相模奏音/才羽司

第1話 「異変」

たちばな先生さぁ、私が怒られる理由ある?」

  ある日の放課後、呼び出した生徒、望月もちづきもえが目の前に気怠そうに座っている。

 髪は輝くような茶髪、耳にはピアス、化粧もしっかりしている。美人といえば美人だが、中学生としては最悪だ。

「あのねぇ……あなたのやっていることは……」

「売春は法に触れるからダメ、でしょ?まぁ、売春じゃなくてただのパパ活だけど」

 彼女は机に少々身を乗り出してそう返す。依然として保ち続けるその笑顔の裏にある本心が全く見えない。

「でもさぁ、仕方なくない? 法律を守ってれば、お金が手に入る? お腹いっぱいになる? 幸せになれる? そんなわけないでしょ?」

 詭弁だ。だが、なにが間違っているのかを指摘することができない。

「ほら、なんにも言えない」

 笑顔を消し、彼女は卑下したような顔つきで私を見る。

「私ね、大人って生き物が嫌いなの」

 その一言は彼女の13年という短い生涯で生まれた恨みの全てを表すような重みを持っていた。

「勝手で、気ままで、自己中で、ウザくて、邪魔で、おまけにヒステリック。これが大人」

 その表情に怒りなどない。あまりにも失望しきっている。そして、その失望は伝染するように私の心に入ってくる。

「………親御さんにも報告させてもらいますので」

「はぁ……勝手にすれば? どうせ、あの人は私に興味もないだろうし」

 そう言い残すと、彼女は部屋を後にする。私は引き止める気にもならず、ただその背中を呆然と見ていることしかできなかった。



 たちばな千慧ちさと、三十路に限りなく近い二十九歳。同級生の中には結婚して子どももいる人もいるため、婚期に焦る年頃。だが、私には十年間付き合っている彼氏がいるので、別段焦る必要はない。

 職場からかなり離れてはいるもののとても高速道路の乗り場に近いことから、通勤時間には困らないアパート。そこで私の同僚であり、交際中の彼氏でもある、かなどめ綾人あやとと同棲している。

 私はいつものようにコンビニでお酒を買い込み、まっすぐ家に帰る。

「おかえり」

 台所に立つ彼がそう優しく答えると、私は彼の背中にもたれかかるように倒れる。

「料理中に背中にくっつくなっての……」

 そう毒づきながらも私をどかそうとせず、慣れた手つきでフライパン上の料理を皿に移す。

 ふと後ろを振り向くと、食事のテーブルが勉強机と大差ないほど汚れていた。相変わらず料理はできるが、片付けはできないらしい。私は背中から離れ、いつも通り片付けを始める。

 ちょうど片付けを終える頃、彼も料理を終え、机に並べる。私は冷蔵庫から買っておいたお酒を開け、晩酌を始める。


「それでさぁ!なんて言ったと思う⁉︎」

 酔いのせいで感情が昂ぶっているらしく、普段の私なら驚くぐらいの声が出る。綾人はいつも通り最小限の返答でただ聴いてくれているが、それが逆に申し訳ない。

 一通り私の長い愚痴が終わり、綾人はお酒を一口飲んでから、口を開く。

「望月萌の件、一旦俺が全部受け持とうか?」

「……いいの?」

「素行不良、両親はとっくの昔に離婚していて、一緒に暮らしている母親との仲も悪い。酷い家庭環境だ。千慧の手には負えないだろ?」

 彼の提案を了承することは一縷の敗北感を感じさせたが、自分の力不足は認めざるを得なかったため、素直にその提案に乗ることにした。

「できれば、明日、千慧の車を借りたいんだけど、良いか?」

 綾人と私の車では明らかに私の方が燃費も良く、綺麗だからという理由なのだろう。私は快く了承する。

「ありがと、明日も早いんだから、今日はもう寝たら?」

「うん……そうする」

 私はそのまま寝室に行き、倒れ込むように眠りについた。


 気づけば、霧の深い場所にいた。足下を見ると、沢山の赤い彼岸花が咲いている。

 私はいつも通りのスーツを着て、立っている。その場所はやけに寂しく、空を仰いでも、暗雲しか見えなかった。

 人の気配はしないが、霧にうっすらと人影が見える。目を凝らしてもその影の正体はわからない。

「怖いの?」

 どこから聞こえたのか分からず、振り向くが、誰もいない。霧の中の『なにか』が私に話しかけたのだ。

「勘違いしたら駄目、あなたは『代わり』でしかないの」

 そう言われたところで私は夢から覚めた。


 起きた私の身体は全身汗で濡れており、実に悪い寝起きだった。

「大丈夫か?」

 だいぶうなされていたらしく、ベッドの縁に座っていた綾人が心配した様子で私を見ていた。

「うん、大丈夫」

 そう答えたものの、私はいつもの癖で、反射的に彼に抱きついてしまう。

 あの夢は確かな恐怖として私の心に根付いていた。



「橘先生、少しよろしいですか?」

 放課後、自分の机で仕事をしている私に話しかけてきたのは、学年主任の斎藤さいとう有紗ありさ先生。年齢はほとんど変わらないのに、確かな実績と教育への強い熱意を持った教師。私の対極に位置する人だと考えれば良いのかもしれない。

「ここでは話辛いので、場所を変えても?」

「は……はい」

 断ることもできず、主任について行くと、行き先は生徒指導室だった。中に生徒がいないので、私自身に話があるのだろう。

「先程、京先生から私の方に望月萌を一度預からせて欲しいとの要望を受けました。これは橘先生もご存知ですか?」

「はい、彼から提案があったので、彼に頼みました」

「極力、このようなことは担任である橘先生がするべきだと思いますが」

「それは分かっています。ですが、私自身の力不足せいで彼女を野放しにするのはいかがなものでしょうか」

「橘先生」

 私の最もに聞こえそうな言い訳を遮るように、主任は静かに良く通る声で短く私の名前を呼ぶ。

「簡単な問題児というのは存在しません。力不足で言い逃れしているようでは、貴女自身の成長は見込めませんよ?」

 なにも言い返せずにいると、主任は溜め息を吐く。

「教師同士の恋愛を禁止しているわけではありません。ですが、少々京先生に依存しすぎではありませんか?」

「……すみません」

「まぁ、今回の件に関しては橘先生だけの問題ではないことも事実。ですので、今回は大目に見ますが今一度、考え直してください」

「はい、ありがとうございます」

 私はゆっくりと頭を下げ、その場は凌ぐことができたが、仕事に戻れる調子でもなかったので、定時通りに私は約束通り、綾人の車で帰路に着く。


 基本的に私は残業する人なので、家に帰って誰もいないのは久々だった。

「……ご飯でも作るか」

 家で仕事をしてもいいが、生憎そんな気分ではない。

 綾人に『遅くなる?』と短く尋ねると、『遅くなりそう』との返信が来たので、少し手のかかる料理を作ることにし、買い物に出かける。

 あまり料理は得意ではないが、携帯でレシピを確認しながらであれば、私でも十分作れる。それに、綾人も頑張っているのだと思えば、気持ちは楽だった。二時間ほどかけて、グラタンを焼く寸前まで作り終える。あとは綾人の帰りに合わせて焼けばいい。


 時計を見ると、19時を回ったので、綾人に『そろそろ終わった?』と尋ねると、15分ほどしてから『ごめん、まだまだ少しかかりそう、先にご飯食べといて』との返信が来る。

 せっかく頑張ったのだ、と彼を待つことにするが、そこから二時間しても帰ってこない。普段の私なら待ちかねて食べてしまうところだが、なにか負けた気がして嫌だった。連絡しようと思ったものの、良き彼女でいたいと思う自尊心がそれを阻んだ。



「……随分、遅かったね」

 私は早朝に帰ってきた彼にいつになく厳しい声色で問いかける。

「……ごめん」

「連絡のひとつもよこさないで、心配したんだから……」

 長時間待機から出る疲れ、彼への不満、無事に帰ってきてくれたことへの安堵などの感情が入り乱れ、涙が溢れる。彼はそんな私を抱きしめ、数秒してから口を開く。

「ごめん、望月の母親が夜の仕事してる人で……結構な時間になるまで会えなかった」

「じゃあ……なんで連絡くれなかったの……?」

「自分でもこんなに遅くなるって思ってなかったし、もう寝てるかと思って……考えが甘かったのは、謝る」

「わかった……今日はさ2人で過ごそ……?」

「……良いよ」

 私達が2人で有給を取る連絡をすると、事情を理解してくれた主任から許可が降り、この日は家でゆっくり過ごした。

 

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