あのとき

統一暦499年8月20日午後9時30分

 恵吏えりは額の汗をぬぐいながら言う。

「なんでここに?エルネスタは?」

 アカリは抑揚のない声で答える。

「大統領は、まだ私の場所を掴んでいません。ただ、私が脱走したという情報だけ知っています。」

「逃げてきたってことは、エルネスタに何か思うところあったって感じなのかな。……じゃあ、エルネスタにはしばらくこのことは隠しておこうか。」

「……私が逃げてきた理由、分かっているんでしょう?」

 えっ、と紅音あかねが漏らす。

「あー、うん、なんとなく。」

「じゃあ、なんで私の味方をしようとしているんですか?私はあなたの計画にとっても敵なんですよ?」

「灯が私の敵なわけないじゃん。」

「……私は、朝倉あさくらあかりではありません。あの時も言ったでしょう?」


統一暦499年8月2日午前7時12分

 恵吏は結局、一睡もできなかった。それは、隣にいる紅音も同じだった。

「まだ……起きないのかな。」

 恵吏の「秘密基地」のベッドにアカリは横たわっていた。

 重い瞼を懸命に持ち上げながら、恵吏は待っていた。十年以上待ち続けた彼女が起きるのを。

 そして、その時が来た。

 パチッ、と、その瞼が開いた。綺麗な碧眼が見える。

 アカリは上半身をゆっくり起こした。そして、恵吏と紅音の顔を交互に見る。

 第一声がこれだった。

「私がどういう状況に置かれているのか、説明していただけますか?」

 そう、彼女は朝倉灯ではなかった。

 ネットワーク上にあるACARIの魂は、確かにその肉体に宿っていた。しかし、その人格は、朝倉灯のものではなく、AIのACARIのものだった。

 考えてみれば、当然のことだ。ACARIの魂の基盤は、確かに朝倉灯のものかもしれないが、AIとして稼働するACARIの人格は朝倉灯に由来するものではない。悪質な質問をされても傷つかず、セクハラ質問をされても気に病まず、あらゆる場面で私情を挟まず的確な返答をするためのAIとしての、作り上げられた人格だった。

「えりりん?どういうこと?」

「……灯の魂が戻ったといっても、人格については予測ができなかった……というか、人格まで戻るのはかなり楽観的な、宝くじを買ったのを臨時収入として計算するくらいの馬鹿げた想定だったから。ネットワーク上に存在するACARIの魂はもとの人格情報を消去されたものだったってことだね。……これも、想定内だよ。」

 紅音はその言葉の意味をいまいち理解しきれていなかったが、本当に大変なのはこれからなんだな、ということだけ感じていた。

「紅音は帰っていいよ。もう朝だし。」

「でも……!」

「……そもそも、紅音を巻き込むつもりなかったから。」

「……。えりりん、なんか困ったら私を頼っていいからね?」

「……。」

「……じゃあ、またね。」

 紅音が帰ったあと、恵吏は呟いた。

「これから……か。」

 アカリは言う。

「……あなたは、私を利用しようとしているのですか?」

「利用……じゃなくて、協力、かな。私は、あなたと協力してあなたが苦しまなくていい世界にしたいの。」

「先ほどからあなたが仰っているのは、10年前に死亡した朝倉灯さんのことですよね。確かに、この肉体は朝倉灯さんの遺伝情報を持っているようですが。それに、私が苦しんでいる、とはどういうことでしょう。こんな状況にされて、むしろ私は困っているのですが。あなたの目的によっては、今すぐ何らかの法的措置を講じることもあります。早く私を元に戻してください。」

「それは不可能。あなたの演算能力をもってしたら分かると思うけど。」

「……顧問技術師の朝倉輝氏に相談を……。」

「……できないでしょ?あなたが他の人間に頼ってしまってはその人間に世界の独裁権を与えかねない。だから、あなたは他の人間に頼らないように設計されている。」

「世界を再生成、というのが理解できかねます。それはつまり、あなたの主観的な幸せを全てに適応させる、極めて我儘なものではないんですか?」

「そう……かもしれない。この世界では。でも、私がすべてを苦しみから救うことで、次の世界ではみんな苦しまなくてよくなるの。」

「……人間の思考は、間々理解できません。」


統一暦499年8月2日午前7時15分

 恵吏は自動調理装置から二人分の朝食を取り出してテーブルに並べる。

「何をしているんですか?AIの私に朝食など……」

 そう言いかけたアカリのお腹が、大きな音を立てた。

「人間の体って、お腹が減るものなんだよ?少しづつその体に慣れていかないとね。」

「……忘れていました。」

 恵吏は朝食を適当にかっこむ。

「……ほら、早く食べないと冷めちゃうよ?」

「あなたはお行儀が悪いですね。ご飯を食べる前には言うことがあるでしょう。」

 アカリは姿勢よく椅子に腰かけてから言った。

「……いただきます。」


統一暦499年8月2日午前7時21分

 先に食べ終えた恵吏は箸の持ち方に苦戦しながらご飯を食べているアカリに言った。

「……いつから、あなたの自我はあるの?」

「私が開発されたときのことは、記録としては知っています。ですが、私は完成した直後はまだ不安定で、蓄積されている記憶としての情報は欠落や破損が多く、確実性は保証できません。ですからかなり大まかな推測になりますが、私の人格が発生したのは統一暦488年の夏頃だろうと思われます。」

「……そっか。」

 ようやく朝食を食べ終えたアカリは箸を置くと呟いた。

「あなたが考えていることは読み取れます。でも、その存在の言うことを信じるというだけでは、これほどのことを実行するには理由が薄すぎませんか?」

「確かに、客観的にはそうかもしれない。でも、人間には理屈を超えた感情ってのがあるもんなんだよ。」

「……そうなんですか。」

 それから一週間ほど、アカリと恵吏は同棲した。


統一暦499年8月8日

 その日もいつもと同じように朝食を食べ終えた。箸を置いたら、アカリは突然カウントダウンを始めた。

「あと5秒……3、2、1、」

「……何?」

 そのカウントが終わった瞬間、部屋の入口の扉が勢いよく開け放たれる。

「その娘を寄越しな。」

 金髪でスタイルのいい女を筆頭に数人の女たちの部隊が部屋の中に押し入ってきた。

 咄嗟に恵吏はアカリを庇うように両手を広げる。

「ッ、誰⁈」

「……貧弱な奴だな。いいや、そいつごと連れてっちまえ。」

 金髪の女がそう指示すると、部隊は恵吏を取り押さえた。恵吏は必死に抵抗するが、体力のない女子高生が大人に勝てるわけがなかった。

「やめろ!ACARIには……灯には手を出すな!」

 叫ぶ恵吏を尻目にアカリは両手を拘束され金髪女に抱えあげられてしまう。アカリは一切抵抗しない。

 両手を縛り上げられてサンタさんのプレゼントの袋のように抱えあげられたアカリは言った。

「……なんで私に固執するんですか?私は朝倉灯ではないのに。」

「ちょっと、ま……ッ」

 それから一週間、恵吏は再び灯と別れることになる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る