音の溢れる世界

 パッと目を開けて視界に入ってきたのは、見慣れた白い天井と薄いピンク色のカーテンだった。保健室のベッドの上でわたしは目を覚ます。


 窓を叩く雨粒が、幾重にも重なりあって鼓膜を揺らす。右の耳栓が取れていた。


 小さい頃から、体調を崩したり、不安なことがあったりすると聴覚が研ぎ澄まされる体質だった。周りの音が一度に押し寄せてきて、頭が動かなくなる。


 教室にいると、黒板にチョークが当たる音や、誰かがペンをノックする音、椅子や机が床と擦れる音が波のように押し寄せてくる。先生の声は頭の中でぐるぐる響いて、内容は一つも入ってこない。


 そんなとき、わたしは孤独で、周りに押しつぶされそうな感覚に陥る。


 昼休みに教室でワイワイと昼ごはんを食べる人たちに悪意はないけれど、どうしても耐えられないわたしは、いつも図書室前のベンチで友人と食べていた。


 今日は午後一番の数学を抜けてきた。何が原因かなんて分かりきっている。昼休みに先生に呼び出されたと思ったら、1ヶ月後のスピーチコンテストで作文を読んでくれと頼まれたのだ。人前で話すことは大の苦手だが、自分でも良い出来だと思っていた作文を認めてもらえて、はいと返事をしてしまった。


『あーあ、今からでも断れるかな? でも、先生かなり熱心そうだったしなぁ』


 スピーチには、いい思い出がない。


 小学校の全校集会で、作文を読んだことがある。静まり返った体育館の壇上で話し始めて少しすると、それはわたしに襲いかかった。


端から端へとざわめきが広がり、津波のように押し寄せてくる。


「「「……早く終わんないかな……」」」


 冷たい泥の中に足を踏み入れてしまって、『動けない』と思った。自信のない自分の表れだったかもしれない。でも、誰もわたしの作文なんて聞きたくないんだ、排除されているんだと感じて、現実に聞こえるべき音が何なのか、分からなくなった。


 5限の終わりを告げるチャイムが聞こえる。嫌な思い出から逃れるように、よいしょと気怠い体を起こし、カーテンを少し開けた。隔てられていた空間を繋ぐ音。


 確か、次は美術の授業だ。先週から各自校内で写生をしているから、このままスケッチに向かおうか。さっき教室でいたときよりも、気分は良くなっていた。


 しんどくてどうしようもないときにわたしを襲う音の波。

 自分では外せない大音量のヘッドフォンを付けているような感覚。


 嫌な思い出に蓋をするように、耳栓を付け直してベッドから降りた。保健室を出ると、休み時間にクラス移動をする人たちの音が遠くに聞こえる。空気のざわめき。


 教室がある校舎から少し離れた別棟のこの廊下はいつも静かだ。仄暗くて、誰もいない廊下を一人歩く。音に溢れているわたしの世界は、五月蝿すぎるから蓋をする。内側は、1人で、静かで、焦らなくていい。でも、誰かに見つけてほしかった。


 靴箱に入れてあったスケッチブックと筆箱を持って、学校の端にある小さな庭園へ向かう。先ほどまで雨粒を叩きつけていた黒い雲は空の端へ流れて、霧のような柔らかい雨に変わっていた。


 小道を足早に過ぎて別建ての倉庫が見えてくる。うちの高校はなかなかに歴史が深いらしく、年月を感じさせる校舎全体が古めかしい威厳を放っていた。目指す庭園は本校舎からは離れた奥側にひっそりとある。外周のフェンスと倉庫の壁の間を抜けていく。


 春には花壇にチューリップが美しく手入れされ、この梅雨時には艶やかに紫陽花を咲かせるその中庭は、わたしの心のオアシスだった。


 角を曲がると誰かの姿が目に入った。庇の下で腰掛けてスケッチをする男の子がいる。

 同じ美術選択のクラスにいただろうか?いや、いなかった気がする。彼は絵に集中していて、わたしに気がついていないようだ。


真剣な眼差しで、スケッチブックの上に鉛筆を走らせて、でも、何かを非難する眼に感じた。どうしてそんなに苦しそうに、何を見ているのだろう。


 おもむろに、わたしは彼の視界を邪魔しないように近づいて肩を叩いた。


「あの、隣、座ってもいいですか?」


 驚いた顔でこちらを見た彼は、少し間が空いたあとに笑みを浮かべて頷いた。わたしは、とっさに逸らしてしまった不自然な視線をごまかすように、そそくさと彼の隣に座った。


 脳裏に焼きついたのは、さっぱりと整えられた短髪からのぞく、彼の両耳に付いていた補聴器だった。

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