その価値は5千円・6

 ようやく笑いの発作が治まったころ。

「でも、よかった。旅行に誘った甲斐があった」

 川中くんは安心したように息をついた。

「話は終わったよね。じゃあ、もういいよね」

 体の感覚もだいぶ戻ってきたようで、あたしは布団から出ようとした。

 腕を掴まれた。

「ん?」

 なに、その腕は?

「どこ行くの?」

「どこって、フロントに電話」

「何のために」

「布団をもう一つ用意してもらわないと」

「……このままいっしょに寝ようよ」

 ……ほう。

「寝言が聞こえた気がするんだけど」

 冗談にしては笑えない。

「好きな子とこんなに近くに寄り添っているんだよ。こんな機会、逃したくない」

「あたしの意思は無視か」

「これでもいろいろ我慢してるんだ」

 あたしには男の衝動なんてわからない。だから川中くんが何をどう我慢しているかなんて見当もつかない。下半身の問題なら理性で抑えられるだろう。人間なんだから。考える葦なんだから。それはちょっと違うか。

「川中くんに対してのさっきまでの印象が吹っ飛びそうだよ」

 はっきり言って、もう彼に嫌悪感のようなものは抱いていなかった。彼と話ができる理由はもうわかっている。彼はちゃんとあたしを見てくれているのだ。そして、目の前から逃げない。通り過ぎていかない。むしろ彼の方からこちらのスペースに入ってきてくれる。だから話ができる。こちらが合わせなくても、向こうがこちらの間合いに合わせてくれるのだ。

 そういう男の人には今まで会ったことがなかった。

 別に惚れたわけじゃないけど。恋なんて、友達もろくにいないあたしにはわかりかねる。

「好印象だった?」

「……悪くはなかった」

「脈あり、と」

「都合よく解釈するな。そういうわけじゃない」

 まずはこの手を離せ。話はそれからだ。

「なかなか手ごわいな」

「……あんた、結局体目当てなの? これまで何人泣かせてきたのよ」

 川中くんは心外そうに唇を尖らせた。

「女の子とこんな風になったことなんてないよ」

「舌引っこ抜くぞ」

 閻魔様に代わって。

「本当だよ。つきあった子はいたけど、進展がないまま別れちゃったし」

「だからこんなチャンスは逃したくないと」

「そんなに穿った見方しないでよ。離すからさ」

 手を離す川中くんは、ものすごく残念そうだ。

 そんな顔をしないでほしい。なんだかこっちが悪いみたいじゃないか。

「……いっしょの布団に寝ればいいのね?」

 あたしは布団から這い出るのをやめて、姿勢を整えた。

 仰向けになると天井までの高さが一段と強く感じられる。さっきまで言い合っていたことがうそみたいに、部屋は静寂に満ちていた。外からも、物音一つしない。一体今は何時くらいだろう。チェックアウトの時間は10時だったか。ちゃんと寝られるだろうか。

 隣の彼は呆けたようにあたしの横顔を見つめている。あたしは極力そっちを見ないようにした。

「いいの?」

「いいよ」

 途端に抱き寄せられた。

「!?」

「久坂さん」

「な、馬鹿、離しなさい! 離せ!」

 急にとち狂った相手の頭に、あたしは掌底をぶつけて押し戻した。

「ぐあっ」

 うめき声を上げてのけぞる。しかし腕は離さずにあたしの体を抱き寄せたままだ。いい根性してるなこいつめ。

「急に発情するな!」

「いや、だって、いいって言ったから」

「そういう意味じゃない! 同じ布団で休むだけ。スリープ。わかった?」

「……」

「返事」

「……」

 こいつ結構強情だな。

「とりあえず離して。こんな状態じゃ眠れないでしょ」

「やだ」

「子供かあんたは。ああ、もう」

 川中くんはもしかしたらただ助平なだけなのではないか。本当に信用できるのかな。

「それにぼく、まだ久坂さんから返事もらってないし」

 それを聞いて、あたしは言葉に困った。

 痛いところをつく。

「い、今すぐ返事しないとだめ?」

「だめってことはないけど」

「じゃあ待つ代わりにさ、このまま寝てもいい?」

 彼の両腕はあたしの体をしっかりと抱きしめている。顔が近いし、胸も当たってる。脚があまり接触していないのは幸いだけど、このままの状態で眠れる気がしなかった。

 いや、怖いというわけではなく、

「緊張してる?」

 彼の指摘に答えられない。図星だから。

 こんなに異性と密着した経験なんて、全然ないから。

「ここまでにしておくからさ。一晩だけ、お願い」

 必死に拝み倒されて、あたしはため息をつくしかなかった。

 まさか本当に突き放せないなんて。

「……やっぱり1万円にしておけばよかったかな」

 あたしのつぶやきに川中くんはまた笑う。

 おもしろくないので腹を1発殴っておいた。

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