8

 昼下がり。雲間から差す温かな陽気に背中を押されるように、確かな足取りで碧は帰宅した。玄関は施錠がなされておらず、引けばそのまま扉が開く。鍵など閉める必要は無い。不法侵入する人間が、そもそも存在しなくなったのだから。

 屋内は、嫌な静謐に包まれていた。既に馴れ親しんだ静寂であるはずなのに、何処か不気味で近寄りがたい静けさが充満している。

 玄関口で靴を脱ぎ捨てると、碧は覚束ない足取りでのらりくらりとリビングへ訪れた。

 そこには誰も居ない。世界滅亡の一日目から変わらず閉じたままの鎧戸、外気外音を遮断するカーテン。点灯したままの室内照明は僅かな熱を持っている。

 部屋の中央にぶらりと吊るされた一本の短い麻縄と、食事の際に座っていたあの木椅子。輪っかが一つだけ作られた麻縄は、まるで8の字模っているかのようだ。

 風も吹いていないのに、何故かゆらゆらと揺れるそれ。誘蛾灯に夜羽虫のように、碧はそれに誘われるかのように近寄る。強度を確かめるべくそれの繋がれた先を見上げれば、天上に設置されたフックが。

 幼少の頃、親が室内でハンモックを吊るそうと設置していたものだ。結局その用途で使用することは無かったけれど、こうやって別件で役立つことになっているのだから良かったのかもしれない。

 碧は椅子に乗り上げると、その輪を自身の首にかけた。ちょうどよいサイズだ。きつくも緩くもない。

 そして、一息に、足元の椅子を蹴倒した。

 重力が、体重が、一気に下へ向く。しかしそこには既に足場など存在してはくれていない。ガタガタと嫌がるように暴れる下肢は、意識に反して忙しなく動き続ける。自身を捉える縄を外そうと藻掻く両腕が首に無数の爪痕を残して赤い血が滲んだ。声にならない声、苦しさからの嘔吐きが室内に明瞭に響く。口から吹きこぼれるあぶくが顎を伝って、フローリングの床に水滴を零す。視界が激しく狭窄して、上下左右の平衡感覚が無くなった。自身の肉体が回転したのか、否違う眼球がぐるりと回っただけだ。首が苦しくて堪らない、息ができないのがこんなに辛いことだとは思わなかった。死にたくない、肉体はそう感じているようで抵抗を辞めない。誰かに止めてほしい、精神はそう思っていたらしくその血走った双眸から一筋の涙が溢れる。

 ふと、力なくその両腕が垂れた。

 世界から、音が無くなった瞬間だった。

 人間が最後に鳴らしたのは、椅子の倒れた音だった。



 走馬灯は無かった。

 思い起こすことも、懐かしむことも、最早無くなってしまっていた。

 これは結局、夢だったのだろうか。現だったのだろうか。数日間会わなかった家族の声、友人の声は、結局思い出せずじまいで。

 人は死んだ後一番最初に、声を忘れられる。そして顔。

──碧はもう、自分の声すら思い出せはしなかった。

 会話が不要になった世界では、自分の発声すらも無意味なのだから。

 もう、この地球上で誰かを思い出し昔を懐かしむ人間は、存在しない。

 季節は春。別れの季節。

 春の穏やかな心地が、何時か初夏を連れてくる。

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遺骸の街とオクタヴィア こましろますく @oishiiringo

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