表れるのだとわかった。それと同時に、とんでもなく無神経なことをした後悔が洪水のように押し寄せる。

「そうね……、茉莉と普段からおしゃべりできて一緒にお昼ご飯を食べて、一緒に下校してファミレスでまたおしゃべりして、そんな学校生活を送れたら私も嬉しい。でもやっぱり学校での私は私じゃないから、だからちょっと難しいかもしれない。茉莉の前では自分を偽りたくないの」

 そう言ってはにかむ。今までそんな表情したことなかったのに、そんな枠に嵌められた人間のような表情、私にはしなかったのに。

「じゃあ、私、先に行くね」

 待って、と叫んだつもりがその声は声にならず夏葉の後ろ姿と一緒に街の喧騒に消えていった。未だ湿度を存分に含んだ空気が肺を満たし呼吸がままならなくなる。

 夏葉、ごめん……。


 この遣る瀬無い悲しみと切なさの処理の仕方がわからず、気がつくと私はいつもの神社に来ていた。こんな気持ちで平気な顔をして学校には行けそうになくて、それでも行くあてのない私は結局ここに来た。

 石段を上ると、随分涼しくなったとは言え、あの日と同じようにシロツメクサが日差しを反射し輝いて、境内からはあの日と同じ旋律が聞こえてくる。同じ旋律のはずなのにあの時よりも物悲しく聞こえるのは私の気持ちがそう思わせるのか、夏葉の気持ちなのか、それはわからないけど、とにかく私は声をかける。

「ねえ夏葉、このまま午後もサボっちゃおうか」


 昼過ぎの急行に乗れば海が見えてくる。そびえ立つビル群と私たちの日常を置き去りにして、風景は早回しのフィルムのように流れてゆく。ターミナル駅を越えて潮の匂いがしてくると車窓が切り取るキャンバスに青が増してくる。私のこの気持ちはあの光への憧れなのだろうか。

 ねえ夏葉、私をひとりにしないでね。眠る夏葉の手を今度は私から握り、その熱を確かめる。その艶やかな唇にこっそりキスをする。こうしているだけで私たち、何もかもがうまくゆくはずなのに、眼前に広がる深いブルーとおぼろげな街並みが織りなす一枚の絵画、それが私たちの未来に見えて切なくなる。

 その日、私は初めて恋の苦さを知った。


 ♢

 

「茉莉、あなたあの時そんなことしてたの……?」

「うん実は。十年越しのネタばらしでした」

「私のファーストキスを勝手に奪いやがってー!」

「そんな恥ずかしがらないでよ。私まで恥ずかしくなるじゃない」 

 既読の文字が点いて静寂が訪れる。ベッドを降り、PCを立ち上げ音楽を流す。スピーカーから流れるメロディを聴きながら顔を洗う。鏡に映る私の笑顔は今日もちゃんと笑って見えた。今日は何をして過ごそうかなんて考えているとメッセージの受信を告げる間の抜けた電子音が聞こえてくる。


「でも、あの時の泣きそうな顔はやっぱりちょっと面白くて、可愛かったよ」


 ♢


 季節は春、時間はゆっくりと、しかし確実に流れていった。私たちはいつもの場所でお互いの時間を共有する。

「夏葉、卒業式は出なくていいの?」

「だって、今日は水曜日でしょう? 茉莉こそいいの? 高校の卒業式なんて人生に一度きりなのに」

「それは夏葉だって同じでしょ」

 あの日見た海の色と夏葉の唇の感触は未だ感覚として身体に残っている。気持ちの整理は未だつかない。受験の忙しさを理由にそれに向き合うことを避けていた。

 それでも時間は無情に過ぎていって、冬の凍てつく寒さも少し角が取れてきて、夏葉と過ごす時間はもうほとんど残されていなくて、私の心は夏葉への思いと焦燥感が混ぜ合わさった坩堝のようになっている。どうすればいいのだろう、どうしたいのだろう、そんなことをのんびり考えてる時間ももうなくて、縋るように隣を見ると夏葉は澄ました顔でギターをチューニングしている。

「この野外ライブもきっと今日で最後だろうね」

 そう言って音叉をしまう。何度も見慣れた光景だ。

 こほん、咳払いをひとつ。ギターのストロークが響き、そこに歌声が絶妙なコンビネーションで合わさる。


──大人になったなら思い出すことなどないと思ってたのに、あなたは消えてはくれない美しい幻──


 夏葉の歌をどんな気持ちで聴けばいいのか、夏葉が今どんな気持ちで歌っているのかわからないけど、今日も夏葉の歌は素敵だった。夏葉が高校を卒業して将来どうしているのかはわからないけど、きっと上手くいくはずだ。こんな素敵に歌を歌う人が上手くいかないはずがない。でなければそんな不条理な世界に生きる意味や価値はあるのだろうか。そう思えるほどに私の気持ちはもう戻れないところまで来ていた。

「ねえ、夏葉」

「なあに?」

 夏葉の返答はすべて見透かしているかのように平坦で、感情が意図的に殺されていて、私の覚悟を試しているようなそんな響きだった。

「私、高校を卒業して大学も卒業して、そこそこいい企業に就職して三年くらいしたらやっぱりそこそこいい人と結婚すると思うの。そうして可愛い子どもが生まれて普通の幸せな家庭を築いておばあちゃんになる。それで子どもや孫たちに看取られながらきっと天国にいく、そういう平凡だけど幸せな人生が私には似合っているのね。そしてその日が訪れるまで、夏葉、あなたと友達でいられたら、どんなに素晴らしいかって思う」

 違う、私が本当に言いたいのはそんなことじゃない。夏葉と過ごして育んできたこの思いは友達などという言葉で括られるようなものじゃないはずだ。

「うん。そうね茉莉。わたしもあなたと一生友達でいたい」

 どうしてだろう、今伝えなければもう二度とこうした時間は訪れないような気がする。高校を卒業して離れ離れになろうが私達の住む世界は地続きで、その気になればいつでも会いに行けるはずなのに。

 でも、こんなぬるま湯のような幸せは絶対に続かない。私には想像もつかないくらい現実は理不尽でずっと同じ場所には留まれない。なのに踏み出せない。踏み出したことでこの関係性が壊れるのが怖くて、恐ろしくて、私にはもう沸き上がる腹部の違和感と口の渇きを堪えることしかできなくて涙をこらえるのに必死で何も言えなくなってしまう。

「ねえ茉莉。せっかく神社にいるんだから神様にお願いをしようよ」

「な、何を?」

「これから先、何かどうしようもないくらい理不尽な事があって私達が離れ離れになったとしても心のどこかで繋がっていられるように。それを、神様に誓おうよ」

 その時不意に風が止み、音という音が消えた。まるでこの世界から私と夏葉の存在以外のすべてが消えてしまったような、そんな静寂だった。夏葉の顔を見ると、潤んだ瞳が夕凪の光を反射し、その奥にある思いやりや優しさのさらに奥深くに私と同じ思いを抱く夏葉がいるのが見えた。

 私はたまらなくなって彼女の細い身体をきつく抱きしめた。

「お願いだから、離れ離れになるなんて言わないで……」

「ありがとう、茉莉」

 

 私たちは夕凪の陽光を浴びながら並んで歩く。夏葉の手を握る強さをほんの少し強めてみる。夏葉はそれに応じてほんの少しだけ握り返してくれる。その意味も、私が今伝えるべき言葉もわかっている。この気持ちはあの日、夏の煌めきが見せた幻なんかじゃないとはっきりわかっていた。

「茉莉。今までありがとう。卒業してもまた会えるといいね」

「うん。夏葉、すぐに連絡するから、また会おうね」

 そう言葉を交わし改札をくぐると、人波の中に揉まれる私を見つめる夏葉の視線を感じる。教室で私が夏葉を見つめていた時、彼女も同じように私の視線を感じていたのだろうかなんて思う。だめだ、今言わないとだめなんだ。振り返ると夏葉はまだちゃんとそこにいて……。

 私たちの視線が交差したその一瞬、夏葉の空色の瞳から涙が一筋溢れるのが見えた。初めて見せる夏葉の涙、その幾筋もの流れが細い顎の先で合流して乱反射する。その煌めきの美しさにただただ圧倒されるしかなかった。ねえ夏葉、どうしてあなたが泣く必要があるの? 泣きたいのは私のほうなのに。

 夏葉の元に駆け出そうとする私を帰宅ラッシュの人波が邪魔をする。どうして、ねえどうして、私がこんなに必死になって押し殺して、隠し通して、それでもどうしようもなくてこんなに苦しんで、それを台無しにするようなことを。待って夏葉、まだ行かないで……。

「夏葉! 私あなたのこと……」

 人波の向こうに夏葉の姿はもうなかった。結局何も伝えられなかった。さよならさえ言えなかった。そう思った瞬間、必死に堪えていた感情が奔流となり、涙となって流れ落ちた。すれ違う人々は怪訝な顔で私を見たり、心配してなのか声をかけたりしたが何も意識に入ってこなかった。事態を聞き駆けつけた駅員を振り切り私は走り出す。そして電車のホームの隅にうずくまって、夏葉のことを思い、声を殺して泣いた。この涙がすべて夏葉への思いの結晶だったらどれだけいいかと想像した。いっそ全部流し切って全部忘れてしまえたらどんなによかっただろう。

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