音の歪んだ世界
生まれつき、僕は片耳の聴力が低かった。それでも、もう片方はよく聞こえていたから、片耳だけ補聴器をつけて生活していた。
会話にほとんど支障はなかったし、発音もみんなと変わらない。
小学校三年生のときに、交通事故に遭った。友達と喋りながら自転車に乗っていて、よく前方を確認しないまま交差点に入ってしまった。
今でも、友達の蒼白な顔と名前を呼ぶ声、すぐ目の前に迫った自動車の光景は、鮮明に記憶に残っている。
その後のことはあまりはっきりと覚えていない。後から聞いた話によるとボンネットに跳ね飛ばされ、歩道の縁石で頭を打ち付けたらしい。すぐに病院に運ばれて外科手術が施された。
幸い外傷はきれいに治ったけれど、頭を強く打ちつけた衝撃で、良く聞こえていた耳の聴力が著しく下がった。
僕の耳は正確に音を拾えなくなっていた。内耳にある空気の振動を伝える耳骨が歪んだのか、神経に障害が起きたのか、それともその両方か。手術をしても改善するかどうかわからないと告げられ、両耳に補聴器をつけることになった。
あのときから、世界が歪んで聞こえる。補聴器は、拾った音を増幅するだけの機械だ。脳に伝わる音は、歪んで不明瞭で、世界の輪郭までもがぼやけたようで。
悔しかった。
周りのみんなは普通に聞こえるのに、どうして僕だけがこんな目に遭わなければならないのか、苦しかった。どうして片耳難聴だけにとどめておいてくれなかったのか、と神様を恨んだ。
両親が、泣いていた。「聴こえる子に、産んであげたかった……」周りの大人は、言った。「あなたたちのせいじゃない。苦労も多いと思うけど……」
じゃあ、誰のせいなんだ。僕も悲しかったけれど、僕の存在が両親を悲しませていて、それに気づいたときは、惨めだった。これ以上、悲しんでほしくなくて、いつも笑顔でいるように心がけた。
自分の不注意が原因なんだから何も言えない。あれから自転車には乗っていない。怖いから。いい子に取り繕った仮面の奥で、ぶつける先のないごちゃ混ぜの感情は、ずっとくすぶっている。
でも、結局、僕はこの世界で生きるしかない。聞こえる音から、相手の様子や口元を見て推測し、会話するようになった。不便を感じることもあったけれど、幸い周りの友達は理解して、助けてくれた。
中学、高校と進んで、新しい友達も増えた。初めはみんな耳のことに敏感な振る舞いをしていた。だけど、僕の気にしていない素振りを見て、自分と変わらない世界にいるとみんな思うようで、気さくに接してくれる。
僕がみずからそうしてもらうように振る舞っているのだけれど、でも、本当はときどき、自分の気持ちがわからなくなる。
世界は、君らの聞こえているようには聞こえない。奥に押し込めていた卑屈な感情がむくむくと膨らむ。そうなると僕はもう、その感情につぶされそうになる。笑顔が、保てなくなる。
今日は久しぶりに嫌な気持ちで心がモヤモヤする。みんなが……みんなは、できるのに、自分は……自分には、できない。努力しなくてもいいことが、当たり前なことが、そうじゃない。
無性に、誰もいない場所へ行きたくなった。外は雨だ。あの中庭には誰も来ないだろうか。
5限が終わってすぐ友人に、気分が悪いから保健室へ行くと告げて教室を出た。
スケッチブックと鉛筆を持って、校内の庭園へ足を向ける。軒下なら雨にも濡れないだろう。
庭の奥に、紫陽花があった。濡れないところで慎重に場所を選ぶ。階段の段差に腰を下ろして、スケッチブックの新しいページを開いた。
目に見える風景を白い紙の上に写しとる作業は、僕の歪みも補正してくれるみたいだった。
健聴者への嫉妬、歪んだ音にさらされる毎日、聞こえないことへの劣等感、そんなふうにわがままな不満を抱く自分への情けなさ。
なんでだ、どうして、自分が、悪い?
絡み合った糸が解けて、紙の上に形を写していく。
スケッチに没頭していると、誰かに肩を叩かれた。驚いて振り返ると、鎖骨にかかる長さの髪を下ろした女の子が、スケッチブックと筆箱を持って、少し首を傾げて僕の座っている隣を指差している。
時がゆっくり動いていた。彼女の眼には、仄暗い中にチカリと光が見えた。
「あの、隣、座ってもいいですか?」
耳からの歪んだ音が、意味を持つ言葉に変換されて、反射的に僕は少し口角を上げて頷いた。
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