第2話 「元凶」
あの日以降も綾人は毎週末に望月家に赴き、その度に朝帰りを繰り返すようになった。しかし、事情は分かっていたため、大して心配はしなかった。
1ヶ月ほど経ったある日、仕事を終え、駐車場に向かって歩いていると、フェンスに背中を預け、熱心に携帯を操作する萌の姿があった。
「学校で携帯は禁止よ」
「……はいはい」
そう言いつつも、携帯から手を離さない彼女から私は携帯を取り上げる。
「ちょっと……!」
「悪いことをしたら罰があるのは当たり前でしょ?」
「はぁ……真面目すぎて気持ち悪い」
酷い言われようだが、それもひとつの見方として正しいような気もした。
「望月さんこれから時間ある?」
「……あるけど?」
そっけなく答える彼女を私は駐車場に連れていき、車の助手席に乗せ、発進させる。綾人に任せていたため、ここしばらく話せていなかったが、無性に話したい気分だった。
「ねぇ、先生ってさ。京先生とどういう関係?」
「どういうって……ただの同僚」
開口一番の問いに戸惑いながらも自然体を装って、答える。
「ただの同僚と一緒に帰ったりするんだ。とんだ尻軽女だね」
二人で帰る時には細心の注意を払っていたが、見られてしまっていたのだろうか。しかし、恋人であると認めるわけにはいかないため、苦し紛れに「昔の同級生」と答える。
「いつの? 高校? 大学?」
食いついてくる割には彼女の声が嬉々としている様子はない。
「京くんの家は転勤族だったから、中学の時、一年間だけ」
「それじゃあ、先生たちはいつ付き合い始めたわけ?」
「だから……私達はそんなんじゃ……」
「嘘。この車、前に京先生も乗ってた」
最初に家庭訪問に行った日にこの車を貸していたことを忘れていた私は言い逃れできない確固たる証拠を掴まれてしまい、なにも言えなくなってしまう。
「ほら、平然と嘘つくでしょ? 教師なのに、生徒と変わらないね」
皮肉じみた声色で話さず、淡々と色の無い声で話すのが、かえって強い皮肉に聞こえてしまう。
「それで? いつ付き合い始めたわけ?」
「……十年くらい前に同窓会で再会して」
「ロマンチックだね、案外」
「側から見れば……ね」
「はぁ……聞いてほしいなら素直にそう言えばいいのに。子供かっての」
こちらの思惑を見事に見透かされ、すっかり決まりが悪い思いをする。
「パパ活にもこんな人いるし、そのくらいは分かる。さっさと話せば?」
気を取り直して私はゆっくり話し始める。
「京くんは中学生の時に私と京くんと同じクラスだった人に好きな人がいたの」
「その人もその同窓会にいたの?」
「……うん、でも、同窓会で再会したその人はもう結婚してて、子どももいた」
今でも覚えている。歪んだ笑顔で結婚する想い人を祝福していた彼の姿を。
「私はその心の隙間につけこんだだけ」
重い沈黙が小さな車内を埋め尽くしていくような感覚だった。
「……
彼女が独り言のように呟いた言葉が私の心をえぐる。
「なんでそれを……?」
鎌をかけられたことはわかっていたが、そう答えるのが自分のためだと直感的に思った。
「京先生、私の家で浮気してるから」
とても信じられなかった。だが、神崎美月であれば、あり得ない話ではないと私が誰よりも分かっていた。
「じゃあ……望月さんのお母さんって……」
「そう、望月美月。旧姓は神崎」
乾いた笑い声が意識もせずに口から漏れ出る。
「悔しくないの?」
悔しいというよりも諦めの方が遥かに勝っており、私はただただ受け入れるだけだった。
「私は譲ってもらってただけだから」
「……情けな」
彼女は鼻で笑い、吐き捨てるように言い放つ。ようやく感情のこもった瞳には失望が浮かんでいた。
「次の信号のところで降ろして」
言われた通りに彼女を降ろし、ゆっくりと車を走らせる。
涙など出ない。私は借りていた物を回収されただけに過ぎないのだから。私は家に着くなり、寝室べッドに倒れ込み、そのまま意識がなくなっていった。
意識がはっきりすると、見知らぬ部屋に居た。椅子とテレビが用意されており、私はなんの疑いも持たずに腰を下ろす。
数秒してから、映し出された映像には見覚えがある。そこは十五年前、私たちが中学二年生だった頃のものだった。
「と、東京から引っ越してきました……京綾人です。よろしく……」
おどおどしながらの自己紹介が終わると、クラスメイトは拍手で彼を迎えた。
場面が切り替わり、図書室が映る。そこには熱心に本を読む『私』の姿があった。服の隙間にはいくつかの痣があることから、虐められていた頃なのだろう。
「橘さん……であってるよね?」
綾人に声をかけられ、彼女は恐る恐る読んでいる本から顔を上げる。転校してから2ヶ月が経過した彼は本来の社交性を取り戻し、転校初日のおどおどした雰囲気はすっかりなくなっていた。
しかし、『私』にまともな返答ができるわけがなく、彼女は軽く会釈をして、足早に去っていった。場面が連続で切り替わり、その度に『私』は綾人に話しかけられては逃げてを繰り返していた。しかし、10回を超える頃には彼女も心を開き、少しずつ話すようになった。今思えば、既に『私』は綾人に惚れていたのだろう。
何度も切り替わっていた場面が止まり、再び教室が映る。時刻は放課後だが、クラスの全員が残っている異様な光景は私も確かに覚えている。
「今日、皆さんに残ってもらったのは、私の話を聞いてもらいたいからです」
教壇に立った女子生徒、神崎美月は淡々と告げる。彼女は国会議員を父に持ちながら、中学生とは思えない美貌と知力、そのカリスマ性から生徒及び教師からも信頼は絶大だった。その証拠に早く部活を始めたいと思っている生徒はいるだろうが、反論する人は誰もいない。
「このクラスで起きている虐めについてです」
神崎の言葉に、関わっていた多くの生徒の表情が凍りついていく。
「あえて、名前は出しませんが、主犯だと思わしき人物がわかったので、先生に伝えておきました。今回はほとんどの人にお咎めはないでしょうが、『因果応報』ですので、お気をつけて」
犯人が割れ、こうして『私』への虐めはあっけなく決着した。
しかし、神崎の警告とは裏腹に新たな虐めが始まった。その標的となったのは京綾人だった。それも、『私』の時のように陰ではなく、教室などの生徒が多くいる場所で見せしめにするように暴力を加えるようになっていた。だが、彼を虐める生徒を恐れ、生徒のみならず教師までもが見て見ぬ振りをしていた。
ある金曜日、部活を終えた『私』は忘れ物に気づき、教室の鍵を借りに職員室に向かった。
「鍵? 職員室にはないから多分開いてるんじゃないかな?」
下校時刻が近づいていることもあり、急いで階段を駆け上がって教室に向かう。
「どうだ、神崎。我ながら上出来だと思ってるんだが」
クラスの扉に手をかけた瞬間、中から声が聞こえる。声の主は京くんとも仲の良い、
「ええ、十分すぎるほどですよ」
敦と神崎の組み合わせは普段ほとんど見ない組み合わせなので、気になったのだろう。『私』は反射的に扉の裏に隠れ、耳を澄ませる。
「しっかし、適当な噂を流しただけで、虐めってのはここまでエスカレートするんだな」
「中学校で悪名高い生徒の大半は後々のことを考えていない猿の集まりですから。少し噂を流して始まりを作ってしまえば、後は放っておくだけでも広がっていきます」
「今回もある程度まで行ったら虐めてる連中を告発するのか?」
「ええ、私達はあくまで傍観者。一通り楽しんだら告発して、私は更に教師からの信頼を得ます。この前の橘さんの時のように」
真実に気づいた『私』はガタガタと震える身体を抑えながら、ゆっくりとその場を離れ、教室から絶対に見えない位置まで移動すると、一目散に駆け出した。
その日から、『私』は数日ほど身体を壊した。
1週間ほどして、『私』はようやく学校に行くことができるようになった。誰からも心配されることなく1日が終わり、いつも通り本を読みながら下校していると、クラスの女子生徒が『私』の前に立っている。彼女が本から顔を上げると、それは神崎さんだった。
「1週間も休んでましたよね? 大丈夫でしたか?」
優しい声がかえって恐ろしく聞こえているようで、映っている右手が微かに震えているのが分かる。
「これ、1週間分のノートです。私は別のノートで授業を受けてますので、ゆっくり写してください」
『私』はノートを受け取り、それを鞄にしまうと、なにかを思い詰めたように背を向けて歩いて行く神崎を見つめる。
「か……神崎さん!」
呼んでしまったことへの後悔と恐怖からすぐに口を押さえるが、もう遅い。
「どうしました?」
「……京くんを助けて……くれないかな」
恐る恐る自分の要件を伝えると、神崎はにこやかに微笑む。しかし、その目は笑っていなかった。
「少し長くなりそうですし、車内で話しましょうか」
彼女に連れられ、学校より少し離れたところにある駐車場に着くと、そこには田舎には似合わない高級車が停まっている。
「乗ってください」
高級感溢れる車にまるで縁のない『私』だったが、車内には目もくれず、目の前に座る神崎だけをじっと見ていた。
「用件は京くんを助けてほしいでしたね?」
目の前に座っている彼女は同じ歳とは思えない威圧感を放っており、『私』は完全に押されてしまっている。その証拠に頷くのにも数秒かかってしまっていた。
「正直、今回は既に表沙汰になっている割には主犯が見えていません。私にも解決できないというのが現状です。力になれず、申し訳ありません」
そう言って彼女は頭を下げる。彼女の本性を知っている『私』は分かりやすく困惑の表情を浮かべる。
「そ、そうですか……」
「こちらも……ひとつよろしいでしょうか?」
「はい……?」
「いつまで、その白々しい演技をするつもりですか?」
彼女の瞳に鋭い光が宿り、肺を刺されたような息苦しさが『私』を襲う。
「知らないはずはありません。貴女があの場所にいたことは知っています。なにより、聴こえるように私は喋ったのですから」
「なんで、こんなことを……?」
『私』が観念し、絞り出すように疑問をぶつけると、彼女は鼻で笑って答える。
「『人は利用するもの』、これが私の亡くなった母の口癖でしてね。私はあの人のことが好きではありませんが、この点に関しては共感できます。なによりも……」
「人の苦しむ姿に勝る娯楽がありますか?」
感じていた恐れが本物の恐怖となって、『私』の身体に襲いかかる。
「教師やクラスメイトは私の功績を称え、私に惚れた人間は私自身を餌にすることで操ることができる。気に入らない人間がいれば、指示を下すだけで惨めな姿を見ることができる。全てが私の思い通りに。素晴らしいと思いませんか?」
もはや、『私』の目に彼女は同じ生き物として映ってはいないようだった。純粋な悪という存在に私はただただ恐怖していた。
「京綾人が好きなのであれば、私を告発すればいい。そうすれば、貴女は彼の英雄となり、彼の信頼と恩を一纏めに受け止めることができる」
すると、神崎は『私』の耳元に顔を寄せ、小さく囁く。
「ですが……そんなことできないですよね?」
『私』の答えなど分かっていると言うように、彼女は続ける。
「ですが、良心的な私は、条件次第では……貴女と京綾人を無条件で標的から外し、貴女が京君を手に入れることのできる提案をしてあげます」
「本当に……?」
「ええ、私の悪事を口外せず、私に協力すると約束してくれれば、ですがね」
悪魔のような囁きに私は抗えなかった。すぐさま『私』は席から降り、床に膝をつけ、頭を下げる。
「やります! 私はなんでもやります! 貴女のために!」
恐怖で埋め尽くされた『私』に、綾人の保身など考える余裕などなかった。もし、他のどのような提案であろうと、『私』は受け入れたのだろう。
「あぁ……楽しい」
この三日後、神崎の摘発により、綾人への虐めは止んだ。
ここで映像は止まった。いつのまにか、見知らぬ部屋から、以前にも来たことのある霧の深い場所に私はいた。
「貴女が神崎を摘発すれば、綾人は最初から貴女の物だったかもしれないのにね」
唐突に目の前にいるであろう、『なにか』が私に話しかけてくる。しかし、霧が邪魔でその正体は分からない。
「後悔はする。でも、今でもなにが正解かだなんて、わからない」
「京綾人はこの一件以降、神崎美月に恋心を抱いた。貴女の尽力も知らずに、神崎の正体も知らずに!」
結局、綾人はそれから三ヶ月で家の事情で学校を去った。神崎への強い恋心を持ったまま。
「しかし、貴女は勝った」
『なにか』の声がそれまでの皮肉じみた声から自信に溢れたものに変わる。
「……私は彼の心につけこんだだけ」
あれから五年後、行われた同窓会で綾人は神崎と再会した。しかし、神崎は妊娠していた。他でもない、綾人の昔の親友、望月敦の子を。その話を事前に聞いていた私は半ば失恋状態であった彼の心につけこみ、手に入れた。
「良かったじゃない。念願の人を手に入れられて」
「綾人は私を好きなわけじゃない。私の中に神崎さんの影を求めただけ」
「それじゃあ、貴女はどうする? 諦めるの?」
「私は彼を手放すわけにはいかない。必ず、取り戻す」
「そう、それでいいの」
彼女はそう言って指を鳴らすと、辺り一帯が暗闇に染まり、彼女も消えていた。
私は彼のために尽くしてきた。神崎美月に成るために。私はなにを間違えたというのだろうか。なにが足りなかったのだろうか。辺りには赤い彼岸花が咲き誇っていた。
「千慧、大丈夫?」
気分の悪い夢からの目覚めは最悪だった。浮気が確定したわけでもないのに、綾人の声を聞くだけで気分が悪くなる。
「………ごめん、ちょっと気分悪いから……外の空気吸ってくる」
彼はなにかを言いかけたが、さすがに付き合いが長いだけはある。怒りを煽るようなこともせず、引き止めることもしなかった。
私はどこに行くのかも決めず、車を走らせる。とりあえず、美味しいものでも食べようかと思ったが、なにを食べても吐いてしまいそうで気が引けた。
今は、無性に誰かに会いたかった。
「………なにしに来たの?」
誰かに会いたいという一心で辿り着いたのは望月萌の家だった。なにをしに来たのかと言われても答えられない。
「はぁ……もういいよ。さっさと乗せて」
私の意図を汲み取ってくれたのか、あまり追求することなく私の車に乗る。
「なんでも良いから、ご飯食べたい。先生の奢りで」
「……うん、いいよ」
夜九時、ほんの五時間前に萌を指導していた教師としての私の姿はそこに残ってはいなかった。
少し離れたところにある喫茶店に着く。私自身もこの店に来るのは数年ぶりだが、懐かしさは感じなかった。
「そもそも、先生とあの女のどこに接点があるわけ?」
頼んだハンバーグを頬張る萌は誤魔化すことなく、素直な疑問をぶつけてくる。
「私と神崎さんは同郷なのよ。まぁ、家柄が違いすぎて、話すようになったのは中学の後半からだけどね」
「後半って……先生って昔からコミュ症なんだね」
半笑いで言われたことも屈辱だが、隠していたはずのコミュ症が露呈してしまっていることの方が恥ずかしい。
「あんまり遅くなっても嫌だからさ、さっさとあの女と先生の関係聞かせて」
「でも……生徒にこういうのは……」
いざ言おうとすると途端に羞恥心が襲い、萎縮してしまう。それらしい言い訳を並べてると、彼女も大きな溜息をつく。
「あのさぁ……誰かに話したいけど、話せる人がいないから私のところに来たんでしょ? 今更、生徒がどうのこうのなんて言われても遅いっての」
「……誰にも言わない?」
「言うような友達もいないから、さっさと話して」
堂々と言い放つ姿に真実味を感じ、私は大人しく言うことにした。
「へぇ………案外エグいことするんだね、あの人」
萌のためにも神崎の妊娠と綾人の失恋のくだりは割愛したが、それでも話の内容が思いのほか重かったのか、萌は特にそれ以上なにか話すことはなかった。会計を済ませ、私達は店を後にする。
「私、お母さんのこと嫌いなの」
車を走らせてから数分間して、ようやく萌は口を開く。
「知ってる」
「先生の思ってるよりも比べ物にならないぐらい、嫌い」
「……そんなに?」
「……私さ、結構小さい頃に育児放棄されて、5歳までは母方のお姉さん、要するに伯母さんに育てられたの」
「あの神崎さんが……なんで……?」
神崎さんの本性が真っ黒であるとはいえ、にわかには信じられなかった。
「さぁね、理由は知らない。でも、小さい頃から、私は伯母さんから『本当のお母さん』がいるって言われてたから、存在は知ってた。伯母さんもあんまり優しくなかったから、お母さんがいるって言われて嬉しかった」
当時に想いを馳せるように、彼女は顔を少し綻ばせる。
「6歳になって、入学式の前日、あの人は迎えに来た。でも、あの女は私の理想とは真逆だった。待っていたのは孤独な生活。あの女は食べ物とお金を置いて、夜の街に働きに行って、休みの日は男とホテルに出かけるような生活をしてた。昼に起こすと物凄く怒るから、私は徐々に話しかけるのをやめるようになった」
綻ばせた顔が一瞬にして消え、再び無表情になる。
「今思えば、ある程度、自分で生活できるようになったから、迎えに来てくれたんだろうね、あの人は」
こんなに悲しいことがあるだろうか。私には到底理解できない痛みを彼女は既に負っている。同情もしたが、同時に今までの彼女の言動に納得もしてしまった。
「……私は自分の人生を使って、あの人の人生を否定したい」
普通の生徒が言うなら戯言と割り切るが、彼女は違う。心の内に明確な母親への憎しみがある。
「……殺すのはダメだよ?」
「そんな馬鹿なことはしない」
「……じゃあ、普通の仕事をして、普通の恋をして、普通の結婚をして、普通の幸せを掴むっていうのはどうかな」
「……アホらしい」
「案外難しいのよ? 普通の幸せを掴むって」
「……先生が言ったら、なんか生々しくて嫌」
自虐のつもりで言ったわけではなかったのだが、そう取られてしまったらしい。
「先生ってさ、京先生に怒ったことある?」
「……ないかも」
言われてみて初めて気づいたが、考えてみると彼に怒りを露わにしたことがない。自分でも驚きだった。
「きっと、橘先生は本心を隠してるんだよ。京先生に」
「そうなのかな……?」
「京先生が彼氏として良い人だなんて、少なくとも私には思えない」
「そんなことないと思うんだけどなぁ……」
「まだ気づかないの? 欲しくなったら熱烈に求めるのに、要らなくなったらさっさと棄てる。京先生も、所詮はくだらない男だよ」
「慰めてくれてるの?」
「……んな訳ないでしょ」
彼女は毒づいたように言うが、照れを隠し切れていなかった。
「案外純粋なんだね、望月さん」
「大人が不純すぎるだけ」
「それが分かってるのに、なんで売春紛いのことしてるの?」
「……なんでだろうね」
彼女は数秒言葉を止めたかと思うと、ゆっくりと答える。
「純粋で綺麗な大人がいたら良いなっていう願望」
窓の外の景色を見ながら、彼女は諦めるように呟いた。
彼女の家に着いたのは0時を回っていた頃だった。
「ありがと、先生」
見送ろう思い、私も車から降りると、彼女が玄関を開けるよりも早く扉が開き、人が出てくる。
「教師が生徒を誘拐とは、なんの冗談です?」
同窓会以来、十年ぶりに聞くその声は以前ほどの鋭さはないものの、十分な威圧感を放っていた。
「神崎さん……」
「久しぶりに出てきて……母親面するなっての」
彼女はドスの利いた声で呟くと、さっさと家の中に入ってしまい、私と神崎さんだけが取り残される。
「私の娘がお世話になってるようで、橘先生」
浮気の現場を見たわけではないが、先ほど聞いた萌への仕打ちも重なり、憎悪が心の中に湧き上がってしまう。私は必死で平静を保つ。
「今夜は遅くまでお嬢様をお借りしてしまい、申し訳ありませんでした」
彼女との決着はまだ早い。そう言い聞かせて、私は頭を下げる。
「そうですか。次は気をつけてくださいね」
「……はい」
「………建前はこれぐらいで良いですか?」
長い沈黙を終わらせる神崎さんの一言は昔の彼女を彷彿とさせた。この女は十年前から何一つ変わっていない。
「私が娘のために出向く人間でないことぐらい、分からない貴女ではないでしょう? それとも……そう思いたくなかっただけ?」
むしろ、人間観察に磨きがかかり、昔よりもかえってタチが悪くなっているようにも思えた。
「図星だなんて。あまりにも進歩が見られなくて逆に驚き」
「……貴女が綾人を誑かしたの?」
無理矢理にでも私のペースに持ち込むための悪手。だが、これ以上彼女のペースに乗せられれば、後がない。
「誑かした? いいえ、私は彼の決断を待ったに過ぎない。京綾人は自分の心に従っただけ」
「……私の負けだって言いたいの?」
「十年。私は貴女に十年もあげた。せめてもの優しさで貴女にも、京君にも一切連絡は取らなかった。それでも、彼の私に対する想いは揺らぐことなかった」
弁明のしようのない事実に私は無言で拳を固く握りしめることしかできない。
「男とは常に理想を求める生き物。この十年、彼の隣は貴女だった。私ではなく、貴女。思い出とは時間が経てば経つほど輝かしいもの。良くも悪くも、貴女は私の与えた十年に負けたのですよ」
何故、私はこの女に堂々と種明かしをされても、打つ手がないのだろうか。自己嫌悪が私の心を蝕み始める。
「せいぜい頑張ってください、橘千慧さん」
そう言い残すと、神崎は家の中に戻ってしまう。結局、終始彼女のペースのまま終わってしまった。
「あんたに綾人は渡さない……」
私の声は誰もいない夜の町に響いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます