凹ちゃん
花苑
誰も客のいないバーでワイングラスを磨きながらマスターはため息をついた。大きな声で笑う酔っ払い客たちがみな帰っていったところだった。美人客が来たら使うつもりだったカクテルグラスは棚で埃をかぶっている。むかし読んだ小説では、いつもバーに美人がいたものだが。これなら、プログラムをいじっているほうがずっとましだ。マスターは昔、ソフト開発でひと山あてた腕利きのシステムエンジニアだった。
ドアのカウベルがカランと明るい音を立てて、新しい客が入ってきた。スレンダーなドレスに身を包み、長い髪を結わずに垂らしている。エキゾチックな美人だ。カウンターに座り顔を上げた上目づかいの瞳と目が合って、マスターは歓喜のあまり身震いした。
女が注文したマティーニをとっておきのカクテルグラスに入れて出すと、マスターは平静を装いながら女に話しかけた。
「きれいなドレスですね」
「きれいなドレスでしょ」
「お名前は」
「さぁ、何かしら」
「グラス空いてますね。ジンフィーズお飲みになりませんか」
「ジンフィーズ飲むわ」
女はいくらでも飲んだ。そのうえ、酔わなかった。いくら飲んでも乱れないそっけない返答にマスターはやきもきした。
「お仕事は」
「書家よ」
「ショカ?」
「書道よ、お習字」
女は宙に筆で文字を書く振りをした。
「書の道の方でしたか! なじみがないもので、失礼しました。そうだ、もしよければお手並みを拝見させていただけませんか」
マスターはカウンターの下に忍ばせておいたサイン色紙と筆ペンをいそいそと取り出し女に渡した。女は刀を振るような鮮やかな筆さばきで一つの文字を書いた。それは、見たことのない漢字だった。パーツは見たことあるものばかりだが、こんな組みあわせの漢字はない。
「これは」
「私の作った漢字なの。いいと思わない?」
マスターは空白を口にするかわりに大きくうなずいた。すると、女はいままでのそっけなさが嘘のように身を乗り出して語り始めた。
「私たちは現存する漢字で満足しすぎなのよ。それではいけない。新しい文字のなかにこそ今まで体験できなかったフィールがある。人であるならば、もっと創造的に、鋭敏に生きよ。不感症の書家など滅びればいい!」
「すばらしい考えです」
マスターは後ずさりした革靴のかかとを棚にぶつけながらもそう言った。
女はバーにときおり顔を見せるようになった。女が来ない日は夜が長く感じられた。マスターは女の気をひくためにあるプログラムを作ることを考えた。現存する漢字のへんやつくりにパラメータを与え、自動で漢字自身に新しい漢字を作らせるのだ。へんやつくりが最適なパートナーをみつけようとさまよう様子はあたかも最高の恋を探す女性のように見えるはずだ。マスターはわずか六日間でプログラムを作り上げると、満足げに「よし」とうなずいた。女が次の日はバーに来なかったので、マスターは女の反応をあれこれ想像して夜を過ごした。
とうとうバーに女が現れた。マスターは女の前にパソコンのディスプレイを差しだした。
「あなたのために作った漢字のプログラムです。さあ、どうぞスタートボタンを押してください」
女はいぶかしがっていたが、漢字のこととなるとやはり気になるのか、ひかえめにスタートボタンを押した。真っしろな画面にさまざまな漢字のへんやつくり、かんむりにかまえが現れ、画面上をゆっくり動いていく。
「このプログラムでは、漢字のパーツがみずから漢字を作ります。最適なパートナーを見つけると惹かれあい、漢字になります。ほら、ごらんなさい」
画面上のさんずいの周りで無数のつくりがうごめいている。さんずいは引きが強いようで、つくりが取巻いて輪っか状になっている。もてるプレイボーイといったところだろうか。さまざまなつくりがぶつかっては融合できずに離れていく。その間を彗星のように一つの漢字が飛び込んできた。「心」だ。二つのパーツはぶつかると、お互いを確かめあうようにぐるぐる回り、やがて「沁」という漢字になって、取巻きの間をゆうゆうと泳いでいった。
「まさか『沁』という漢字がまっさきにできるなんて」
「さんずいもこころも作られる漢字の多いパーツですからね」
やがて、「鳴」や「林」、「杏」といった漢字がつぎつぎにできあがった。また、何度も融合を繰りかえし「架」や「体」といった漢字を作るものも現れた。
「数字の漢字は人気がないわ。ずっとひとりぼっち」
「そんなことありません。運命の相手にめぐり会えさえすればきちんと漢字をつくります。私の事前のシミュレーションではプログラム開始三時間後に『仁』が、十二時間後に『辻』が形成されました。ロマンティックな映画でも見ているような劇的な融合でしたよ」
女はマスターの想像以上にプログラムにのめりこんでいた。マスターはやすやすと女の隣に座ることができたし、肩を寄せて一緒に画面を覗きこむこともできた。マスターは昨日の夜に考えたセリフを言うタイミングをうかがっていた。
しかし、それはなかなか訪れなかった。
「ああ! いいわ。新しいフィールが飛びこんでくる! なんてすばらしいの! もっとつづきを見せて!」
女は恍惚とした表情で画面を見ながら叫び続けている。マスターは我慢しきれなくなって問いただした。
「何がそんなにいいんですか。私にも教えてほしいくらいだ。フィールっていうんですか? どうしたら私にもわかりますか」
女は無表情で脇のほうでゆっくりとしたスピードで動いている一つの漢字を指さした。
その漢字は、うまくできていた。くぼみを表す漢字だった。人類が年月をかけて象形化した、一目でそれとわかる完全な漢字だった。もっとも、読みかたは一つしかない。「オウ」。「へこむ」という読みかたは常用漢字表にはない非公認の読みだ。そして「ぼこ」という読みかたは「凸凹」を「でこぼこ」として読む際の熟語訓であり、「凹」だけを取りだして「ぼこ」と読ませるのは誤りである。正しい読みかたでこの漢字が使われる機会は凹凸、凸凹、凹レンズ。その三つぐらい。漢字生成のプログラムでは、かなり弱いパラメータしか持っていない漢字だ。その証拠に、凹はまだパートナーをひとつも見つけられないまま漂っている。
その夜、バーは遅くまで灯がついていた。ラジオは音楽を流しつづけていた。マスターは女の帰ったバーカウンターでひとりプログラムと向き合っていた。凹の漢字のもとに凸の漢字をピンセットでつまむように寄せた。そして、そのくぼみの部分に突起の部分をはめこんでみた。しかし、マスターは何のフィールも得ることができなかった。
凹ちゃん 花苑 @Blumengarten
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