その価値は5千円・7

 目が覚めると、薄い陽光が窓から室内に射し込んでいて、頬の辺りを撫でるように優しく照らしていた。

 川中くんの腕はすでにあたしの背中から離れていて、代わりにこちらの手を赤子のように握っていた。すやすやと心地よさそうに寝息を立てている。

 こんなに好かれるような真似をした覚えは、まったくもってないんだけど。

 きっと彼が特別変わり者なんだろう。そうじゃないと、あたしなんかを好きになるとは思えない。

 彼以外とは、依然としてうまくやり取りをできる気がしないし。

 だけど。

「悪い気はしないかな」

 それはすでにほだされているということなのだろうか。

 友達もいないあたしに、恋愛なんて高度なものはよくわからない。同じゼミの田中さんみたいにはできっこない。

 けど、まあ、考えてみれば、お互いのことをまるで知らない間柄なのだから、急に恋だの愛だのそんな話ができるはずもない。

 だから最初はそういうところから、少しずつ始めてみるのが正しいことなのかもしれない。

 川中くんがまだ起きないのを確認して、あたしはひとりごちるように言った。

「あなたのこと、とりあえず嫌いじゃないよ。だから、うん、好きかどうかはおいといて、とりあえずつきあってみるのもいいかもね」

 それが5千円の価値に見合うかどうか。

「そのうち樋口さん返すかもしれないけど、それまでは、その……よろしくお願いします」

 小さく頭を下げて、あたしは上体を起こした。少し頭に鈍痛が残っているけど、とりあえずはもう動けるようだった。

「さてと」

 瞬間、後ろに引き倒された。

「ひゃあっ!」

 後頭部を床にぶつけるようなことはなかった。なぜなら大きな手があたしの頭を支えていたからだ。

 視線を向けると、川中くんが満面の笑みを浮かべていた。

「おはよ。久坂さん」

「お、おはよう」

「それと、こちらこそ、よろしくお願いします」

 そして抱きしめられた。

「なっ、まさかあんた、聞いてたの!?」

 川中くんは平然とうなずいた。

「つきあってみるのもいいってことは、返事はOKってことだよね」

 顔が熱くなった。

「ま、まって、その前に好きかどうかはわからないって言ったの、聞いてなかったの?」

「でも嫌いじゃないんでしょ」

 その言い草がむかついて、前言撤回したくなった。

「今すぐ離さないと嫌いになる! つきあうのもなし!」

「それは傷つく」

「傷ついてるのはあたしだって言ってんだろうがあ!」

 女の子を引き倒すか普通。物腰は柔らかいくせに、こいつ全然紳士じゃない。

 川中くんはもうあたしの言葉になんか全然堪えていないようで、さっきからにやけっぱなしだ。なんて気持ち悪い。ぶん殴りたい。

 何がむかつくって、そんなばかなやり取りをしながらも、心のどこかでそれを楽しいと感じる自分に一番むかつく。

 なんだってこんなやつに。

 あまりにぼっち期間が長かったから、あたしの頭がおかしくなっているのか?

 もう容赦はしない。あたしは彼の腹を遠慮なく殴った。

「いたいいたいっ」

「うるさい、もう起きるよ!」

 彼の拘束から抜け出して、布団も跳ね除けて起き上がる。時計を見ると7時だった。朝食は下の食堂で、8時半までは大丈夫のはずだから、まだ時間はある。それまでに着替えたり、シャワーくらい浴びたい。できれば温泉にもう一度入りたいけどどうだろうか。まだ準備中だろうか。

「久坂さん」

 まだ起き上がれないのか、寝転がったまま川中くんがあたしを呼んだ。おもいっきり不機嫌そうな顔を作って、あたしは短く返す。

「なに」

「今後ともよろしくね」

 そのにっこり顔はとてもうれしそうで、真正面から見返すのはあまりに恥ずかしくて、あたしは思わず顔を背けた。

 これが今のあたしの限界だ。

「ん。よろしく」

 5千円の返事は、そっけなかった。

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その価値は5千円 かおるさとー @kaoru_sato

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