第7話 たったひとつの、大切な物語

 


 文字を打ち込んでは消す。消しては書き直す。

 上手くいかなくて、今まで書き進めていた分を削除して、また新たに書き始める。

 


 病室のベッドの上で、大きく伸びをする。


 時間を確認すると、午後六時。目を覚ましたのは午前七時前だったから、食事の時間などを考慮しても、トータルで十時間ほど作業していたらしい。


 窓に目を向けると、すっかりと陽は沈んでいた。


「書き上げた分、渡しに行くか」


 そう思って、ノートパソコンのデータを上書き保存すると、タイミング悪く夕食が運ばれてきた。出鼻がくじかれるとはまさに。


 若干、納得しないまま食事に手をつける。病院の食事ってどうしてこう薄味なんだろう、なんて感想ももういい加減出てこない。思いの外、空腹を覚えていたことに、早く食べ終えたいという気持ちが加味されて、食事はあっという間に片付いた。


 ノートパソコンを携えて、車椅子を走らせる。


 三〇七号病室に着くと、彼女は今まさに食事中だった。 


「ちょっと待ってて。すぐに食べ終えるから」と食事のペースを上げる彼女を制止しつつ、僕はノートパソコンの電源を入れる。


 最近はこういう少しばかりの隙間も執筆作業にてるようになった。


 書き上げたいという気持ちは今まで書いてきた作品の比ではない。妥協もしたくなかった。全力で、想いを注いでいく。


「あまり、根詰め過ぎないでね?」

 沙希が心配そうに顔を伺ってくる。


 僕がこの作品に没頭している姿は何度か見られているけれど、その度に沙希は僕にそんな言葉をかける。


「大丈夫だよ。別に」

「本当に? 無理してない?」


 そんなに心配されるほど、僕って無理しているように見えるんだろうか。


「大丈夫だよ」もう一度、口にする。「それに、楽しいからさ」


 嘘偽りのない気持ちを添える。


 そう、楽しい。とても。

 僕の書いているこの作品は、本当にやりがいがある。素晴らしいものに仕上げたいって心から思う。


 夕食を食べ終えた沙希は、いつものように僕のノートパソコンを覗き込む。


 そこに描かれた物語は、僕と沙希の物語だった。

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