その価値は5千円・5
目が覚めた。
周りは薄暗かった。一瞬ここはどこだろうと戸惑ったけど、すぐに旅館の部屋だと気づいた。少し酒臭い。それに入り混じるように畳の匂いがずいぶん近くから感じられて、そこで自分が仰向けになっていることに気がついた。
下が柔らかい。布団だ。しかし自分から布団に入った覚えはない。記憶が曖昧で自分が何をやっていたのかうまく思い出せなかった。お酒をたくさん飲んだことは覚えているけど……
ふと思い出した。
「川中くん?」
そうだ、旅の相方がいたことをすっかり忘れていた。体は少しだるい。仰向け状態の腹筋運動では身を起こせないので、うつぶせになろうと寝返りを打つ。
「呼んだ?」
寝返りを打った先に相方の男がいた。
反射的に叫んだ。
「うわああああんぐっ」
しかし口をふさがれて、その声は僅かの間しか響き渡らなかった。何がなんだかわからない。この状況は何? どうしてこんな、
「ぐっ」
腹の辺りを殴ると、手の力が緩んだ。その隙に腕を掴んで口元から引き剥がす。
「な、何してるの!?」
間近にある童顔がにっこりと笑った。
「添い寝」
「アホか!」
「だって布団が一枚しかなくてさ」
「はあ?」
「それならいっしょの布団で寝るしかないじゃん」
「フロントに電話して用意させればいいじゃん!」
「あまり大声出さない。もう夜中なんだから」
「出さずにいられるか!」
あたしは布団から這い出ようとした。しかし力がうまく入らない。飲みすぎで体がまだ酔っているのだろうか。
「あんまり無理しちゃ駄目だって」
「じゃあ無理させるような状況を作るな」
「そんなに嫌?」
「何を当たり前のことを……」
川中くんは笑みを収めて、真面目な顔になった。
「久坂さん」
「な、なに?」
「好きです。ぼくとつきあってください」
まるで縁のない異国の言葉とはこういう風に聞こえるのだろうか。
しばらく頭が真っ白になった。
「……ワンスモア」
「好きです。ぼくとつきあってください」
「…………」
「好きです。ぼくとつきあって、」
「いやもう言わなくていいから!」
混乱に拍車をかけるような真似をしないでほしい。
枕元には傘状のライトが淡いオレンジの光を放っている。光の度合いを弱めているようで、まぶしさはほとんど気にならない。暗闇の中で隣の人間の顔がほんのり見える程度だ。だから、確かに川中くんの顔は見えてはいるのだけど、それ以外のものはあまり目に入らなかった。壁や襖はぼんやりとしか映らず、それが余計に相手の存在を強めているように思えた。
現状を頭の中で整理する。
川中くんと同じ布団に入っている。
その相手が告白をしてきた。
それはもちろん好意という意味での告白である。他の意味に取り違えようがない。
しかし、なぜ?
「混乱してる?」
「……」
反応を窺いながらゆっくり首を縦に振ると、川中くんはため息をついた。
「旅行に誘った時点で少しは意識させられたかなと思ったんだけど」
「……ああ、あれってそういう意味だったんだ」
「その反応はちょっと傷つくよ」
もっとゲスな想像しかしていなかった。
「あたしを手篭めにするつもりかとは思ったけど」
「手篭め……」
「ていうか今も思ってるけど」
「え」
「この状況はどう考えてもピンチじゃん」
今からあたしものすごくひどいことされるんじゃないかって怯えて暴れて泣き叫んでも許されそうなほど説得力のない状況だと思う。
「少なくとも下心はあるよね」
「……はい」
川中くんは神妙な様子でうなずいた。うなずいたというか、うなだれたようにも見えたけど。横向きでうなだれるとはなかなか器用だ。……うん、少し余裕が出てきた。
「いや、でも無理やりそういうことをしようとは全然思ってなかったよ。ただ、久坂さんの傍にいたかったというか」
「うわっ気持ち悪い」
「き、傷つくなあ」
「傷ついてるのはあたしだ」
目が覚めたら男と同衾していたという状況がどれだけ恐ろしいか、少しは考えてもらいたいものだ。
まあ、まったく見知らぬ相手よりはましかもしれないけど。
とりあえず、急に襲ってくることはないみたいだし、あたしなりに話を続けることにした。
「で、なんで?」
短い問いかけに、川中くんは眉を寄せた。省略しすぎたか。
「なんであたしなの?」
川中くんは少しだけ考えた。
「なんでだろうね」
「おい」
「たぶん、宿泊券をもらったときだよ」
今度はあたしが眉を寄せる番だった。
「おもしろい子だなあって思って、気づいたら誘ってた。急に誘いたくなったんだ」
「……短絡的な」
「でも本当のことだし」
つまり、衝動的に、突発的に、好きになったということか。
「自分で不思議に思わなかったの?」
「何やってるんだろうと思ったよ。でも、いろいろ話してみて、いっしょにごはん食べて、そしたらやっぱりいいなって思ったから」
「あたしの何が?」
「かわいい」
「――」
不意打ちだ。
不覚にも言葉を失ってしまった。
赤くなってないだろうか。今すぐ鏡がほしい気分だ。
「かわいくないよ、あたしなんか」
「かわいいよ」
「どこが」
「自分の魅力に気づいていないところとか」
「そんなものないし」
「あるって」
川中くんは楽しそうに笑った。
「こうやって話を聞いてくれるところとか、すごくいい」
酔いの影響で逃げ出せそうもないから、仕方なくこうしているだけなんだけど。
そんなあたしの心中を読んだのか、彼は言った。
「宿泊券のときも」
「え?」
「あのとき、声をかけたらすごく驚かれたけど、ちゃんと話をしてくれたでしょ。久坂さんってそれまで、あまり人と話をするようには見えなかったから、あのときうれしかったんだよね。無視されるかもと思ってたし」
「……たしかに話をするのは苦手だけど」
あのときはいろいろ事情があったから。
あのときのやり取りがこの状況につながっていると考えると、あたしにも原因はあるのかもしれない。あたしが悪いわけじゃないけど。
「別に話をしたくないわけじゃなくて、どう話をすればいいのかわかんないの。あたし、友達とかいないし、話すことなんてないのに他人と会話って、どうすればいいのかわかんなくなる」
正直な気持ちだった。
小学生のように体当たりというか、あっさり相手のスペースに入り込んで仲良くなるようなやり方は、大人には通用しない。うっとおしいとかなれなれしいとか、そんな風に思われるのがオチだ。だから大人は相手の心理や行動パターンを常に考慮しながら、間合いを測ってコミュニケーションを取る。少なくともあたしはそう考えている。
だけどその間合いの測り方が、あたしにはわからない。考えても相手のことなんてわからないし、考えているうちに人は目の前を通り過ぎていく。それが何度も繰り返されると次第に言葉が出なくなる。
きっと、あたしは要領が悪いのだろう。でもそれをどうやって直せばいいのか、あたしにはわからない。きっと、これからも。
考えると悲しくなってくる。
「でも、今は普通に話してるね」
「……え?」
はっとなった。
そういえば、どうして彼とはこんなに話ができるんだろう。
慣れたのだろうか。少なくとも、最初のころはこんなに自然にしゃべったりはできなかった。
どうして。
「ぼくとなら、ちゃんと話せる?」
「……わからないよ、そんなこと」
「ぼくはできると思うけど」
何を根拠に彼はそんなことを言うのだろう。
あたしの何をわかった気でいるのだろう。
「ぼくとしてはこれからも話をしたい。それを受け入れろとは言えないけど、認めてくれたらきっと話ができると思うよ」
「認めるって、何を」
「ぼくが久坂さんを好きだってことを」
また。
また彼は、そんなことをいとも簡単に言ってのける。
その言葉にどこか酩酊のような感覚を覚えてしまうのは、まだ酔いが残っているせいだろう。そうに違いない。
「久坂さんは根が真面目だと思うから、ぼくの気持ちを認めてくれたら、きっと真剣に考えてくれる。そうなったら、たとえ久坂さんがぼくをふっても、きちんと向き合って話ができる。そう、思うよ」
「川中くんは、ふられてもいいの?」
「もちろん嫌だけど、それでも友達でいることはできるから」
友達。
ずっとあたしには縁のないものだった。
そんなに簡単に割り切って、関係を保てるものなのかはなはだ疑問だ。でも、少なくともあたしと話をしてくれる彼を、話ができる彼を、あたしは突き放せる気がしなかった。
こんな状況だとしても。
あたしはそこまで素直じゃない。だから彼の言い分にも、納得できるところはあれど、認めたくない気持ちもある。
それを、あたしなりに割り切って、認めるとしたら。
「5千円」
「え?」
意表を突かれたのか、川中くんは間が抜けた声を漏らした。
「5千円もらったし、何が信用できるって、お金はとりあえず嘘をつかないし、だから、まあ……川中くんのことを認めるには、その、十分な額だと……思う」
「……」
「もし、認められなくなったら、あたしはあなたに、5千円を突き返すと思う。でも、それまでは……」
「……くっ」
噴き出した。
それまでの声なき笑いではなく、川中くんははっきりと、腹を抱えて笑い出した。
「わ、笑うな!」
「いや、だって、5千円て……ぶふっ」
「だってお金が一番信用できるじゃん!」
「いやそれにしても、ぷはっ、ほかに言い方ってものがっ、あは、ははははっ」
あたしなりに、考えに考え抜いた答えだったのに、笑われるのは心外だった。
樋口さんの力をなめるな。大学前のパスタ屋さんで、カルボナーラ10皿注文できる額だぞ。お気に入りだぞ。うまいんだぞ。
川中くんはしばらく悶えるように笑っていた。
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