最終話
コンラッド・ビーン少佐は曽祖父の代から続く、軍人の家系に生を受けた。
祖国の自由とアメリカ国民の権利、そして人間としての尊厳を守るために命をかけるのがアメリカの軍人というものだ……生まれた時からそう教え込まれて生きてきたコンラッドは、自分が決して優秀な兵士ではないことを知りながらも軍人の誇りだけは守り通して生きてきた。
だから、規律とは無縁の無軌道な生き方。生きるためなら人間の死体でも食う倫理観の欠如。尊厳も尊敬もなく、献身も忠義もない……あらゆる意味で自分と真逆の存在であるキングは、コンラッドにとって『深きもの』以上に理解しがたい存在だった。少なくとも『深きもの』の世界には単純ながらも指揮系統があり、秩序がある。
(おかしなものだな)
群がってくる『深きもの』に向かって発砲しながら、コンラッドの視線は常に予測不能な動きで次々と『深きもの』を無力化していくキングの姿を捉えていた。銃撃に巻き込まないためか、あるいは隙を見て背後から狙い撃つためなのかは彼自身にもわからない。
(とりあえず手を組んだヤツよりも、敵の方に共感してるなんてな)
これ以上有り得ないほど効率的に敵を屠っていくキングの姿は決して美しくはなかった。体液と跳ね上げた泥にまみれながら、雄叫びを上げ、次の獲物に食らいつく。
「コンラッド!」
リンダの叫び声。我に帰ってそちらを見れば敵の増援が向かってくるところだった。コンラッドはポーチの中から手榴弾を取り出し、ピンを抜く。
「虎の子ってヤツだ! くれてやる!」
放物線を描いて『深きもの』の群れの中に落ちた手榴弾は轟音と共に爆発した。威力を増すために内蔵されていたベアリングが飛び散り、周囲に引き裂かれた肉片を撒き散らす。
「今だ! 突破しろ!」
爆発の混乱で乱れた陣形を打ち砕き、三人は一気に駆け抜けた。目的地の第二花壇はもう目の前だった。
だが、彼らの奮闘もそこまでだった。とうとう弾丸が尽きたのだ。
おまけに、さすがのキングにも疲労の色が見られるようになってきている。鉈の切れ味が目に見えて落ちているのはこびりついた脂のせいだけではないだろう。
気がつけば、三人は『深きもの』の群れに取り囲まれていた。激しい雨にも洗い流されない生臭さがムッと押し寄せてくる。
「最悪の終わり方ね」
そう言ったリンダだったが、言葉の中には充足感の響きがあった。兵士として、やることはやり切った……ということなのだろう。
「……腹が減った……」
「これでも食ってろ」
コンラッドがキングに投げて渡したのはレーションのエネルギーバーだった。開封して一口齧ったキングは顔を顰めて「マズい」と呟く。
「それでも、食って死ねるだけマシだろ。悪いがオマエはそれで我慢してくれ。こっちは二人分しかないからな」
苦笑いしながら、コンラッドはポーチから錠剤を取り出し、一つをリンダに手渡した。
「それは?」
「自決用の毒薬だ」
キングはため息をついた。
「そんなもんで死なれたら食いもんにならねえじゃねぇか。まったく、オマエらはいちいち食い物をムダにしやがる」
「ゴメンね、食べられてあげられなくて」
リンダに謝罪され、憮然とするキングの肩をコンラッドが叩いた。
「なんで俺がオマエの腹を満たしてやらなきゃならねぇんだ? オマエの餌なんてあの化け物で充分だろうが……もっとも、次はオマエが食われる番だがな」
コンラッドはニヤリと笑った。最後の最後に嫌がらせができるのがこの上なく嬉しいのかもしれない。
「じゃあな、悪食の王さま」
コンラッドとリンダが頷きあい、錠剤を口に運ぼうとした瞬間……
「うおっ!?」
飛来したロケット弾が三人を取り囲んでいた『深きもの』の一団を吹き飛ばした。爆風が三人の元まで押し寄せてきて、リンダの手にしていた錠剤が何処かへ飛んでいく。
続いて、バタバタと断続的に空気を叩くローターの音。見上げれば、無骨なシルエットの金属の塊がゆっくりと降りてくるところだった。
「アパッチ!? 来てくれたのか!」
コンラッドが歓喜の雄叫びを上げた。
『伏せてろ』
外部スピーカーから英語の声。リンダは意味がわからず立ち尽くすキングの頭を押さえつけて地面に伏せた。
機銃掃射が始まった。次々と撃ち込まれる弾丸に『深きもの』たちの肉体が弾け飛ぶ。通常、水中や地下を移動する『深きもの』に対しては無力な戦闘ヘリコプターだが、この状況では圧倒的優位にあった。『深きものが』逃げ惑い、混乱したところへロケットランチャーが撃ち込まれていくつもの火柱が上がる。
「迎えにきたぞ、コンラッド!」
呼びかけに見上げれば、ロケットランチャーを構えたアジア系の男がアパッチのハッチから身を乗り出していた。
「ワン・リー! どこに隠れていやがったんだ!?」
「その辺のビルの屋上にな! それよりも急げ! ヤバイことになってるんだ!」
「ヤバイこと……? この状況よりヤバイ状況がまだあるってのかよ……?」
切羽詰まった戦友の言葉に顔を見合わせてから、コンラッドとリンダはホバリングするヘリコプターから落とされた縄梯子に取り付いた。
「キング! あなたも早く!」
リンダが叫びに振り向きもせず、キングは何処か遠くを眺めている。リンダはその方向に海があることに気づいた。
(海から、何かがくるの……?)
キングが『野生の勘』で何かを察知しているのであれば、それはきっと正しいのだとリンダはすでに知っている。間違いなく、ここに何らかの脅威が迫っている。
「コンラッド! キングが!」
「放っておけ!」
「でも……!」
先にヘリコプターに乗り込んだコンラッドはリンダの手首を掴んで引き上げる。
「分かってるだろ、リンダ。キングは俺たちの世界では生きていけない……ヤツにとって俺たちの世界は狭すぎるんだ」
ドスン、と重いものが落ちる音にキングは振り返った。頑丈なジェラルミンの弾薬ケースが花壇にめり込んでいる。
「キング!」
リンダの張り上げた声にヘリコプターの方を見上げたキングは、続いて降ってきたM4を片手でキャッチした。
「死なないで!」
ローターの巻き起こす風にちぎり飛ばされる声に片手を挙げて答えてから、キングは手の中のM4に視線を落とし、新しい玩具を手にした子供のように、ニヤリと笑みを浮かべた。
「おい、アイツは民間人だろ? 銃や弾薬を渡すなんてどういうことだ? 軍法会議ものだぞ!」
悲鳴を上げるワン・リーをコンラッドは片手で制する。ヘリコプターはすでに上昇を始めており、地上に残ったキングの姿ももう判別できなくなっている。
「わかってる。たが、コイツは働きに対する正当な報酬なんだ。それに、アイツは民間人なんかじゃない」
コンラッドの言葉にワン・リーは訝しげな表情を浮かべた。
「民間人じゃなければなんだってんだ? 俺にはただのホームレスにしか見えないんだがな」
ワン・リーの言葉に答えたのは、未練を振り切るように勢いよくハッチを閉じたリンダだった。
「あれは……この街の『王』よ」
海から姿を現した巨大な影は降り頻る雨の中、竹芝桟橋に上陸し、そのまま北上を始めた。
巨大な水掻きのついた足で乗り捨てられた自動車を踏み潰し、まとわりつく送電線を引きちぎる巨体は全高二十メートルを優に超えている。そして、それは暗緑色の粘液を撒き散らしながら真っ直ぐに日比谷公園を目指しているようだった。山手線の線路をまたぎ越え、外堀通りへと進んでいく。
ダゴン。
大いなるクトゥルフの下僕にして、伝説にその名を記す大いなる魚神。聖書においてはペリシテ人の崇める神とされているが、サイズを除けばその姿は『深きもの』に酷似している……いや『深きもの』こそダゴンの血を分けた彼の眷属なのだ。
ダゴンを喚び、突き動かしているのは人間に虐殺された『深きもの』どもの断末魔の叫びだった。巨大な眼に怒りの炎を揺らしながら、ダゴンは無慈悲に東京を蹂躙していく。
「へぇ、オマエがあの魚人間どもの親玉か」
聴覚に飛び込んできた人間の言葉に、ダゴンは足を止めた。視線を落とすと、鉈とM4カービン銃で武装しただけの人間が逃げもせずに悠然と立ちはだかっている。
ダゴンには人間の言葉を理解することができないが、眼下の人間が自身の知る何者とも異なる個体であることは本能で理解できた。そもそもダゴンにとって人間とは自分を崇めるか、あるいは恐れ、逃げ惑うしか能のない貧弱な存在でしかなかったはずだ。
しかし、目の前の存在は違う。平然と自分を見上げるこの人間の眼からは畏敬も恐怖も感じられない。
ダゴンは唸り声を上げた。それはかつて人間に対して感じたことのない感情を自覚した証だった。
「……デカイな、コイツは食いでがありそうだ」
悠久の時を超えて存在する太古の魚神と対峙しながら、悪食の王は凄絶な笑みを浮かべた。
悪食王 蒼 隼大 @aoisyunta
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