あなたの心 深い海

 わたしはサッと彼の右側に腰掛けた。スケッチブックを開く。鉛筆が、筆箱の奥からなかなか出てこなかった。目に映るのは雨に濡れた紫陽花で、でも、この中庭で一番存在感を放つのは、隣の彼だった。


 中庭をヴェールのように雨が覆う中、2人分の鉛筆の音が頭の周りをもったりと漂っている。


 ダメだ、スケッチに集中できない。わたしの意識は紙の上を滑っていく。彼の存在が、予期していなかったことの積み重ねで、どんどんと膨らんでしまった。


 でも、『何て声をかけよう』と思うほどに、彼の鋭い眼と柔和な笑顔、白く無骨な補聴器がごちゃごちゃと頭を巡り、一歩を踏み出せない。


「美術の授業?」


 だから、彼の声がおずおずと雨を避けてわたしの鼓膜を揺らしたとき、少しびっくりしてしまった。


「え?あ、うん。そう、なんです。

あなたもですか……?」

「僕は、サボり。はは、ここなら誰にも見つからないと思ってたんだけど。同じ学年だよね?2年5組の山本拓海です」


 わたしの胸ポケットの学年色のピンを指差して、彼はふわりと笑った。スケッチブックをくるりと裏返し、隅に書かれた名前を見せてくれる。几帳面そうな整った字だ。


「あ、同学年……それに、わたしも山本です!2年1組の山本美月って言います。」

「おー、偶然。よろしく、美月さん」


 わたしたちはスケッチの手を止めて、お互いに向かい合った。彼の黒い瞳には先ほどのような鋭さはなくて、ただ柔らかな光を反射していた。


「こちらこそ!っていうか、一人になりたかった感じ……?お邪魔しちゃったよね」

「いや、もういいんだ。うーん、まあちょっと疲れちゃって?いつも一人になりたいときは、スケッチするんだ。描いてることに没頭できるから、余計なこと考えなくて済むし。」


 拓海くんは、ふるふると頭を振った。会話を続けてもいいだろうか?スケッチブックを閉じながら、わたしは咄嗟に言葉を紡いだ。


「そっか、なんか分かるかも。へへ、スケッチちょっとサボっちゃおう。わたし賑やかな場所が苦手だから、この中庭で描きたかったの。ここってなんか、秘密の庭みたいで、誰も来ないだろうなって思ってたもん」

「秘密の庭か、うまいこと言うね。たしかにここの庭、静かで綺麗だもんな」


 彼がやわらかな眼差しで庭を見渡す。小雨が中庭を湿らしていく。


「綺麗だよね。ここにいるとすごく癒されるんだ……来たときはすっごく集中して描いてたから、声かけるのちょっと迷ったんだけど。驚かせちゃってごめんね」


「いや!全然構わないよ!むしろ僕の方が話しかけて邪魔しちゃってるし……でもなんか、ここの中庭に来る人ってあまりいないし、ここを見つけるなんて、やるな?なんて思って、ちょっと話したかった、ってのもある」


 笑みを溢しながら話す拓海くんに釣られて、わたしも自然と口角が上がる。


「ふふふ、わたしも、よく見つけたなぁと思ったよ。でもわたしの場合はサボりじゃないからね?

……あ、今はサボってるけど」

「たしかに。仲間を見つけちゃったな」


 冗談めかした言い方で、気づけば笑いが口から漏れていた。ふーっと、長く息をつく。


「なんかね、拓海くんのこと、会ったばっかりなのにね、親近感湧くんだよ。わたしも、よく一人になりたいときがあるから」


 彼の眼を見て話す。あなたは、どうして、一人になりたいと、苦しんでいるんだろう。


「僕も美月さんがここを好きな理由に賑やかな場所が嫌いだからって言ってたの聞いて、親近感湧いてる。僕が一人になりたいのは、ほんと周りに迷惑かけてばっかりだーって思って、自分が嫌になっちゃってさ。このまま教室にいたら、みんなに嫌味なこと言ってしまいそうな気がして」


 拓海くんが、言葉を区切る。まだ暗くて、見えない気持ちが、波を立て胸に押し寄せる。なんだろう、これは。


「聴かせてよ、今ここでさ暴露会しようよ。他人みたいなもんだし、この授業時間中誰も来ないよ。わたしも誰かに聞いてもらったり、吐き出すだけで楽になることもあるし」


 拓海くんは細く息を吐くと、おもむろに話しはじめた。


「そうだね、今なら話せるような気がする。聞いてくれるかな……」

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